2020年9月1日火曜日

福音のポイント A年(急遽)

 主日日課と説教

1)主日の日課は、みことばを説き明かす者が自分の好みによって主題を選ぶのでなく、教

 会の暦に合わせて必要な主題を明らかにしてゆくために定められている。ことに待降節

 から三位一体主日に至る期間はそのことを注意してゆきたい。典礼色が緑の時期はそれ

 ぞれの年に選ばれた福音書の連続日課となっている。日課に出てこない箇所で関連して

 是非必要と思われる所を用いてもよい。但し日課を変更する場合は、それに応じて主日

 の祈りや詩編(もし用いるなら) を考えてゆくことが必要である。

2)日課の箇所に現れているすべての点を、説教の中に取り入れなくてはならないのではな

 い。会衆の必要と説教者の課題に応じて、必要なことを選んで展開すればよい。

3)ここに記されているのは、各主日の福音書の日課の要点であるが、決して日課のすべて

 の点を網羅しているわけではない。いろいろな聖書の注解書や説教を参考にすることが

 大切である。しかし、ことに待降節から三位一体主日に至る期間は、その日課が選ばれ

 た理由があることを考え、その点を踏まえることが必要だろう。

 ことに教会学校に用いようとする時には、主題を限定して多くのことにわたらないよう

 に注意したい。

4)このテキストがこの主日に選ばれている理由を考えると共に、その箇所が福音書の中で

 どういう脈絡の中に置かれているか、記事の前後関係をも見ておきたい。緑の期節で連

 続日課の時期であれば、聖書の前後関係と共に、聖書の箇所としては飛んでいる場合も

 あるから、前後の主日に連なる日課をも考えに入れて置く必要がある。また第二の日課

 はそれ自体の脈絡をもっている場合が多いが、少なくとも第一の旧約日課、主日の祈り

 などとの関係は注意をしておきたい。その主日の祈りの主題は、厳密にではないが聖書

 の主題に呼応しているはずなので、それも参考になる場合がある。

5)礼拝の説教、また教会の諸集会での勧めは、決して単なる聖書の研究ではない。その箇

 所についてのさまざまな解釈や言葉の意味を説明することでもない。自分たちの課題に

 対して、聖書がどのように言っているのかを聞いてゆく態度をもってゆかなくてはなら

 ない。そのために自分を含めて会衆の持っている悩みや課題を意識していることが必要

 である。基本的には、イエス・キリストの出来事の歴史を踏まえて、神の賜物と戒めを

 考えてゆく。もちろん神のことばには戒めの面と恵みの面とがあるが、説教は基本的に

 は福音、すなわち神の恵みを説き明かすことになるようにしたい。例話は、適切であれ

 ば理解を助ける大切な働きをするが、主題に則して考え、例話が主体にならないように

 注意したい。

6)自分で意図したようにでなく、別の意味で受け取られたりする場合があるから、聞いて

 分かるはっきりした組み立てを考えると共に、いつも表現に注意して聴衆を傷つけたり

 するようなことがないように留意したい。

待降節第1主日 マタイ21:1-11 イザヤ2:1-5 ローマ13:11-14

1)教会の暦は主を待ち望む待降節から始まる。待降節第一主日の日課は、枝の主日の日課

 と同じである。もちろん枝の主日の礼拝をどのように構成するかは別の課題であるが、

 それは主の来臨が十字架に向けての来臨であったことを覚えさせる。使徒信条は「おと

 めマリアより生まれ」から直ちに受難と十字架に進んでいる。主を待望するのは決して

 誕生の喜びを待つだけではない。

2)主イエスは最後のエルサレム入城に際して、柔和なろばの子に乗られた。平和の主の性

 格を示している。イザヤ9:5 、ルカ2:14参照。ろばの子は、恐らく旅人のために要所要

 所にたむろするろばの中にいたのであろう。「主がお入り用」という言葉は、当時の人

 々がどう聞いたかは別として、本当の意味で大変な召命であり、キリストを証しするも

 のとして用いられた。

3)預言の成就。「娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んでくる」(イザヤ62:11 )

 シオンの町エルサレム、ひいては神の民は主が尋ね求められるものにほかならない。見

 よ、あなたの王は、「高ぶることなく、ろばに乗ってくる」(ゼカリヤ9:9)。二つの預

 言者の言葉が重ねて引かれる。軍馬に乗って来るのでなく、荷を負うろばの子に乗る王

 である。マタイは、主イエスの出来事が偶然的でなく、旧約の預言の実現であることを

 繰り返し注意している。そして「あなたの救い」、「お前の王」が来ると、神からの恵

 みの支配の到来であることが告げられる。

4)群衆は、イエスの前後につきしたがって歓迎した。しかし同じ週のうちに、エルサレム

 の群衆は「十字架につけろ」と叫んだ。もちろん集まっていた人は違っていたのかもし

 れない。しかしいずれにしても、彼らのイメージは政治的なメシア像ではなかったか。

 そして主イエスの来臨の本当の姿を見ているのかどうかが問われる。「いったいこれは

 どういう人か」と騒いだのも、どういう関心からだったろうか。それは今日クリスマス

 を迎える人々の騒ぎに類似していないだろうか。主を迎えた人々は「ガリラヤのナザレ

 から出た預言者イエスだ」と答えたが、私たちはどう答えることができるだろうか。

5)「ホサナ」は今救いたまえ、の意で万歳という歓呼と同じように用いられた。「主の名

 によって来られる方に祝福があるように」(詩編118:26) という言葉は、詩編では巡礼

 の人々をエルサレムの城内から歓迎する人々が、巡礼者たちの歌に応答する声である。

 つまり主を信じて神殿にやって来た人々への祝福にほかならない。しかし、福音書では

 逆に人の世界に神から来るお方を迎え、歓迎する言葉となっているといってよい。そし

 て後にエルサレムのために嘆かれた主は、「お前たちは、『主の名によって来られる方

 に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない」

 (マタイ23:39)と言われた。そして私たちは、聖餐式において、サンクトゥスと結び付

 けてこの言葉を歌っている。

待降節第2 主日 マタイ3:1-12  イザヤ11:1-10 ローマ15:4-13 

1)私たちは待降節を迎えているが、それは単純にイエス誕生以前の時代に戻って考えるの

 でない。むしろ常に私たちに到来する主の働きの意味を考えなくてはならない。第二主

 日はイエスの公生涯の前触れとなった洗礼者ヨハネの働きが主題となる。

2)ヨハネはヨルダン川で悔い改めの洗礼を説き、人々は彼のもとに来て、罪を告白し、洗

 礼を受けた。当時の、厳格に宗教的伝統を守って救いを得ようとしたファリサイ人、聖

 書に戒められていること以外は比較的自由にしようとして権力者とも妥協したサドカイ

 人という有力二派の人々も来た。それだけ人々に訴える力を持っていたのである。ヨハ

 ネは表面的な悔い改めでなく、悔い改めにふさわしい実をむすべと迫った。

3)罪の告白は、礼拝の初めに繰り返されるのに、私たちにもいつも問題である。何を罪と

 感じているのか。それはただ十戒を初めとする神の戒めに添わない生活をしているとい

 うことだけではない。いつも神から離れて自分中心の生活を送っていることを承認する

 ことにほかならない。しかも、それを神の前に自分の咎として、赦しを願うのである。

4)自分たちはアブラハムの子孫だということは、神関係においては何も保証しない。血縁

 関係にあるとか、外的な資格はその人の信仰を保証しない。だれもが自分自身で生きた

 神との関係を保ち、よい実を結ぶことが求められている。ヨハネは悔い改めて洗礼を受

 け、神のみ心に添う生活をなすべきことを教えたのである。

5)同時にヨハネは、自分の後に来る方を指し示した。その方はヨハネのように水の洗礼で

 なく、聖霊と火で洗礼を授けられる。外側からでなく、内的に、しかし神から霊的な力

 を受けることが出来るようにされる。火は人の罪を燃やし尽くして清める力を指してい

 る。それにはみ霊が炎のように現れ、各人の上に留まった聖霊降臨に日の出来事が対応

 する( 言行録2:1-4)。しかし聖霊と火による洗礼は、教会において三位一体の神に結び

 付けられる洗礼とは別の出来事を経験することではない。イエス・キリストの名によっ

 て洗礼を受けることの結果にほかならない。言行録2:38,19:1-6 参照。

6)洗礼者ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締めていた。それは預言者エリヤの

 姿を彷彿とさせる( 列王下1:8)。エリヤは預言者の代表的な人物であったばかりでなく

 主の日の前にエリヤが再び来ると信じられていたから( マラキ3:23) 、福音書の中にも

 しばしば現れる。

7)ヨハネの「悔い改めよ。天の国は近づいた」という呼びかけは、主イエスの宣教と同じ

 である。マタイ4:17。しかし主イエスにおいて到来した天の国(マルコでは神の国) へ

 の態度は必然的にヨハネとイエスでは違う。ヨハネは主イエスを指し示し、主は天の国

 をもたらされた。天国を死後の国にしてはならない。近づいたのは、遠い距離の中であ

 る程度接近したというよりは、側に来たということ表す。引かれているイザヤ40:3はそ

 の道が主のための道であることを明らかにしている。

待降節第3 主日  マタイ1:18-23  イザヤ7:10-14  ローマ1:1-7 

1)主イエス来臨の意義を考えた上で、今日の福音書で主の誕生の次第が告げられる。主の

 誕生の物語は、マタイとルカによって記されている。そしてマタイはヨセフを主体にし

 て語っている。ヨセフは婚約者のマリアが身ごもったと知り、ひそかに離縁しようと考

 えた。マリアを疑ったが、公にしてマリアを責めることを欲しなかったのか、あるいは

 マリアの懐胎に神の力を見て、恐れたからかもしれない。

2)しかし主の天使は夢でヨセフに現れて、妻マリアを入れることを恐れるな、彼女の胎の

 子は聖霊によって宿ったからだ、と言う。むしろ積極的に将来を考え、生まれる男の子

 をイエスと名付けることまで指示される。イエスはヨシュアのギリシャ音訳で、「神は

 救い」という意味である。この幼子イエスこそは、自分の民を罪から救う働きをするか

 らである。もちろんその名は旧約聖書にも現れる族長の名でもあり、新約聖書にもほか

 に例がないわけではない(コロサイ4:11、マタイ27:17)。いずれにせよヨセフは天使の

 命令通りにし、告げられた「イエス」という名を生まれた子に与えた。キリストと言わ

 れるのは、もちろん名字ではなくて救い主メシヤであるという称号にほかならない。そ

 れと共に、引かれているイザヤ書の言葉は、「インマヌエル」と呼ばれると言う。それ

 が特に呼び名になったわけではないが、私たちにとっての主イエスの存在の意味を示し

 ている。預言者の直接に意味したこととは別に、主イエスは正しく「神はわれわれと共

 におられる」ことのしるしであったし、今もそうありつづける。「主の天使」は、新約

 聖書では、主としてイエスご自身の誕生と復活の際に現れて、人々にその意味を説く働

 きをする。それ自体の存在よりも、その働きに注意しなくてはならない。

3)すぐれた人の誕生にさまざまな奇跡譚はつきものであるが、キリスト・イエスの場合に

 「おとめマリアより生まれ」という信仰告白は、人間の救いのために、神が人の世界に

 介入して来られたことを示していることを考えなくてはならない。引用されたイザヤ7:

 14にある「おとめ」は直接には若い女を指していて、必ずしも処女の意味ではない。し

 かし福音書は主の処女降誕の典拠として引いている。

4)主の誕生の記述において、ルカはむしろマリアを中心に見ているが、マタイはヨセフを

 軸に記している。それは、男系を軸として見たユダヤ人の考えの中で、主イエスがダビ

 デの血筋の中に来られたことを強調することになっている。マタイとルカは処女降誕を

 語っているけれども、マタイもルカ(3 章) も、ヨセフの系図を主イエスの系図として

 示している。

5)マタイはしばしば、旧約の預言が主イエスの出来事において成就したことを注意してい

 る。ここでも、イザヤ7 章14節が引用されている。しかし、必ずしも旧約の時代におけ

 る考え方に従っているのではなく、逆にイエスの出来事から旧約の言葉を考えているの

 である。

待降節第4 主日    ルカ1:46-55  サムエル上 2:1-10 ローマ2:17-29 

1)待降節第四主日には、いずれの年にも主の降誕にまつわる讃歌が引かれている。新約聖

 書には特にルカ1,2 章と黙示録に讃歌が収められている。それはいずれも主の来臨にか

 かわる箇所となっている。できるだけ、第四主日を待降節として守り、25日を降誕日と

 して守るのがよいが、もし会衆の都合によってこの主日に降誕祭を守るのならば、日課

 も典礼色も降誕祭のものにした方がよい。

2)日課の箇所はいわゆるマリアの讃歌である。受胎告知を受けたマリアが、洗礼者ヨハネ

 の母たるべきエリザベトを訪れた。エリザベトは「あなたは女の中で祝福された方」と

 マリアを祝福した。それに対してマリアはこの讃歌を歌った。天使の「おめでとう、恵

 まれた方」という言葉とエリザベトの祝福の言葉を重ねて、いわゆる「アベ・マリア」

 の言葉がある。但しそれは続けて、今も臨終の時もマリアが自分たちのために執り成し

 祈ってくれるように、マリアに対して祈り求めた。しかし、マリアの讃歌はマリアを讃

 美するのではなく、むしろマリアが神を讃美しているのである。

3)宗教改革はマリア崇拝を否定したが、それはこうしたマリアへの祈りを否定したのであ

 って、マリアは依然として信仰者の典型と言える。彼女は神が言われたことは必ず実現

 すると信じていたし、たとえ自分の理解に余っても、神のみわざが具体的に自分自身の

 内に生命をもって成長しているのを感じていた。それはみことばを受けた信仰者の有り

 様でもある。

4)改革者ルターは、1520年に『マグニフィカート』( 主をあがめるというラテン語の最初

 の出だしから、この歌はこう呼ばれる) の講解を書いた。しかし、それは若い領主への

 心得のような性格を持っていた。この歌の内容は、単に個人的な心の奥での信仰だけで

 はなく、具体的な生活、社会的なあり方まで含んでいる。身分の低い彼女が顧みられた

 というだけでなく、軽んじられ、見捨てられたような存在に、神は目をとめて、これを

 通してその救いのわざをなされる。人の価値によらず、ひたすら神の恵みが働いている

 ことを考えなくてはならない。

5)マリアの讃歌とサムエルという子宝に恵まれたハンナの讃歌( サムエル上2:1-10) とは

 多くの類似があるので、キリスト教以前の讃歌、ないしユダヤ・キリスト教的敬虔の所

 産とも考えられる。マリアははしためである自分にも目をとめてくださった神を讃美す

 る。しかし、この場合は単に子宝に恵まれたというのでなく、人間的には難しい状況に

 なるけれども、しかしそれによって神の救いのみわざが人々の中に実現するという讃美

 であり、そのために彼女が用いられるように、目をとめられたという感謝である。神の

 みわざは社会的な構造を引っ繰り返してしまう。そして飢えた人がよい物で満たされ、

 富んだ人が追い返されるようになる。キリストの出来事は、こうした革新を引き起こさ

 ずにいない。しかし、それはまさに僕イスラエルに対する憐れみのみわざである。

降誕祭(夜) ルカ2:1-20 イザヤ9:1-6 テトス2:11-14 

1)ルカはローマの歴史の中に、すなわち世界の歴史の中にイエス・キリストの出来事を位

 置付ける。それは皇帝アウグストウスの時代であった。人口調査は兵役のために力を計

 ることと、税金を取り立てるためであった。ユダヤ人はローマの兵役は免れていたから

 主として税金のためということになる。ダビデが人口調査をしようとした時、それは神

 に頼らず人の力を計算しようとするわざとして罰せられた(サムエル下24章) 。しかし

 ローマのそれはすでに社会は進んでいたし、イスラエルの仕事ではなかった。

2)ヨセフは人口調査の登録のためにベツレヘムに行った。ベツレヘムはダビデがサムエル

 に見いだされた所である( サムエル上16章) 。サムエルがエッサイの子らを外見で計ろ

 うとした時、羊の番をしていたダビデが神の意にかなう者として選ばれた。主イエスの

 誕生を、初代の信仰者たちはダビデの子孫に約束された王の到来( サムエル下7 章) と

 して受け止めたのである。

3)旅の中で、宿る所もなくて家畜小屋で、イエスは誕生され、飼い葉桶に寝かされた。神

 の救いの出来事であったのに、人の世界に辛うじて入り込んだという状況であった。そ

 れは歴史的状況というだけでなく、繰り返し信仰者たちの心に実感された。多くの讃美

 歌がそのことを歌いだしている。そして私たちも天軍が讃美したと同じように、「いと

 高きところには栄光、神にあれ」( グロリア・イン・エキセルシス・デオ) と歌う。ク

 リスマスの讃美歌においてだけではない。いつも礼拝式文の中で繰り返している。それ

 はクリスマスの喜びがつねに新たに私たちのうちに思いかえされるためである。

4)しかし、この主の来臨を告げ知らされたのは、野宿しながら羊の番をしていた羊飼いた

 ちであった。彼らは定められた祭儀的習慣を守ることなどできない、羊によって自分た

 ちの生活が左右されるような日常であったが、人に知られず自分たちの仕事に従事し、

 役目を果していた中で、天使の告知を聞いたのである。そして生まれた赤ん坊は、羊の

 ために命を捨てたよい羊飼いであり、神の小羊として犠牲に捧げられたお方であった。

5)み使いは彼らに「あなたがたのための救い主」の誕生を告げ、讃美の歌を歌った。それ

 は彼らと無縁な出来事ではなかった。彼らはそれをどう迎えたらよいのかも分からず、

 知らされた出来事に参与し、自ら実感しようとして、立ち上がって出掛けた。それが神

 の賜物として与えられたものであったからである。

6)飼い葉桶に寝ている乳飲み子の姿がみ使いが告げた救い主のしるしであった。貧しく低

 い姿の中に来られた主であった。「彼はほんとうの赤ん坊でした。肉と血を備え、手と

 足のある赤ん坊でした。よく眠り、泣き、罪が全くないという点を別にして、およそ赤

 ん坊のすることはみなやってのけました。」「主は肉と血をそなえた人の子として女か

 ら生まれたもうたのです。私もまたマリヤの子であると誇ってもよいのです。これこそ

 この祝日のただ一つの祝い方です。」(ルター) 。

降誕祭(朝) ヨハネ1:1-14  イザヤ52:7-10 ヘブライ1:1-9 

1)主イエスの誕生は、降誕┣〓神の身分でありながら、この世にくだり、自分を無にして

 僕の身分になり、人間と同じ者になられた(フィリピ2:6,7)ことであった。しかもそれ

 は私たちの救いのためであったから、私たちもまた喜び祝う。単に遠い過去の宗教的偉

 人の誕生を記念するということではない。

2)日課はヨハネ福音書の序文に当たる箇所で、独特な言葉が用いられている。そして二千

 前の時代というだけでなく、遠く創世記の書き出しを連想させる。主イエスの誕生は偶

 然の出来事でなく、神のご計画の中で起こった。しかもこの世に命を与える新しい創造

 のみわざであった。言(ことば) と訳されたのはもちろん神の言葉であり、その人格化

 である。神はそのみ言葉によってすべてを造られた。人格的な意志の表明と交わりの手

 段としての神の言葉は、イエス・キリストにおいて具体的な姿をとったのである。

3)天地創造の時に神はまず「光あれ」と言って光を造られた。それが最初の創造であった

 が、キリストはすべてのものの前に生まれ、すべては御子にあって造られた(コロサイ

 1:15以下) 。言についても命や光についても、聖書はそのもともとの姿や起源を詮索す

 るのでなく、むしろそれが私たちにどのような働きをするのかを示している。言である

 キリストにおいて、神の新しい創造が始められた。暗闇に住む民が大きな光をキリスト

 において見た(マタイ4:16) 。そこに神の意志が示され、人間は本当に生きる命を与え

 られる。

4)神の創造の言は、今や肉をとって、私たちの間に宿られた。私たちの心を住まいとして

 主が来てくださるように、私たちはしばしば讃美歌の中でも歌う。しかし、主はまず私

 たちの「間」に宿られたのである。それは人間の間に生きる一個の人格として来られた

 ことを意味している。宿るという意味も、もともと天幕を張ることにほかならない。神

 の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住んでくださる(黙示21:3) 。終末の出来事が

 主イエスによって今の私たちの出来事となる。ヨハネは御子の本来の姿の輝き(栄光) 

 を見たと言う。主ご自身が、子の栄光を表してくださいと神に祈られたのは、十字架の

 出来事の直前であった(ヨハネ17:1) 。それが神の独り子の栄光、本来の在り方の輝き

 だったのである。

5)神の言は、イエスのみ姿としてこの世に来た。人々はそれを認めることができなかった

 けれども、そこに神の独り子としての栄光がある。しかし、この独り子はただ独りでお

 られるお方ではなかった。自分を受け入れた人、その名を信じる人々に神の子(たち)

 となる資格を与えられた。み子を信じ、受け入れた者は、神の子となり、キリストと共

 同の神の相続人とされるのである(ローマ8:14-17)。降誕祭はイエス・キリストの誕生

 を祝うだけではない。このお方によって私たちも神の子たちになれることを祝う。独り

 子誕生の祝いはまた神の子たち誕生の祝いでもある。

 











降誕後主日 マタイ2:13-23  イザヤ63:7-9 ガラテヤ4:4-7 

1)伝統的に12月26日はステファノ殉教の日、28日はベツレヘムの幼児殉教の日とされて来

 た。主の誕生が手放しの喜びでなく、受難への誕生であったことが覚えられたのと同様

 に、それが人々の中に引き起こした受難を示している。主イエスを迎えた喜びは、人間

 の中にはとげとして残るような出来事にほかならない。したがって、それを取り除こう

 とする力も働いたのである。

2)イエス誕生の前に夢でヨセフに現れた天使は、誕生の後再び現れ、エジプトへの逃避行

 を命じた。そしてこの場合もヨセフは従順に従った。それは時のユダヤの王ヘロデが新

 しいメシア王誕生の噂を聞いて不安になり、ベツレヘムの幼児を殺そうとしたからであ

 る。その契機は、東から来た占星術の学者たちが、事情をよくわきまえないままエルサ

 レムでイエスの誕生について聞いたことであった。学者の出来事は顕現日の日課になる

 ので、聖書の記述としては前後する。ヘロデは、自分の権力を脅かすのではないかと思

 い始めると、妻や三人の息子をも含め、身内の者も容赦なく粛清した残虐な王として知

 られる。それに反して聖家族は神に守られてエジプトへと逃れることができた。但しそ

 れは、イエスが十字架の死へと守られるためであった。聖家族は、その主の贖いによっ

 て子とされ、天の父のみ心を行うすべての人を包み込む信仰の家族へと発展する。

3)ヨセフの時代に、ヤコブの一族はエジプトに逃れることによって飢饉の危機を免れた。

 しかし400 年ほどの間に、寄留したエジプトでは奴隷の生活に甘んじなくてはならなく

 なっていた。神は彼らの叫びを聞き、モーセによってエジプトの地からの脱出を導かれ

 た。出エジプトは彼らが神の導きのもとにあると信じる信仰の原点でもあり、モーセは

 そのために神から遣わされた人と受け取られた。このイスラエルの歴史に重ねて、主イ

 エスのエジプト逃避と呼び出しがある。マタイは「エジプトから彼を呼び出し、わが子

 とした」(ホセア11:2) という言葉を主イエスの出来事に重ねて見ている。

4)ヘロデは学者たちに、新しい王として生まれたというお方の誕生を詳しく知らせるよう

 に命じたのに、彼らが帰って来なかったのを怒り、ベツレヘム周辺に住んでいた二歳以

 下の男の子を一人残らず殺させた。もちろん当時のベツレヘムにそれほど多くの小さい

 子どもがいたわけではないだろう。ある人は2,30人だったろうかと推測している。それ

 が何人であったにせよ、殺された家族にとっての悲劇はおなじである。

 マタイが引いているエレミヤ31章の言葉は、もともとはこのような出来事と特別な関係

 はない。ラケルはヤコブの妻であったが、ベニヤミンを産んだ時に難産で亡くなり、ベ

 ツレヘムへ向かう道の傍らに葬られた(創世35章) 。エレミヤの時代にバビロニヤに捕

 囚として引かれてゆくイスラエルの人々の姿を嘆いて、預言者はラケルの泣く声を語っ

 た。場所がベツレヘムということで、マタイはこの言葉を引いて、同じようにラケルが

 嘆くさまを考え、預言とその実現を見ているのである。

主の命名日    ルカ2:21-24  民数6:22-27 ・ペトロ1:1-11

1)主イエスは、ユダヤ人の習慣にしたがって生後8 日目に割礼を受け、命名された。教会

 の暦では割礼日あるいは命名日として守られたが、ユダヤ教の中での割礼はキリスト教

 会の中で守られて来なかったから、命名の方が主体となって記念されている。ローマ教

 会では現在むしろマリアの日とされている。日課は従来主の被献日(神に献げるため、

 神殿に連れて来られた日、2 月2 日に守られた) として守られた日課の一部を含んでい

 る。わが国では新年礼拝として守られることが多いが、その意味での礼拝とするなら、

 新年礼拝の日課にした方がよい。

2)主イエスはみ使いが予めヨセフに告げたように、イエスと名付けられた。イエスの名は

 ヨシュアの音をギリシャ語に写したものである。もともと「神は救い」という意味にな

 る。両方とも日本語的に音を写すと、さらに分かりにくい。明治の始めの宣教医として

 活躍したヘボンと、全く同じ綴りの女優をヘップバーンと呼ぶようにしたように、日本

 語に写す場合でも相当隔たりが生じる。

3)聖書の人物においては、しばしば名前はその内容を示す重要な役割を担う。また新しい

 歩みをする時に、新しい名前が与えられた場合もある。シモンは主によってペトロと呼

 ぶようにされた。しかし、旧約におけるヨシュアとしてはもちろん、ほかに同じ名前の

 者があり得るイエスという名前は(コロサイ4:11、マタイ27:17)、「神は救い」という

 気持ちを特別な意味で実現されたということと共に、ほかの人と同じように呼ばれた一

 人の人として人間社会の中に来られた主を示していると言うことができる。

4)私たちにとっては、主をイエスと呼ぶことができるのは、その実際の歴史における人物

 として存在されたことだけでなく、親しく呼びかけることを許されたという意味で有り

 難いことに違いない。預言者は「わたしは主、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神で

 ある」(イザヤ45:3) と神の宣言を伝えたが、私たちが名指しで呼び求められるだけで

 なく、私たちの側から救い主を呼び求めることができる。「わたしを呼ぶがよい。苦難

 の日、わたしはお前を救おう」(詩編50:15)と言われた神であるが、さらに救い主が私

 たちの呼びかけの相手となってくださるのである。

5)神がその名をとどめると言われたエルサレムの神殿は、いわば神の存在の出張所的な意

 義を負わせられた(列王上8:29) 。そして主イエスは神の恵みの働きをもたらすお方と

 して、私たちの中にその名をとどめてくださる。私たちが仰ぎ見るのは、無名の原理で

 はなくて、呼びかけることのできるお方なのである。人の世に誕生された救い主が、さ

 らに一つの名をもって呼ばれるようになった。「主はわたしに耳を傾けてくださる。生

 涯、わたしは主を呼ぼう」(詩116:2)。降誕された救い主に名が与えられたという音信

 をもって、私たちは一年の歩みを始めることを許される。このお方は「主を呼ぶ人すべ

 てに近くいます」(詩145:18) のである。

新年    ルカ13:6-9  エレミヤ24:1-7  ・ペトロ1:22-25 

1)教会の暦は待降節から新年が始まる。しかし私たちの実際的な生活の区切りは12月から

 1 月への新年ということができる。新年の区切りをどこにするかは、民族により地方に

 より異なった。現在のように1 月に考えるのはユリウス・カイサルによりローマで定め

 られた暦による(前45頃) 。イスラエルでも、宗教的な新年は過ぎ越しの出来事を含む

 月に始まった(出エジプト12:1) 。しかし政治的な新年はバビロニアの影響を受けて、

 9 月に守られる。この正月に関連して多くの行事があり新年の詩編が残された。天地創

 造や王の改めての戴冠が記念された。贖罪の日や仮庵祭も関連して続いた。時の区切り

 に過ぎないが、それは神との関係の中で自分自身の区切りを考える時としたい。

2)日課はルカ特有の箇所で、ピラトがガリラヤ人を犠牲にしたという、その詳細は分から

 ない出来事、またシロアムの塔は、エルサレムの地下水道をくぐり抜けた水の出口を守

 る要塞の塔が倒れて犠牲者が出たということを指している。思わぬ災害に見舞われたの

 は、人々への警告であって、被害にあった人々が特に罰を受けるに値したというのでは

 ない。その当事者の問題として考えたがる人間に対して、主はだれもが悔い改めること

 が必要だということを示された。その脈絡の上でいちじくの譬えが話された。

3)ぶどうもいちじくもパレスティナの重要な果樹であり、しばしばイスラエルに例えられ

 た。ぶどう園にいちじくが植えられているのは、世話が行き届くようにされていたのか

 もしれない。ミカ4:4 にはぶどうといちじくが並行して語られる。ここでは神の畑であ

 るぶどう園に、イスラエルを示すいちじくの木が植えられていたことを暗示している。

4)イスラエルが神を神として、神の民としての実際を示すように、そうでないと滅ぼされ

 てしまうという教訓が、主がいちじくの木に実を求められたのになかったので、呪われ

 枯れたという出来事(マルコ11:12-14,20-22) に示された。ここでも悔い改めて、悔い

 改めにふさわしい実を結ばなければ、滅びてしまうことが警告されている。しかし、こ

 こでの強調はその点にあるのではない。むしろ園丁が主人に執り成して、猶予を乞うた

 ように、神への執り成しをしてくださるイエスと、その神の忍耐の間に悔い改めるべき

 ことが教えられている。

5)主人はもう三年もの間、いちじくの実を探しに来た。いちじくの木の成長にどれほどの

 年月がかかるかという実際的な計算よりも、三という完全数を示して徹底的に探し、待

 って来たということが意味されていると思われる。信仰と愛と忍耐という並列は、しば

 しば聖書の中に現れる(テトス2;2,黙示2:19) 。人の側での忍耐も必要だが、ここでは

 神の側での忍耐が言われている。神は今まで人の犯した罪を見逃して、忍耐してこられ

 た。そしてその解決として、キリスト・イエスの犠牲があったのだと、パウロは言って

 いる(ローマ3;25以下) 。私たちの歩みは、このいちじくの木のようだが、主の執り成

 しのうちに、今年は少しでも実のなるように努めたい。

顕現主日  マタイ2:1-12 イザヤ60:1-6 エフェソ3:1-12

1)主の顕現日は、1 月6 日に守られる。この日以前は降誕節であって、降誕祭の飾り物も

 保たれてよい。もともとはこの日も東方では主誕生の記念を意味していたが、次第に異

 邦人にも現れたもうたことを記念するようになった。6 日は主日に限らないから、近く

 の主日に移して記念される。

2)主イエスがすべての人に現れたことを記念するために、東方の学者たちの来訪記事が用

 いられる。「三人」の博士と言い習わしてきたが、三人というのは3 世紀のオリゲネス

 によるとされ、三種の贈り物による推察に過ぎない。マギを、新共同訳は博士ではなく

 「占星術の学者」とした。よい意味では天文学者、わるい意味では魔術師とも考えられ

 る語である。古代の天文学は多分に占星術に関連していたが、占いは旧約でも厳しく戒

 められている。ただ神のみわざが自然界にも特別なしるしを伴うことはあり得る。一般

 に、占う者は自分を局外者とするのに、彼らは自分たちが旅をして主イエスに出会おう

 とした。それは一般的な占う者の域を越えていると言える。ヤコブから一つの星が進み

 出る(民数24:17)といった旧約の言葉も影響を与えたであろう。ある地方では博士でな

 く「王」として「三王」を考えた。それは詩72:10,11を関連させて見たのである。

3)彼らが捧げた黄金、乳香、没薬は、主が王であること、礼拝さるべきお方であること、

 十字架の死の備え(ヨハネ19:39)を示すとされる。あるいはそれらは占星術に用いられ

 た道具で、学者たちが占いの道具を捧げて、新たな生活に入ったという意味にも解され

 る。彼らはエルサレムに来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」の居場所を尋

 ねた。それは自分の王位を守ることに心を配り、疑わしい者は肉親でも容赦なく殺した

 ヘロデ王にとっては、衝撃的な問いであったに違いない。それでもヘロデの問いに対し

 て、律法学者たちはミカ5 章の預言を引いてそれがベツレヘムに違いないとした。

4)星に導かれてきた学者たちも、最後は聖書の言葉によって場所を示された。そして遂に

 ベツレヘムで幼子とマリアに出会い、ひれ伏して幼子を拝んだ。ヘロデが、自分も拝み

 にゆくから、その場所を詳しく教えよ、と言ったのは、もちろんそれを亡き者にするた

 めである。しかし、彼らはヘロデのもとに帰るなという夢のお告げを受けて「別の道」

 を通って帰った。夢でのお告げの意味や可能性よりも、彼らが星に導かれたのに、今度

 はヨセフの場合と同じように夢でのお告げ(マタイ1:20,2:19)を受けたということに意

 味がある。それまでの歩みとは違ったのである。彼らは幼子イエスに出会って新しい歩

 みをするようになった。そしてそれは、すべての民に救い主とて現れてくださった主に

 出会ったからにほかならない。有名なデューラーの「三王礼拝の図」が、三人を白人、

 黒人、アジア人、また老年、壮年、青年に描き分けているのは、この出来事がどういう

 意味で理解されたのかを示している。そして少数の特別な者たちが誕生の主のもとにや

 って来たのに対して、復活の主はすべての民のために弟子たちを送りだされた。

主の洗礼日 マタイ3:13-17  イザヤ42:1-7 使徒10:34-38

1)顕現節には主イエスが公生涯に現れてくださった時、すなわち洗礼者ヨハネのもとで洗

 礼を受けられた時を覚えることが一つの課題となる。ヨハネの働きについては既に待降

 節に日課があったので、それに続く内容となる。またヨハネの主への問い、主のヨハネ

 評価が記されるマタイ11章は日課に出てこないので、参考にしてもよい。ヨハネの洗礼

 とキリスト教会の洗礼の相違については、言行録19章をも参照したい。

2)洗礼者ヨハネは主イエス誕生の少し前に生まれ、主イエスに先立ってヨルダン川で悔い

 改めの洗礼を宣教した。ガリラヤを出てそのヨハネのもとに現れた主イエスは、彼に洗

 礼を受けることを願われた。ヨハネはこの方が自分のあとから来る方で、自分はその方

 の履物をお脱がせする値打ちもないことを知っている(3:11)。ヨハネの洗礼が「罪に赦

 しを受けるため」であったことはマタイは記さない。その表現には、キリスト教的理解

 が被せられているのかもしれない。もしイエスが期待したお方であるなら、悔い改めも

 赦しを受ける必要もない。したがってヨハネの洗礼のもとに来られる必然性はない。だ

 からヨハネは思い止まらせようとした。自分の方こそ、この方から洗礼を受けるべきだ

 と言う。しかし、主は「今はとめないでほしい。正しいことをすべて行うのは、われわ

 れにふさわしい」と言われた。「われわれ」というのは恐らく、ヨハネもイエスも群衆

 をも含めており、神と人との間で正しいこと(義) としてイエスが洗礼を受けられるこ

 とが語られる。それは主が人々の仲間また代表であることを示唆していると言える。

3)そして主が洗礼を受けられたとき、天が開いて、神の霊が鳩のように自分にくだってく

 るのをご覧になった。「これはわたしの愛する子」という声も、それを聞かれたのは主

 ご自身である。その言葉の元となる詩2:7 は神の子であることを、イザヤ42:1は「主の

 僕」を示唆する。神の霊は主イエスの懐胎の時から働いたのであって(マタイ1:18) 、

 この時に初めて下って、それによって御子たることが始まったというのではない。しか

 し、主イエスは自覚的に神の子としての歩みをし始められるのである。

4)ヨハネの洗礼は悔い改めのしるしであった。しかし主イエスの名による洗礼は、人が神

 と一つにされて、神の力で歩みはじめることができるようにする。それは自分の力や決

 心を越えて、聖霊の働きによる。それを可能にしたのは、主ご自身の贖いの働きであっ

 た。そして主は人々の列に立って、ヨハネの洗礼を受けることにより、私たちが主の死

 と生に与かり、新しい歩みをすることができるようにされた。私たちもまた洗礼におい

 て、「これは私の愛する子、私の心にかなう者」という神の宣言を聞くことができるよ

 うにされるのである。そして主のみ名による洗礼は、「われわれのうちにある古いアダ

 ムが、毎日の心の痛みと悔い改めによって、すべての罪と、悪い欲望とともに溺れてし

 ななければならず。また義と純潔とをもって、とこしえに生きるべき新しい人が日毎に

 現れ、よみがえることを意味」する(小教理) のである。

変容主日    マタイ17:1-9 出エジプト34:29-35  ・ペトロ1:16-19 

1)宗教改革の時から、主の変容の出来事は顕現節の終わりに記念されるようになった。福

 音書の記述においてもこれは主の働きの頂点となり、この前後から主ご自身によって受

 難が告げられる。連続日課は一時中断し、復活のサイクルに入り、三位一体主日ののち

 に続くことになる。

2)フィリポ・カイザリア地方での弟子たちによる主イエスの告白(マタイ16:13 以下) に

 応える形で、その六日ののち、主の栄光の姿が弟子たちに見させられた。しかしそれは

 12弟子の中でも主に近い三人のグループに限られていた。主の本来のみ姿は、受難と復

 活の後まで弟子たちにも保留されていた。しかし神は、主の天的な姿をかいま見せられ

 ることによって、主が現実の生活の中にあって受難を語られる時に、彼らの主に対する

 信仰を励まされたのである。それは神の後ろを見たモーセ(出33:23)、ホレブの洞穴の

 エリヤ(列王上19:13)の経験にも似ている。のちに、ペトロはそれが作り話でなく真に

 「キリストの威光を目撃した」(・ペトロ1:16) 出来事であったと証言し、ヨハネは復

 活の主のみ姿が「顔は強く輝く太陽のよう」(黙示1:16) であったと言っている。

3)高い山の上で、主のみ顔も衣も輝いて、その神的本質が弟子たちに示された。モーセと

 エリヤが現れたこともそれを示している。モーセは律法の代表者であり、エリヤは預言

 者を代表する者である。ことにエリヤは、メシヤ出現に際して先駆をなして現れると考

 えられていた。両者とも、山で神と出会う体験をもっている。モーセはピスガの山から

 約束の地を見ることができたが、自分ではそこに入ることができず、モアブの地に葬ら

 れた。しかし誰も葬られた場所を知らない(申命34章) 。エリヤは火の戦車で天に上っ

 てこの世から取り去られ(列王下2 章) 、通常の死と葬りの記事はない。彼らは「イエ

 スがエルサレムで遂げようとしておられる最期」(ルカ9:31) について話していた。し

 かしペトロはなお三人を同じレベルでしか見ていなかった。

4)神の臨在を示す光り輝く雲は、ペトロの人間的な理解を拒否するように三人の姿を隠し

 た。そして「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者。これに聞け」という声

 が聞こえた。それは主イエスがご自身の洗礼の際に聞かれた言葉と同じである。しかし

 ここでは人々に対して語られており、「これに聞け」と付け加えられている。旧約の代

 表者たちを越えて、神のみ子であるイエスにこそ聞くべきだと示されたのである。これ

 は主イエスが現れたもうた意味を集約する出来事であり、言葉である。

5)神の臨在の前に恐れてひれ伏した弟子たちに、主イエスは近づいて、手を触れて励まさ

 れた。主が彼らに近づいて来られたのは、この箇所と復活の主が最後に弟子たちに使命

 を与えられたとき(マタイ28:18)である。この変貌の出来事が、復活の主の顕現と結び

 ついて語られたことを暗示しているのかもしれない。いずれにせよ、私たちが接するこ

 とができるのは、弟子たちに手を触れ、励ましてくださる主以外ではない。

顕現節第3 主日    マタイ4:12-17  アモス3:1-8 ・コリント1:10-17 

1)主イエスが洗礼を受けたのち、荒れ野の誘惑を受けられたが、その記事は四旬節第一主

 日の日課となる。ここでは主がガリラヤで伝道を始められたことが語られる。その契機

 は洗礼者ヨハネが捕らえられたことにあった。神の国の宣教は、受けのよい時やそうい

 う場所でのみなされるのではない。

2)洗礼者ヨハネはヘロデ王に捕らえられてしまった。それはヘロデが本妻を離別し、弟の

 妻を誘惑して自分の妻にしたことを、ヨハネが公に避難したからである。マタイ14章に

 はそのために遂にヨハネが殺された次第が記されている。イエスはヨハネが捕らえられ

 たと聞き、ガリラヤに退かれた。もともとガリラヤのナザレに住んでおられたが、今度

 はカファルナウムを根拠とされた。ガリラヤはパレスティナの北部に位置し、農産物の

 豊かな地方であり、人口も少なくなかった。たびたび異邦人に支配されて、「異邦人の

 ガリラヤ」と呼ばれたりしたが、もちろんイエスの時代にはイスラエルに属していた。

 しかし、異邦人のもとにあった、したがって異教に汚された地でもある、そのような所

 から救い主が出るはずはないと、人々は考えていた。しかし、マタイが引いているイザ

 ヤ書8,9 章は「異邦人のガリラヤは栄光を受ける」とし、死の陰の地に住む者に光が差

 し込むことを告げている。

3)効果的に伝道されるべき場所、救い主がそこに働く場所としては人々が考えなかったけ

 れども、人の予期する方向においてでなく、神の計画において主は働かれた。指導者ヨ

 ハネが捕らえられたのであるから、ヨハネの弟子たちも決して安穏ではなかったはずで

 ある。主イエスもまたヨハネに洗礼を受けられたのであり、のちに「あれは洗礼者ヨハ

 ネが生き返ったのだ」(マタイ14:2) とヘロデが恐れたように、その一味と見なされて

 も不思議ではない。時も決して好調な時とは言えないけれども、主の伝道は静かにしか

 し力強く始められた。

4)主イエスの宣教の内容は「悔い改めよ、天の国は近づいた」ということであった。もち

 ろん主イエスにおいて神の支配は現実化したのであるから、内容的には違っても、洗礼

 者ヨハネが宣べ伝えたことと言葉は同じであった(マタイ3:2)。悔い改めは、自分の歩

 みを後悔して改めるというよりも、神に立ち帰り、人生の方向転換することである。天

 国はしばしば死んだ後に行く所というほどの意味で用いられることも多い。しかし、天

 の国(マルコは神の国)は神の支配を意味する。もちろん死後も神の支配下にあるが、

 決してただ死後の世界を指しているのではない。人間の生死は計られないし、いつでも

 すべての人が「死と私の間はただ一歩」(サムエル上20:3) と言わなければならない。

 けれども、天の国、神の国が近づいたといわれるのは、神の意志が支配する時が近づい

 たということを述べている。ヨハネでは審判の到来の意味が強いが、主イエスにおいて

 は愛と恵みの支配の到来である。そのように受け取ることができなくてはならない。

顕現節第4 主日  マタイ4:18-25   イザヤ43:10-13 ・コリント1:26-31 

1)主イエスのガリラヤ伝道が、どのように進められたかが示される。主は弟子を召し、多

 くの人々の中で多面にわたる活動を展開された。それは主のからだとしての教会が、い

 かに働いてゆくべきかを示していることでもある。

2)イエスはガリラヤ湖畔で、仕事をしていた漁師たちを召された。主は、彼らを人間をと

 る(生け捕りにする)漁師に「わたしがしよう」と呼ばれたのである。主の弟子たちは

 全くほかの人々と変わらない普通の人たちであり、「無学な普通の人」(使徒4:13) で

 あった。しかし彼らは、自分たちの生活の場から根こそぎ出てきて、主について行くこ

 とを求められた。「弟子」という言葉は単に知識を伝達されるという以上に、師と生活

 を共にして学ぶ気持ちを持っている。さらに力と使命を授けられて、十二人が選ばれた

 ことは、10章になって記されている。

3)他方主のお供をしたいと願っても、自分の家に帰って神の恵みのわざを人々に話すよう

 にと帰された人もあった(ルカ8:39) 。だれでも、それぞれの立場で主に従う生活をす

 ることが求められるが、具体的に特別な仕事に召されるのは、主が欲したもう人であっ

 た。そして呼びかけられた人々は、すぐに、仕事も家族も残して従った。もちろんその

 「すぐ」は、時間的にどれほどであったにしても、彼らの心には「すぐ」であったに違

 いない。そういう魅力と権威を主はもっておられたのである。弟子たちは、いっさいを

 捨てて主に従うことにした自分たちの決断を精神的な拠り所とするのではなく、召され

 たお方を見なくてはならなかった。従って行く相手がどういうお方であるのか、また何

 をしようとされるのかが、つねに仰ぎ見られなくてはならない。

4)イエスは、ガリラヤ中を回ってみ国の福音を宣べ伝えられた。ユダヤ人はエルサレムの

 神殿をその信仰生活の中心においていたが、同時に地域の共同体ごとに会堂を設け、安

 息日にはそこで聖書を学び祈りをした。イエスはその会堂で教えられた(ルカ4;16以下

 参照) 。宣べ伝えることは、確実な福音を宣言することであるが、教えるのはその内容

 を説明することである。神の国の福音は宣べ伝えられるが、同時に聴衆が自分たちの知

 識や理解に応じてそれを受け止めることが必要である。ユダヤ人の場合は、当然教育さ

 れて来た旧約聖書の言葉とどのようにかみ合うのかということが主題になったに違いな

 い。それによって正しく理解し、人がどういう知識のレベルにあったとしても、それな

 りに福音を受け取ることができるようになる。

5)しかし主はそれだけでなく、人々の病気を癒された。言葉で示しただけでなく、具体的

 に人々の苦痛を取り除く力を示された。そのように奉仕することは、教えること、宣べ

 伝えることと共に、主の、したがってまた主のからだである教会の使命でもある。主が

 どのようなことを教えまた宣べ伝えられたのか、癒しまた奉仕されたことの具体的な内

 容がどういうことであったのかは、5 章から9 章にわたって記されている。

顕現第5-聖霊降臨後2   マタイ5:13-16   イザヤ58:1-10 ・コリント2:1-5 

1)マタイ5 章以下には主イエスの教えが記されており、いわゆる山上の説教の冒頭にあた

 る。幸いの教えは、全聖徒主日の日課になっている。幸いの教えと同様、この日課でも

 「あなたがたは〜である」という宣言と勧めが重なって示されている。

2)主イエスは群衆を見て山に登り、弟子たちが近くによって来たという状況の中で語られ

 た(マタイ5:1)。すると直接には将来の教会の核となった弟子たちに対して、しかし彼

 らに限らないですべての群衆に対して語られたと言ってよい。主イエスに聞く者たちに

 対して、あなたがたは地の塩、世の光「である」と言われた。「〜になれ」と言われた

 のではない。塩も光も、自らのためにあるのではない。他者のためにその力を現すので

 ある。私たちが主の弟子となるためにどういう働きをしなくてはならないのか、または

 どういう存在になり、どういう実を結ばなくてはならないかを考えるのではない。主の

 語りかけの前に、私たちは塩や光の働きの中に連れ込まれ、それらの働きを遂行するよ

 うに励まされているのである。

3)塩はすべての人々の生活にとって重要なものである。動物でもいろいろな仕方で塩分を

 摂取する。したがってまた最も原始的な神への献げ物として重要視された。聖書におい

 ても、共に塩を食することが不滅の友情の象徴となり、それが神に献げられることによ

 って、神と人との変わらない契約のしるしとされた。「あなたの神との契約の塩を献げ

 物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ」(レビ2:13) 。もちろん塩に

 よって食物は保存され、また一般的にも味付けに欠かせない。塩を運ぶために道もでき

 た。しかし天然の塩は混じり物も多く、それゆえに健康によいとは言うものの、塩けの

 抜けた「塩」になることもあり得る。塩が塩の姿で留まっているのでなく、溶けだして

 こそ、保存にも味付けにも威力を発揮する。地の塩は、この世を神への献げ物とし、神

 のものとして保持する役をも果たすことになる。

4)イエス時代のともし火は、油の皿に灯心をつけただけの簡単なものであった。しかし、

 闇の中では大きな力である。燭台に上に置かれて、すべの物を照らす。それはちょうど

 山の上の町が、周囲の人々の眼に直ぐ分かるのと同じようである。しかし、山の上の町

 が人々にすぐ見えるのとは逆に、ともし火そのものが目立つのではなく、ほかの物を照

 らしだせばよい。暗闇に住む民、死の陰の地に住む者にさした神の光が、弟子たちを通

 して物を照らしだすのである。「あなたがたは、今は主に結ばれて光となっている」と

 パウロも述べている(エフェソ5:9)。光にさらされて明らかにされるものは、たとえ口

 にすることも恥ずかしいようなことも、みな光になる。しかも主は、自分を高めるため

 でなくて、神が崇められるために、立派な行ないをせよと言われる。塩を光もそれ自体

 を誇示するのではない。信仰が行なう行ない、信仰なしでは起こりえないような行ない

 をするように、励まされているのである。

顕現第6-聖霊降臨後3 マタイ5:21-37  申命記30:15-20 ・コリント2:6-13

1)日課はいわゆる山上の説教の箇所が続く。宣言から具体的な戒めに転じて、神の国の掟

 としての厳しい求めがなされているように見える。しかしその中に主が語られた意義を

 見つけてゆかなくてはならない。

2)主イエスは、自分は律法や預言者、すなわち旧約聖書を廃止するために来たのでなく、

 むしろ完成するためだ(マタイ5:17) と言われた。一面それだけ新しい要素があったの

 である。他面主は旧約の伝統に基づいて語られる。人々がそれによって教育されて来、

 自分たちの信仰の拠り所としていた旧約の教えは、根本的に読みなおされる。確かに旧

 約は新約の基礎となっているけれども、ある意味では、それはユダヤ人ばかりでなくだ

 れの場合にも当てはまる。私たちは、自分が求めていたものをキリストにおいて見いだ

 し、それから自分のそれまでの歩みにおいて導きになったものを、深い意味で見直し、

 自分の中で整合させようとする。

3)主は、旧約の十戒に基づく基本的な戒めを取り上げられる。殺すなという戒めは人の社

 会における基本である。「しかし、わたしは言っておく」とイエスの反対命題が続く。

 旧約の預言者たちは、イザヤであれエレミヤであれ、自分たちの言葉が権威を持ってい

 る根拠として、「主はこう言われる」と語った。しかし主イエスは自らに権威を持たれ

 る。権威ある者として教えられたのである(マタイ7:29) 。

4)戒めが「神の」戒めであるということは、旧約の大きな特徴である。しかし、神の戒め

 であるなら、その表面的な遵守というだけでなく、そのように命じられた神の意志を見

 て。それに添った行き方が求められる。表面的な受け取り方は、どうかすると言われた

 本来の意図とは違って、些細なことにこだわることになっているかもしれない。人間世

 界の経過の中で、表面的な意味は逆になってしまうことさえある。

5)主は、具体的な殺人のみでなく、兄弟に腹を立てたり、ののしる者は裁かれると言われ

 る。兄弟は同じ両親から生まれた子らを指すだけでなく、隣人や同じ民に属する者にも

 用いられる。ヨハネの手紙も兄弟を憎む者は皆人殺しだとさえ言う(1 ヨハネ3:15) 。

 人間の裁判所がそんなことまで裁く余地はなくても、神の法廷では見逃されない。自分

 だけは神へと近づいて、神とのよい関係を持つというのでなくて、神の前に出る時は、

 互いに和解して来るようにと求められている。礼拝の最初にざんげがあり、聖餐の前に

 互いに平和の挨拶を交わすのは、それに対応する気持ちが含められているのである。

6)現代では厳格に考えない場合が多い性的な関係についても、主は厳しく戒められた。も

 ちろん体の一部を切り捨てても、問題は心にある。しかも姦通の現場で抑えられた女を

 も罰せられなかった(ヨハネ8:11) 主でもある。誓いについても、言葉の上の問題とし

 てこの世的に必要なことまで戒められているのではなく、さまざまな言い訳や誓いの程

 度を区別しようとする者に、神の前で良心的に考えるべきことを戒められたのである。

 










灰の水曜日 マタイ6:1-6(16-21) ヨエル2:12-18  2コリント5:20-6:2

1)灰の水曜日は、四旬節の最初の日である。復活の前40日(主日を含めないで)の間は、

 もともとは復活祭の際に洗礼を受ける人たちの準備の時として、また古くから主の復活

 の祭りに備える慎みの期間として守られた。悔い改めのしるしとして、前年の枝の主日

 に用いられた枝の灰をつけるような習慣もあった。そして自分が灰であり、灰に戻るこ

 とを覚えたのである。日課は長い形では括弧の中も含めてよい。

2)マタイ6 章の1-6 節は施しをする際の心得が、ここでは略された7 節以下の祈りについ

 て、16-18 節は断食をする場合、19-21 節は天上に富を積むようにという勧めが語られ

 ている。施し、祈り、断食はファリサイ人たちが敬虔の生活の表現として重んじたこと

 であり、キリスト教会も大切にしてきた。そしていずれも、ことに四旬節に強調されて

 きた。しかし、敬虔な行為がなされるのは人々に見てもらうためでなく、神に喜ばれる

 ためである。ファリサイ人たちの中には、律法を守り、善行を積んでいることを、あた

 かも自分の信仰の拠り所としているような場合があった。過ちを犯さず、週に二度も断

 食し、収入の十分の一を捧げていることで安心して、神に感謝の祈りをした例も語られ

 る(ルカ18:11,12) 。しかし自分がどれほど苦行をしたか、善行を積んだかではなく、

 相手をどのように援助できたかを考えてゆかなくてはならない。節制するのは、それ自

 体が目的ではなく、朽ちない冠を得るためなのである(1 コリント9:25) 。

3)主は天に宝を積めといわれた。しかし、天の宝は、私たちの評価で決まるのではない。

 自分たちがこれほど大きなことをしたと思っていても、神の眼には宝ではあり得ないこ

 ともある。断食したり、衣を裂いたり、粗布を着たり、灰の上に座ったり、被ったりす

 ることは、確かに旧約時代からの悔い改めのしるしであった。しかし肝心なことは、外

 的な行為をすることではなく、自分の心を引き裂き(ヨエル2 章) 、神に赦しを受ける

 ことなのである。

4)神は隠れたことを見ておられる。私たちがどのような心で、またどのような態度をもっ

 て、事をなしているかが問われる。主が山上の説教の中で教えられたのは、外面的な行

 為が自分を高めるというのではない。それがどれほど有用であったかでもない。人に見

 られる義=善行が問題なのではない。確かに主は、献げ物も施しも大事にされた。祈る

 ことも教えられた。自ら断食もされた。しかし、弟子たちに断食を求めず、花婿が一緒

 にいるときにお客は断食しない(マタイ9:15) と言われた。問題は行為自体でなく、ど

 ういう動機で何のためになされるかなのである。しかも人に見せびらかすためでなく、

 自分の功績を積むためでもない。神関係の中で自らの心の表れとしてなされる。宗教改

 革のとき、ルターが断食を教会の多くのしるしの一つに数えている箇所もある。古代の

 キリスト者たちが、復活日の前に守った断食が、四旬節の間の節制として延長された。

 しかし、主要なことはそれぞれの内的な神との関係にほかならない。

四旬節第1主日 マタイ4 :1-11  創世記2:15-17,3:1-7  ロマ3:21-31 

1)復活の前四十日の備えをする慎みの時期に、主イエスの四十日の断食と荒れ野の誘惑の

 出来事が覚えられる。昔の教会では、多くの人が復活日に際して洗礼を受けたが、主が

 荒れ野に行かれたのも洗礼を受けてすぐのことであった。荒れ野の誘惑に対する主の勝

 利は、アダムの誘惑により罪に落ちた人間の存在に救いをもたらすことでもあった。

2)洗礼者ヨハネのもとで洗礼を受けられたイエスは、霊に導かれて荒れ野に行かれた。ル

 カは霊が引き回した(ルカ4:1)と言う。御霊は無風地帯に守ってくれたのではない。主

 は「昼も夜も」断食して空腹を覚えられた。断食といっても、昼の間断食する場合もあ

 るし、特定のものを避ける場合もある。しかし荒れ野での昼夜を問わぬ断食は、最も厳

 しい断食と言ってよい。旧約における荒れ野の旅において、イスラエルは食物のないこ

 とによって不信に陥り、脱出して来たあのエジプトで死んだ方が、まだましだったとさ

 えいう。そして神は、彼らがマナと名付けた天からのパンを与えられた。彼らの信仰は

 その奇跡によって支えられなくてはならなかった。しかしイエスは、申命記8 章のみこ

 とばで、石をパンにしたらどうだという誘惑する者の誘いを退けられたのである。

3)洗礼の際に、「これはわたしの愛する子」という宣言を聞かれたイエスは、神の子の自

 覚を持っておられたに違いない。そこに悪魔は「神の子なら」という前提で切り込んで

 きた。聖書の言葉では、誘惑も試練も同じ言葉である。荒れ野の「誘惑」といいならわ

 しているが、いわば「悪の楽しさ」に誘う言葉ではない。むしろ神の子たることを実証

 したらという、上に向かう誘いなのである。誘惑は決して下に向かうばかりではない。

4)次の誘惑は、神殿の屋根から無事に飛び下りてみせたらどうか、ということであった。

 壮大な神殿の高さもあるが、神殿の建つシオンの山はその外側の谷がすぐに絶壁となり

 高さが強調される。それは、聖書の言葉をもって応えられたイエスに対して、聖書の言

 葉を引いての誘いである(詩91:12)。どこまで信頼できるかと神を試みるようなことは

 してならないと、主は聖書の別の箇所(申命記6:16) を引いて応えられた。聖書をその

 脈絡に添って読まなければ、人間が勝手な形で自分の都合のよいように解してしまう危

 険がある。それは聖書に学ぶ者が、いつも注意しなくてはならないことでもある。

5)悪魔との対決は、第三の試みで頂点に達した。主の宣教は、すべての人々に伝えられる

 ことを求めている。しかし悪魔に妥協することによっては、人々を自分に得ることがで

 きても、本来の意図である神の支配の実現はない。主イエスはまた申命記(6:13)の言葉

 で悪魔を退けられた。申命記の言葉は、イスラエルの人が日毎に繰り返す6 章4 節以下

 を初め、よく知っているはずの箇所である。神は戒められたことより少し違うことを考

 えておられる、という言葉でエバは迷ったが、主が用いられたのは明らかな言葉で、隠

 れた所に見いだされるみことばや奥義ではなかった。「退け、サタン」と主イエスは力

 強く命じられた。しかしサタンは時が来るまで離れたに過ぎなかった(ルカ4:13) 。

四旬節第2 主日 マタイ20:17-28  創世記12:1-8  ロマ4:1-12

1)四旬節は、主イエスの受難を考えるだけでなく、本来復活の備えをするときである。そ

 ういう見通しの中で、主の受難予告も考えてゆかなくてはならない。弟子たちは、主の

 み力を信じ、自分たちなりの期待をかけていたので、受難予告も全く受け入れられなか

 った。主イエスの歴史の結果を知っている私たちは、弟子たちの無理解を責めるのでな

 く、今も働かれる主の歩みがどこに向かっているのかを、考えなくてはならない。

2)主はエルサレムに上る途中で、弟子たちにだけ受難の予告をされた。しかもそれは受難

 の予告であるだけでなく、復活の予告でもあり、これは三度目になる(16:21以下,17:22

 以下) 。最初のときには、ペトロが「主よ、とんでもないことです」と応え、「サタン

 よ、引き下がれ」と叱責された。二度目のときには、弟子たちが「非常に悲しんだ」と

 記されている。彼らには、復活はおろか受難の出来事の意味も理解できなかった。主が

 力をもつ救い主、メシアであり給うなら、み国の出現の栄光ある姿こそが主の将来とし

 てふさわしい。三度目における弟子たちの直接の反応は記されていないが、ヤコブとヨ

 ハネの母の願いはそれを示唆している。

3)明確に予想できたわけではないが、弟子たちは何か重大な時が迫っているのを感じた。

 弟子たち自身は半ば不安を感じていたかもしれないが、ゼベダイの子らの母は、主がメ

 シア王としての地位を占められるときが来ると確信し、ヤコブとヨハネが王に次ぐ地位

 を受けることができるようにと願った。この子らはイエスの従兄弟に当たるとも考えら

 れるが、その求めは極めてこの世的な野心でしかない。

4)主イエスは、自分が飲もうとしている杯を飲むことができるかと二人の弟子に尋ねられ

 た。杯や洗礼(マルコ10:38)は主の受難と死を指している。彼らは、どんなことがあっ

 ても主に従う決意を披瀝した。実際ヤコブは、のちに12弟子の中で最初の殉教をとげる

 ことになった(使徒12:2) 。しかし、人間的な関係やいかに主に仕えるかによって、み

 国での座が決まるのではない。それはひたすら神のみ旨による。

5)ヤコブとヨハネが他の弟子たちを出し抜いて、自分たちのみ国での地位を願ったことを

 知った他の弟子たちは、当然腹を立てた。それに対して主は、極めて重大な原則を示さ

 れた。神の国では、偉くなりたい者は仕える者に、一番上になりたい者は僕にならなく

 てはならない。偉くなりたい、一番上になりたいという動機が認められたというのでは

 ない。実際に仕え始めたら、そのような思いは消されてしまうだろう。しかも奉仕者の

 模範として、主ご自身が挙げられる。人の子(人間を指すこともあるが、ダニエル7:13

 に基づいて、メシアを指して用いられ、主はしばしば受難の出来事における自称として

 用いられた) イエスが、ただ仕えるのみでなく多くの人の身代金(贖い)として自らの

 命を献げることが模範とされるのである。それはまさしく、私たちにとっての神の賜物

 であると共に模範とされる出来事であった。

四旬節第3主日 ヨハネ4:5-26(-42)  出 17:1-7 ロマ4:17b-25

1)日課は26節までを見ても、また42節まで長くしてもよい。前半は主イエスとサマリヤの

 女との問答で水から礼拝に関して、27節以下は弟子たちとの間の「知らない食べ物」に

 ついての問答から伝道の刈り入れについての話に展開する。39節以下に再びサマリヤの

 女が登場し、女を通して主についての証を受けた人々が自分たち自身で救い主を見いだ

 したことが記されている。それは、復活祭に信仰の告白をしようとしている者のためだ

 けでなく、すべての者への励ましでもある。

2)主がシカルの井戸端で休息しておられたとき、そこに水を汲みに来たサマリヤの女があ

 った。ヤコブが千何百年も前に掘ったという井戸である。水の貴重なパレスティナでは

 井戸の水は誰でも汲めるようにはなっていなかった。そこでイエスは女に水を飲ませて

 欲しいと頼まれた。普通女たちは朝早く水を汲みに出てくるので、正午ごろ出てきた女

 には、ほかの人たちと余り顔を合わせたくない気持ちがあったのかもしれない。何より

 もユダヤ人とサマリヤ人の間には交際がなかったし、そのような女に頼むのは通常のこ

 とではなかった。しかも主は、だれが頼んでいるか知っていたら、あなたの方から「生

 きた水」を願っただろうと言われた。生きた水は普通流れている水のことを意味してい

 るが、主は永遠の命に至る水を考えておられた。女が極めて即物的に受け取ったのに対

 して、主は徐々に導いて行かれた。彼女の夫のことを持ち出して、尋常でない相手であ

 ることを認めさせられた。そして女は、主イエスを預言者かと考えた。

3)イスラエル人はエルサレムの神殿で礼拝したが、サマリヤ人はゲリジム山を聖地として

 いた。ゲリジム山は、ヨシュアが約束の地に入ったとき、神の命令で祝福を置いた山で

 エルサレムの神殿よりも古い歴史を持っている(申命11:29)。しかし、主は場所による

 のではなく、神を本当に知って心から礼拝することが求められていると教えられた。そ

 して女もかねて知っているメシアが、主ご自身のことであると示された。女は町に食べ

 物を買いに行っていた弟子たちが戻ったのを機に、水がめも置いたまま、人々に「もし

 かしたらこの人がメシア」ではないかと告げに行った。彼女の言葉によって主のもとに

 来た人々は、自分たちの所に滞在してくださるように願い、直接主の言葉を「自分で聞

 いて」信じたのである。

4)他方、イエスのもとに帰って来た弟子たちは、「あなたがたの知らない食べ物がある」

 と言われて何のことかと戸迷った。しかし主が言われた食べ物は、父なる神のみ心を行

 い、そのみ業をなし遂げることであった。女が導かれたこと自体が、主の食物であり、

 満足であったのだ。人が導かれるのは、必ずしもたった一回の、あるいはただ一人との

 経験によるわけではない。幾度も、多くの人々の助けと導きがあって、それぞれの者が

 自分自身で主と出会うのである。主ご自身の導きの例と、弟子たちに対する刈り入れの

 ための励ましは、決して遠い昔のことだけではない。

四旬節第4 主日 ヨハネ9:13-25   イザヤ42:14-21  エフェソ5:8-14

1)ヨハネ9 章は全体として一つの話を構成している。日課はその一部になっているが、内

 容的には全体に及んでよい。それは主の癒しが神のわざの現れであり、具体的な癒しが

 否定できない現実としてあることを示すだけでなく、主の受難の意味を暗示している。

 そして主に癒された盲人は、遂には主を信じることを告白するに至った。肉体的に見え

 ることに頼りすぎ、霊的に見ることのできない人たちの罪が指摘される。

2)この世での不幸や災難が、その人あるいはその両親などの罪が原因ではないかというの

 は、しばしば考えられることである。旧約のヨブ記は、そういう因果応報の考えとそれ

 に対する反論を示している。生まれつきの盲人を前に、主イエスは大変積極的に、神の

 業がその人の上に現れるため、と答えられた。メシアが来られるとき、見えない人の目

 は開かれ、聞こえない者の耳が聞こえるようになるといった喜ばしい状況になると預言

 者が言っているとおりなのである(イザヤ35:5,6) 。

3)主が、土をこねて目の見えない人の目に塗り、シロアムの池で洗うように命じられたと

 いうのは、古代の癒しの行為に類似することであったのかも、あるいはまた何かの象徴

 であったのかもしれない。いずれにしても、癒された盲人は、癒してくれた主イエスを

 「預言者」ですと言い表した。しかしユダヤ人たちは信じることができず、癒された人

 の両親まで呼び出して確かめようとした。両親は悪意のある彼らの問いに、事実だけを

 語り、本人に聞いてくださいと言った。後期ユダヤ教は預言者を名乗ることを禁じ(ゼ

 カリヤ13:2-5) メシアの時に至るまで預言の時代は過ぎたと考えた。したがって、この

 人が預言者ですと答えたことは、本人が自覚的に言ったかどうかは別として、メシアの

 到来を告げているのである。

4)そこで彼らは再び癒された人を呼び出して尋ねた。そして癒した者は魔術的な力か何か

 によって癒したので、つまりは唯一の神信仰からはずれた罪人のわざにほかならないと

 決めつけようとした。彼らは自分たちの考えによって、正しく見ていると主張し、イエ

 スのみわざをどうしても悪の力によるとしたかった。彼らは見えると言い張ったのであ

 る。それが彼らの問題であり、自分の義を主張する不信仰であった。

5)癒された人は、自分が出会って癒してもらったお方がどういう人であるか、もちろんま

 だ詳しくはしらない。しかし、分かっているのは「目の見えなかったわたしが、今は見

 えるということ」であり、その事をファリサイ人も否定はできない。そして彼は「あの

 方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と、フ

 ァリサイ人をやり込め、イエスが神から遣わされたお方であることを証しした。しかし

 彼は「外に追い出され」てしまった。それは「会堂からの追放」ひいてはユダヤ人社会

 からの放逐を意味していたかもしれない。しかし、主はその彼に出会い、人の子すなわ

 ち神から遣わされたキリストを信じるように導かれたのである。

四旬節第5 主日  ヨハネ11:17-53  エゼキ33:10-16  ロマ5:1-5 

1)四旬節のうちに、主の復活の力が示された出来事が取り上げられる。この日課もヨハネ

 11章の始めからの内容を含めている。主がラザロを復活させたことが、ファリサイ派や

 祭司たちがイエスを殺す計画を具体化させることになった。人に命を与えることが主ご

 自身の死を招く。逆に主イエスの死はすべての人々に命を与えることであった。

2)ヨハネ福音書は、主の公のしるし(奇跡)を七つに限っている。最初のしるしはガリラ

 ヤのカナでの奇跡(2:1 以下) 、同じくカナでの役人の息子の癒し(4:46 以下) 、ベト

 ザタの池での癒し(5:1以下) 、5000人への給食(6:1以下) 、湖の上を歩かれたこと(6:1

 6 以下) 、生まれつきの盲人の癒し(9:1以下) 、そして最後にラザロの復活(11 章) で

 ある。「イエスは多くのしるしをなさった。これらのことが書かれたのは、あなたがた

 が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また信じてイエスの名による命

 を受けるためである」(20:20) 。ヨハネはこれだけで十分と考えている。そしてそれら

 はしるしである。出来事そのものよりもそれが何を示すかを見なくてはならない。

3)イエスの愛された弟子の一人が病気になった。しかし主は「この病気は死で終わるもの

 ではない」と言われたのみであった。しかし、いよいよラザロが死んだとき、主は始め

 てユダヤ人たちが石で撃ち殺そうとしたのにも関わらず、これを起こしに行かれた。そ

 して迎えたマルタに、「あなたの兄弟は復活する」と言われた。マルタは一般的な死後

 の理解として、「終わりの日の復活」を信じていると言う。しかし、主は「わたしは復

 活であり、命である」と宣言された。しかも「このことを信じるか」とたたみかけられ

 る。マルタはそのことがどういうことであるのか、よくは分からなかったに違いない。

 けれども、主への信頼を言い表したのである。問答の微妙な食い違いに注意したい。

4)主はまたマリアや他の人々が涙を流しているのを見て「心に憤りを覚え、興奮して」ご

 自身も「涙を流された」。それは死の前に無力な人間のあり方への悲しさと死の力への

 憤懣であったに違いない。そして「ラザロよ。出てきなさい」と呼び出された。それに

 応えて、死後四日たっていたラザロは覆いで包まれたまま出てきた。それはあらゆる人

 の死に対して、そしてその状態がどうなっていようと、呼び出す力をもつお方の召し出

 しであった。

5)ファリサイ派や祭司長らは、主イエスのしるしによって、人々が彼をメシアとして結集

 するだろうと考えた。もちろん主イエスがこの世の国を立てることを意図されたのでは

 ないが、しかしそれはローマ総督、引いてはローマ政府がユダヤの反乱と見なすことに

 なり、自分たちが滅ぼされてしまうと危惧した。それに対して大祭司カイアファは「一

 人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が好都合だ」と言う。彼は

 政治的な判断として、イエスを亡き者にすることでローマと事が起こるのを避けようと

 したのである。しかし、それは深い、広い意味で、主のみわざの預言となった。

枝の主日 マタイ21:1-11 ゼカリヤ9:9-10  フィリピ2:6-11

1)枝の主日は四旬節最後の主日となる。主の最後のエルサエム入城を覚えて、入城の記事

 を日課とする。但し、受難週の集会に多くの会衆が集まることが期待できない場合は受

 難主日の日課にした方がよい。受難の記事が会衆に聞かれることが必要だからである。

 またその場合、枝の主日の日課を礼拝の始めに読み、枝の行進をしてもよい。枝は棕櫚

 と訳されて来たが、新共同訳では「なつめやし」(ヨハネ12:13)とされている。枝の主

 日の日課は待降節第一主日の日課でもあるので、それも参照したい。

2)主イエスはろばに乗って、最後のエルサレム入りを果たされた。近くに住むすべての成

 人男子は、過ぎ越し祭の際に神殿に参拝したし、遠くの地からも多くの巡礼者があった

 から、人々でごった返している中に、主は弟子たちと共に入られた。それは預言者たち

 がしばしばしたように、実際の行動を通して使信を伝えることであったと言える。マタ

 イは、それがゼカリヤ書9:9 の預言の実現であることを強調する。ゼカリヤのろば、子

 ろばは同じことを違う仕方で繰り返して言い表したに過ぎないと思われるのに、マタイ

 はそのまま、ろばと子ろばを複数のまま繰り返すから、どちらが本当に主イエスの乗物

 になったのか、明確でなくなっている。しかし、清めの儀式で犠牲として献げられたの

 は「まだ背に軛を負ったことがなく、無傷で、欠陥のなか赤毛の雌牛」(民数19:2) な

 どとあるから、子ろばの方が本命であったのであろう。・マカバイ13:51 には、マカバ

 イがエルサレムの要塞に、しゅろの枝をかざし、讃美の歌をうたいつつ入ったことが記

 されている。マカバイは武力でイスラエルを回復したが、主は柔和な、ろばに乗る王と

 して来られた。

3)主イエスに従う者たちが「ホサナ、ホサナ」と叫んでその前後を囲んで行った。ホサナ

 は「わたしたちに救いを」(詩118:25) の意味であるが、ほとんど元の意味を失って歓

 迎の言葉として叫び出されたのであろう。しかし元々の意味こそ、この時にエルサレム

 に入られる主イエスを迎えるのにふさわしい。それは受難と十字架の出来事の幕開けで

 あった。他方律法学者や祭司長らは、子どもたちまで「ダビデの子にホサナ」というの

 を聞いて腹を立てた。「ダビデの子」は来るべきメシアを指すと受け取られていたから

 である。しかし、幼な子の口にも讃美の歌が備えられた。

4)都中の者が「いったいこれはどういう人だ」と騒いだと言われているが、エルサレムの

 群衆がこのナザレから出たイエスのエルサレム入りに、どれほどの注意を払ったのだろ

 うか。主の弟子たちでも、主の本来の意図を理解しなかった。そして無責任な群衆の叫

 びは、数日を経ずして「十字架につけろ」の声に変わったのである。人々は「預言者イ

 エス」だとしたが、もとよりこの方は預言者以上の者、否預言者たちが証しした救い主

 であり、高ぶることなく、ろばの子に乗って、人々の罪の赦しのために神への犠牲とし

 て進み出た小羊であったのである。

受難主日 マタイ26:1-27:66  ゼカリヤ9:9-10  フィリピ2:6-11

1)受難主日として礼拝を構成するときは、日課の全体を読むことを主体に、短い説き明か

 しを加えながら礼拝を組み立てるか、一部を取り上げて説教してもよい。しかし27:11-

 54は含められるようにする。福音書の朗読に際しては会衆が起立するのが例であるが、

 長い朗読であるので座っていてもよい。但し伝統的に27:45 節以下では起立する。

2)主イエスは捕らえられて、ユダヤ人の最高法院とローマ総督のもとで審判を受けた。ユ

 ダヤ人の間では神殿を打ち壊し、三日あれば建てることができると言ったと訴えられ、

 「神の子、メシア」なのかの問いに「あなたがそう言った」と肯定的に応えられた。神

 殿の件は、十字架に着けられた後まで繰り返し言われている(27:42) 。ヨハネは2 章に

 主イエスの言葉がどういう脈絡で述べられたかを説明した。そしてご自身の死と復活を

 意味されたことを示している。

3)ユダヤの最高法院はイエスを殺そうと相談し、当時ユダヤ人には死刑執行権が認められ

 ていなかったので、ローマの総督ピラトにその身柄を引き渡した。ピラトの審問は「お

 前はユダヤ人の王なのか」ということに尽きる。十字架に掲げられた罪状書きには「ユ

 ダヤ人の王イエス」と書かれた(27:37) 。ローマ側にすれば、王と僣称してローマに楯

 突こうとした政治犯ということになる。十字架そのものがローマ式の政治犯の処刑法で

 あった。そして主は「あなたがそう言う」と含みのある返答をされた。そしてその上返

 事をしようとされなかった。ピラトの妻はピラトにその人に関わらぬようにと伝言し、

 ピラトもイエスの態度を不思議に思いながら、イエスを捕らえて来たのはねたみのため

 と理解し、民衆の希望する犯人を釈放する習慣をのせて、許そうとした。しかし、群衆

 の叫びに負けて、これを引き渡した。

4)ピラトが民衆の前に問うたのは「バラバ・イエスか、メシアというイエスか」というこ

 とであった。バラバは「父の子」というほどの意味である。イエスはヨシュアのギリシ

 ャ音訳であるから、ユダヤ人の間で珍しくない名前であった。しかし、この対照は印象

 深い。そして民衆の声が選んだ釈放すべき者はバラバの方であった。

5)十字架の上でイエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と

 叫ばれた。それは詩22編の冒頭の言葉でもあるから、その詩編全体が考えられなくては

 ならないのかもしれない。しかし、この悲痛な叫びは、本来私たちそれぞれが発しなく

 てはならなかった言葉なのである。主は十字架にそれを背負ってくださった。

6)イエスが息を引き取られたとき、神殿の幕が裂けて神の神秘が現されたことを示した。

 マタイは主の復活ののちのことまで言及し、また信仰者たちが主によって復活させられ

 る時まで見通して、十字架の出来事と共に語っている。イエス処刑に携わった百人隊長

 や見張りの人々は、主の死に際してむしろ「本当にこの人は神の子だった」と言った。

 主の出来事を語る者が指し示したいこともまた、この言葉に集約されている。

聖木曜日 ヨハネ13:1-17  出12:1-14  ・コリント11:23-26

1)受難週には連日日課が定められているが、少なくとも洗足木曜日と受苦日の金曜には礼

 拝を守る所が多い。木曜日は主の晩餐を記念して聖餐式が守られるのが普通である。主

 日の聖餐式のように多い出席ではないだろうから、設定辞もベルバのみでないものが用

 いられるとよい。木曜の礼拝のあと金曜日にかけては、聖壇の掛け布やろうそく、装飾

 はすべて取り除かれる。

2)主イエスは「ご自分の時が来た」ことを自覚し、弟子たちを愛し抜かれた。それを具体

 化された第一のことが晩餐であった。共観福音書では、それが過ぎ越しの食事であった

 とされているが、ヨハネ18:28 によると、過ぎ越しの食事よりも前になる。しかし、示

 そうとしていることは同じであって、ヨハネでは主が十字架で亡くなられた時が、過ぎ

 越しの羊をほふる時に当たる。共観福音書では食卓で主がパンとぶどう酒を分けられた

 ことが大きな意味をもって記されているが、ヨハネは食卓の下で主が弟子たちの足を洗

 われたことが主体である。

3)ヨハネ福音書では、時、ことに主の時は特別な意味を負わせられている。私の時はまだ

 来ていない(2:4) と言われ、また「あなたがたの時はいつも備わっている」(7:6) こと

 と対照的に主の時がまだであることが語られる。時が来たと悟られたのは、13章の最後

 の晩餐の時であり、「父よ、時が来ました」と祈られたのは17章の晩餐の後のいわゆる

 大祭司の祈りにおいてである。それは、十字架において自らを犠牲として捧げ、贖いの

 わざをなし遂げられる特定の時を指している。反対に人々が悔い改めて主に立ち帰るべ

 き時は、いつも備えられている。

4)主イエスは、自分の席から立ち上がって、弟子たちの足を洗われた。それは最も下級の

 奴隷の仕事とされていた。弟子たちが驚いて「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくだ

 さるのですか」と言ったのは尤もなことである。しかし主は、もし足を洗わないなら、

 「あなたはわたしと何の関わりもないことになる」と言われた。私たちの罪や汚れを主

 に洗ってもらうことが、受難と十字架の主題にほかならない。自分がそうして貰う必要

 がないということこそ、主の働きを否定することになってしまう。

5)洗足の出来事は、主イエスがそのみわざを具体的な行為の中で象徴的に示されたみわざ

 であった。わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である(ルカ22:27)と言われ

 た通り、主は上着を取り、手拭いをとって腰にまとい、弟子たちの足元に身を屈められ

 た。謙遜の模範を示されただけではない。それによってこそ、彼らは生かされる。それ

 は食卓の上でご自身の体と血を分与されたことと同じ恵みを示している。しかしまた、

 そのことが、弟子たちの模範となった。弟子である人々が互いに足を洗い合い、謙虚に

 仕え合わなくてはならない。人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来たと主

 は言われた(マタイ20:28)が、私たちは仕えるために仕えられるのである。

聖金曜日  ヨハネ19:17-30 イザヤ52;13-53:12   ヘブライ4:14-5:10 

1)聖金曜日には、昼の十二時から三時(マタイ27:45)にかけて礼拝がもたれてきた。実際

 には、この時間が無理で夕べに守られる場合もある。死はつねに私たちを厳粛な思いに

 させるが、ことに主の死は我らの罪の贖いのためであった。この日には、聖壇のすべて

 の飾りが除かれ、礼拝の終わりには十字架に黒いヴェールがかけられる。礼拝の最後の

 祝福は省かれ、静かに復活祭の礼拝に連続するのを待つのである。

2)ピラトは民衆の叫びに抗することができず、イエスを彼らの手に渡した。イエスを引き

 取った人々は、それを十字架に付けた。しかし、信じる者たちはその十字架の主を自分

 たちの贖い主、救い主として引き受けたのである。「わたしは命を再び受けるために、

 捨てる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる

 のだ」(ヨハネ10:17)と主が言われたことの実現をヨハネは示している。

3)ゴルゴタはヘブライ語で頭蓋骨の意である。処刑地であったためか、形状が似ていたた

 めだろう。(カルバリはラテン語の表現)その十字架は三本の中の一つで、イエスは罪

 人たちの一人として扱われた。ピラトは「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状

 書きを、三か国語で記した。INRIと略記されるのは、ラテン語の頭文字である。そのよ

 うに自称したとして欲しいとユダヤ人たちは希望したが、ピラトは18章33節以下の問答

 もあり、ユダヤ人たちへの当てつけを含めて、書いたままにした。それはすべての者の

 王として来られたのに、受け入れられなかった主の姿を示している(ヨハネ1:11) 。

4)ヨハネは、十字架にかけられた主の傍らには女たちと「愛する弟子」がいたという。ほ

 かの福音書の記述に照らして考えると、ヨハネは歴史的な正確さよりも、むしろその意

 味を明らかにしようとしたと言える。愛する弟子は、ヨハネ福音書の中でついに正体を

 明かさないが、最も重要な役割を占めている。だれでもが、そこに自らを当てはめて見

 ることができる登場人物なのである。マリヤを引き受けたのは、マリヤ崇拝の意味では

 なくて、イエスの出来事を人の側から引受けた新しい神の民の姿を現している。

5)人々はぶどう酒を含ませた海綿をヒソプにつけてイエスの口もとに差し出した。他の福

 音書で言う葦を用いる方が実際的であるが、過ぎ越しの羊の血を門口に塗ったのは、石

 垣や岩間に生えたヒソプによってであった(出12:22)。ヨハネはそのことを意識してい

 たのであろう。主はまことの過ぎ越しの羊として来られた。そして過ぎ越しの祭りの羊

 がほふられる時刻に息を引き取られた。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ

 1:29) と洗礼者ヨハネが証しした通りである。

6)イエスは「成し遂げられた」と言われた。その十字架の死は失敗や挫折でなく、神から

 の使命が果たされた出来事であった。「息を引き取られた」は、文字通りには「霊を引

 き渡された」である。それはもちろん父なる神に、であったろうが、同時に主の死によ

 って生かされる、この出来事の周りのすべての人(私たちを含め)にでもある。

 










復活祭 ヨハネ20:1-18(マタイ28:1-10,-15)使徒10:39-43 コロサイ3:1-4 

1)主の復活の日課はヨハネを主として、マタイを用いてもよい。これは各年とも同じ扱い

 になっている。わが国では復活の徹夜祭(夜中の礼拝) が行われていないが、早天礼拝

 が行われる場合は多い。その場合は日課を使いわけることができる。

2)金曜日に十字架に息絶えたイエスは、アリマタヤのヨセフの墓に葬られた。先祖と共に

 眠るということが、ユダヤ人の望んでいたことであって、エジプトに下ったヤコブも遺

 言してアブラハムが手に入れたマクペラの洞穴に葬られた(創世49:29)。しかし、主は

 その誕生も旅の中で家畜小屋に生まれたもうたが、その墓も他人の墓でしかない。しか

 もそれは墓の機能を果たさないことになった。イエスに七つの悪霊を追い出していただ

 いたマグダラのマリア(ルカ8:2)を初めガリラヤからイエスに従って来て世話をしてい

 た女たちは、立ち去り難く墓に向かって座っていた(マタイ27:61)。

3)金曜の夕から土曜の安息日になり、それが終わって夜が明けるのを待ちかねて、まだ暗

 いうちに墓に行ったマグダラのマリアは、洞穴の墓を塞いだ大きな石が取りのけてある

 のを見た。そこで走って弟子たちに、「主が墓から取り去られた」と告げた。彼女は使

 徒たちへの使徒となったのである。そこでペトロと主に愛された弟子とは、一緒にその

 場に駆けつけた。彼らは墓の中で、イエスの体を包んだ布が残されているのを見たが、

 イエスの体は見当たらなかった。主の復活についての言葉を、彼らはまだ理解していな

 かったから、それは大きな衝撃であった。しかし、愛された弟子は、「入って来て、見

 て、信じた。」ここで用いられている「見る」という語は他とは違って、心の目で見る

 という気持ちの含まれた言葉である。彼が何を信じたのかも明らかでない。しかし空虚

 な墓の報告が本当だったと認めたというよりも、後になってあの墓で見たことが主の復

 活を信じる信仰に結びついたということを言っているのであろう。

4)二人の弟子たちがなすすべもなく、墓から帰ったあとにも、マリアは墓の外で泣いてい

 た。墓の中には天使たちがいて語りかけ、墓の中ではなくて外の、彼女の後ろから主が

 呼びかけられた姿を見、その声を聞いた。主イエスは、墓に閉じ込められたと思われた

 過去におられるのではない。しかし「マリア」と呼ばれることで、初めてそれが主であ

 ると分かった。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」(ヨハネ10:3) とイエスは

 いわれたが、まさしく彼女は自分の名が呼ばれるのを聞いて分かったのである。

5)イエスは、すがりついて来たマリアに、まだ父のもとに上っていないのだから、すがり

 つくのはよしなさい、と言われた。夕べには弟子たちに現れて十字架の傷痕さえ見せら

 れたのだから、この日のうちに父のもとに上ることが起こったとヨハネは考えていたの

 かもしれない。主は念入りに「わたしの父であり、あなたがたの父」である方、「わた

 しの神であり、あなたがたの神」である方と言われた。復活の主につらなる者として弟

 子たちが、そして私たちも呼びかけられている。

復活後第1 主日  ヨハネ20:19-23   使徒2:22-32  1ペトロ1:3-9 

1)主の復活の祝いは、いわゆる復活祭に限られない。主日自体が毎週巡ってくる復活祭と

 呼ばれる。ことに復活後の期節は、昇天日を含め一連の主題を扱う。ルカは主が復活を

 確証すると共に、この時期に神の国について話されたと記している。人間にとっては、

 主の出来事の意味が初めて明らかにされた啓示の時であったとも言える。

2)日課の箇所は、復活日の夕方の出来事であって、復活の主が集まっている弟子たちに現

 れてくださったことを伝えている。ヨハネは共観福音書とはここでも違った仕方で、復

 活の主の意味を示している。

3)ペトロと主に愛された弟子の二人は、マグダラのマリアの知らせで空虚な墓を確かめて

 来た。マリアは「わたしは主を見た」と復活の主と出会ったことを告げたが、弟子たち

 の思いはなお混乱の中にあったのであろう。大祭司や最高法院に追跡されて、イエスと

 同じように死刑にあうことを恐れていたのか、あるいは「あなたのためなら命を捨てま

 す」(ヨハネ13:37)とまで言ったのに、捕らえられた主を見捨ててしまったことを悔や

 んでいたのか分からないが、戸を閉じ鍵をかけた家の中で息を潜めていた。そこへ復活

 の主が来て、彼らの真ん中に立たれたのである。

4)主の復活があった日、日曜日の夕方であれば、夕べにはなっていても、遅い時間ではな

 い。午後の6 時頃からは次の日になったからである。復活のイエスは戸を閉じている家

 の中に入って来られた。しかし、十字架に釘づけされた手の傷や槍で刺されたわき腹の

 跡が残っていた。地上で生活された時の体を越えているという一面と、まさしくあのイ

 エスだという面とを兼ね備えていたのである。疑心暗鬼の中にあった弟子たちも、直接

 に主に出会っては、すべての心配が吹き飛び、すなおに主を見て喜んだ。

5)「平和があるように」(シャローム)という言葉は、ユダヤ人の日常の挨拶に用いられ

 た。しかし、主が、この世の与えるものでない平和を与える(14:27)と言われた通り、

 弟子たちの不甲斐なさを赦し、死を越えた平安を与えられたことを示している。十字架

 と復活の主が与えられる平安にほかならない。日本語の平和は外面的に、平安は心理的

 に過ぎるかもしれないが、神とのそして神による平和であり平安である。

6)主は平和を与えられただけでなく、弟子たちを派遣することを宣言し、また聖霊を与え

 られた。それはマタイの最後の派遣、使徒言行録2 章の聖霊降臨の出来事を集約してい

 る。それが復活の主との出会いの中で与えられたことをヨハネは強調する。父なる神が

 イエスを送られたが、その派遣は弟子たちに受け継がれ、主イエスを証しすることにな

 る。神が土で形を作り、その鼻に息を吹き入れて人を生きた者にされた(創世2:7)よう

 に、復活の主は新しい創造を始められる。息と霊とはもともと同じ言葉である。そして

 マタイ16:19,18:18 の約束が加えられた。それは罪の赦しの福音が、教会に与えられた

 宝であることを示している。

復活後第2 主日  ヨハネ20:24-29    使徒2:36-47  1ペトロ1:17-21 

1)トマスへの主の顕現は、復活後の重要なテキストの一つである。出来事の内容としては

 19節以下の復活の日の夕べに主が弟子たちに現れてくださったことに続いているが、そ

 れはその後の教会における日曜日の礼拝に関わっているからである。

2)復活の日の夕べにイエスが弟子たちに現れてくださったとき、12人の弟子の中のひとり

 トマスは彼らと共にいなかった。ディディモというのは、トマスのギリシャ訳で双子の

 意味である。この記事のために疑い深いトマスと受け取られる場合もあるが、彼はむし

 ろ直情の人であったと思われる(ヨハネ11:16,14:5参照) 。伝説によると彼はのちにイ

 ンドに伝道し、マドラスで殉教したとされる。いずれにせよ、一人だけ主に出会う経験

 から仲間外れになったことで、どれほどか内的葛藤を経験したことであろう。しかも、

 彼は仲間の中に留まっていた。

3)ほかの弟子たちが主を見たというのに対して、トマスは主イエスの傷痕を見、触れて見

 るのでなければ信じられない、と言う。しかし「8 日の後」即ち次の日曜日に、今度は

 トマスも共にいる所にイエスは現れてくださった。そしてトマスに対して、その指で手

 とわき腹の傷痕に触れてみよと、自らを彼の手の検討にまかせる態度を示された。死か

 ら復活するほどの転回を経験されたお方の体に、生前の傷が残っていたのだろうか。む

 しろそれは復活の主は十字架の主、十字架の主こそ復活の主であることを印象づけるこ

 とであった。そして、現れたお方が確かに十字架で死んだイエスであるということを実

 証的に見ることから、この主の十字架が自分の罪の赦しのためであるという実存的な理

 解へと彼を導いたに違いない。それが「わたしの主、わたしの神よ」という告白に表れ

 ている。イエスに直接神という言葉を当てたのは、福音書の中でこの告白だけである。

4)信じない者ではなく、信じる者になれというみ言葉も、単に復活のイエスを認めるとい

 うこと以上に、今も生きて働かれる主イエスを信頼するように求められている。直接に

 見て信じることができたのは、弟子たちとその周辺にいた当時の人々に限られている。

 「わたしたちは、キリストの威光を目撃した」(2ペトロ1:16) と使徒たちは証ししてい

 る。しかし主イエスと共におり、教えを受けていても信じられない人々もいた(ルカ13

 :26,27) 。反対に「あなたがたはキリストを見たことがないのに愛し、今見ていなくて

 も信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれている」(1ペトロ

 1:8)といわれる人々があったし、その中に私たちも加えられてゆきたいのである。

5)トマスの出来事は、自分の体験が不十分であると思い、自分もまた他の人々のような体

 験に与かりたいと願う、その後の信仰者すべてにも当てはまる。トマスもそのようにあ

 せり、いら立ったかもしれないが、それでもなお日曜ごとの仲間の集まりの中にいた。

 そして主に出会うことを許された。長い長い8 日目の連鎖の果てに私たちもいる。主日

 の礼拝はそのようなものであることを覚えて、励まされてゆきたい。

復活後第 3主日  ヨハネ10:1-16     使徒6:1-10  1ペトロ2:19-25 

1)受難の前に主は、羊飼いを打つと羊の群れは散ってしまうというゼカリヤ13:7の通りに

 なるが、しかし復活ののち弟子たちの先に立って導くという約束を与えられた(マタイ

 26:31,32) 。そこでよい羊飼いは、伝統的に復活節の主題の一つとなっている。しかし

 この箇所には、羊飼いと羊の門の譬えが入り組んでいることを注意したい。

2)ヨハネ10章の1-3a,7-10 は羊の門について、3b-5,11-16はよい羊飼いの譬えである。パ

 レスティナにおける牧畜生活はしばしば聖書の記事の背景になっている。羊はわが国に

 も6 世紀ごろやって来たというが、恐らく高温多湿の気候が羊に適せず、一般的になら

 なかった。まして羊飼いが導いてゆくという方式は馴染みがない。しかしその様子は決

 して考えにくいことではない。

3)町の門は、夜は閉ざされてその町を守るために大切な役割を果たした。ただ終末におけ

 る神の都の門だけは閉ざされることはない。しかし神の都の門は誰でも自由に入れるの

 ではなくて、汚れた者、忌まわしいこと、偽りを行う者はだれひとり入れない(黙示21

 :25,27) 。羊飼いは主人の羊をその囲いから連れだして、牧草の生えている所に導き、

 運動させ、また水飲み場に連れてゆく。そして夕方にはまた囲いに帰って来る。羊の囲

 いも、周囲が壁で囲まれた町と同じように、正当な羊飼いでないと門を開けてもらえな

 いし、羊を連れだすこともできない。私は門と言われる主を通ることが必要である。

4)イスラエルの指導者はしばしば羊飼いに譬えられた。エゼキエルは、羊を養わず自分自

 身を養っているイスラエルの牧者たちは災いだ(エゼキエル34:2) という神の言葉を伝

 えている。そして彼らがその仕事を真面目に果たそうとしないので、神自らが群れを探

 し、その世話をしようと語られる。そしてそのためには「一人の牧者を起こす」(同34

 :23)と言われる。預言者は政治的な牧者を考えていたかもしれないが、主イエスはまさ

 にそのような魂の牧者として、神から遣わされた。この牧者の特徴は、羊をよく知って

 おり、羊もまた信頼していることである。羊飼いは羊の名を呼んで導き出す。イスラエ

 ルの羊飼いはそれぞれの羊に名を付けていたというが、羊である主の民は一人ひとりが

 知られ、呼ばれ、その声を聞き分け、従って行く。

5)羊飼いと羊が相互に知り合っているだけではない。この羊飼いは羊のために命を捨てる

 お方である。羊飼いが居なくなったら、羊たちは困惑する。実際の羊に対しては、羊飼

 いは外敵と戦っても、より多くの残りの羊のために生きて指導力を発揮してくれなけれ

 ば困る。しかし、魂の羊飼いである主は、その命を捨てたもう。短い箇所の中で二度も

 その言葉が繰り返される。しかし、弟子たちより先にガリラヤへ行かれ、そこでお目に

 掛かれる(マタイ28:7) と告げられたように、十字架ののちも、復活して弟子たちに先

 立って導かれる。その死は、むしろその声に聞き従う群れが豊かに命を受けるためであ

 った。復活の主は、そのような門であり、羊飼いである。それは今も変わりない。

復活後第4 主日  ヨハネ14:1-14   使徒17:1-15  1ペトロ2:4-10

1)復活後の期節であるのに、第4 主日から後には主イエスの十字架以前の訣別の言葉が日

 課となる。復活、そして聖霊降臨の後になって初めて、主のことばの意味が明らかにな

 った(ヨハネ14:26)。ヨハネは主イエスの最後の言葉の中に、主の死と復活、昇天につ

 いての深い意味を記している。そして例えば「行く」という言葉にも、主の十字架の死

 と、その昇天、栄光化、われらの救いを含む終末的な意味が重なっているのである。

2)最後の晩餐の後、主は弟子たちを離れて行き、彼らは今ついて来ることはできないと言

 われた(ヨハネ13:36 以下) 。それは弟子たちの心に恐れを引き起こした。そこで主は

 心を騒がせるな、神を、また私を信じなさいと、言われた。イエスを知ること、イエス

 を見ることが、すなわち父なる神を知り、また見ることにほかならない。イエスが去ら

 れるのは、彼らのために天に場所を用意しに行くためである。救いの出来事は、イエス

 の十字架の死を不可欠の道とした。それによって我らにも大きな慰めが与えられる。

3)主の行かれる道は、人が神に近づく道である。罪人が聖なる神に近づこうとするとき、

 受け入れてもらえる犠牲を献げることが必要となる。主イエスはまさにその道を開く犠

 牲の小羊であった。「主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにせよ」と説いた洗礼者ヨハ

 ネは、神の側から救い主が来られる道を整えることを求めた。しかしその主が、人の側

 から神への道を開いてくださった。道は古い漢語で、あるいは地方的に言われるように

 「往還」なのである。そしていずれの方向にも道を開く主体は「主」であった。信仰者

 たちは、「この道に従う者」(言行録9:2)と呼ばれたのである。

4)「私は〜である」という言い表しは、この福音書に特徴的な主の言葉である。イエスは

 ご自分が世の光、門、よい羊飼い、道、真理、命、まことのぶどうの木などであると言

 われる。それぞれ特別な面を強調した表現で、神と人との間で果たされるみわざを示し

 ている。イエスが指示された道が真理に至るのではなく、主ご自身を通って行かなくて

 はならない。弟子たちが最後の晩餐の席で主に足を洗って頂いたように、主イエスの贖

 いの道を通り、そのみわざに与かって行くのである。主が神の自己啓示であり、神への

 道において、また神への信頼において、人を支える命であるからである。

5)父なる神と主イエスが一体であることが、フィリポの問いに対して強調された。単に神

 秘的な神との一体感ではなくて、父なる神という形で示され、言葉を語り、みわざを行

 われる、人格的な神とみ子イエスの関係である。そしてそのような関係が、み子を仲介

 として、信じるすべての者にも約束される。主イエスを信じる者は、主が行われる業を

 行い、いな、もっと大きな業をも行うようになると言われる。「もっと大きな業」が何

 を意味しているか明確ではないが、世界に広げられた宣教のわざと共に、弟子たちが聖

 霊の力でなすことのできたさまざまな働きを指しているのだろう。主をかしらとするか

 らだに譬えられた教会は、時代を越えてそのみわざを継承し続けるのである。

復活後第5 主日  ヨハネ14:15-21    使徒17:22-34 1ペトロ3:8-17

1)この日の日課は、主イエスが弟子たちに約束された聖霊の働きに目が向けられる。福音

 書の記述における聖霊の働きはもっぱら主ご自身の出来事に限られている。しかし主が

 去って行かれることにより、弟子たちにも聖霊が与えらる(ヨハネ7:39,16:7)。

2)主イエスを愛する人は、主が与えられた掟を守る。日課の初めにも結びにもそのことが

 語られている。主の掟は「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めであった(ヨハネ

 13:34)。しかしそれには「わたしがあなたがたを愛したように」という前提がある。す

 ると主の愛を受入れ、それに応えて行くことが、まず求められている。そのために、去

 って行かれる主は別の弁護者を弟子たちに遣わされるのである。

3)「弁護者」と訳された言葉は、傍らに呼ばれたものというほどの意味である。私たちの

 側にあって、外に向かって語ってくれるとき、それは弁護の働きであり、自分に向かっ

 て語ってくれるときは、慰め主の働きと言える。そのような意味で、聖霊を「助け主」

 あるいは「慰め主」と呼ばれることもある。「聖」霊は、そのような働きをする神の霊

 である。私たちが考え易い物の霊や人の霊とは、全く違うレベルで考えられている。旧

 約のヨブは、高い天に、神に向かって自分のことを弁護し、執り成す方、自分の真の友

 の出現を願い、また信じている(16:19,20) 。そしてそれは主イエスの約束の中で現実

 となる。

4)主はそれを「別の」弁護者と言われた。それはその時までの弁護者の役割は主イエスご

 自身によってなされたと言ってよい。聖霊が弟子たちの内にあるということは、復活昇

 天後のイエスが弟子たちと共に、また彼らの中におられることにほかならない。聖霊は

 この世を去られたイエスを私たちにもたらす力である。したがって別の弁護者について

 語られることと、ご自身が戻って来ると言われることとが並行して述べられている。

5)復活の主が生きて働いておられるので、主を信じる者たちも生きることになる。但しこ

 の時にはまだ「しばらくすると」起こることであった。それは「やがて」「間もなく」

 などと訳されている預言者たちの言い回しと同じく、直ぐに起こる神のみわざを示して

 いる。この世は見ることができないが、弟子たちは復活の主に出会った。当時の弟子た

 ちばかりではない。主を信じて、その戒めに生きようとする人々はつねにこの約束の中

 にいる。主ご自身が「その人にわたし自身を現す」と言われるのである。

6)「かの日には」主イエスが父なる神のうちにおられ、また主と弟子たちが相互に結びつ

 いていること分かる。それは終末の時、また聖霊降臨の時、ひいては人々がそれぞれに

 聖霊の働きを内に受ける時を指していると言える。私たちがキリストの内に、キリスト

 が私たちの内に、という言い方は単純な相互関係のようだが、その相違は注意したい。

 「きりすと/われにありとおもうはやすいが/われみずからきりすとにありと/ほのか

 にてもかんずるまでのとおかりしみちよ」(八木重吉)。

復活後第6 主日  ヨハネ17:1-11  使徒1:15-26  1ペトロ4:12-19 

1)日課は主イエスの最後の祈りであり、いわゆる大祭司の祈りの冒頭である。共観福音書

 のゲッセマネの祈りに相当する箇所であるが、主題は世に残される民に対する執り成し

 であり、その意味で昇天の出来事と重ね合わせられる。教会の集会の流れによって、昇

 天主日として守り、その日課を用いてもよい。

2)最後の晩餐の後の弟子たちに対する長い訣別の言葉が終わり、主は父なる神に直接訴え

 られた。この箇所が大祭司の祈りと称されるのは、主イエスが自らを神に献げる犠牲と

 して聖別し、地上に残される人々のために執り成しておられるからである。主はヘブラ

 イ9 章に描かれているように、大祭司として、ご自身を罪を取り去るための唯一のいけ

 にえとして聖別された。しかも、その祈りの言葉はヨハネに特徴的な概念で、深くその

 意義を示している。

3)主は自らがこの世を去るべき「時が来た」ことを悟り、神の栄光を現すことできるよう

 に、したがってまた子の栄光が現されるようにと祈られた。(主イエスの時については

 ヨハネ13章、聖木曜日の日課を参照。)ヨハネがいう栄光は、神あるいはキリストの本

 質の輝きを意味している。自分がそれだけの価値があると限らないのに、そのように認

 められて有り難く思う「光栄」とは全く違っている。主の栄光は、その十字架の死と復

 活にあった。人々の罪の贖いのために犠牲となり、新しい命をもたらしてくださったの

 である。ヨハネはすでにイエスの誕生を言の受肉として述べている時に、「わたしたち

 はその栄光を見た」(1:14)と言っている。その地上の生そのものが、その栄光を現す十

 字架の出来事へ向けての歩みであったのである。

4)その主のみわざは、委ねられたすべての人々に、永遠の命を与えることであった。永遠

 の命というのも、ただ天上において何時までも続く生命というのではない。「永遠の命

 とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリ

 ストを知ることです」と言われる。それは、キリストにおいて神との交わりを持つあり

 方にほかならない。「知る」という言葉も、決して知識を得るというだけのことを意味

 するのではない。人格的な交わりの中にあって、その力に与かることである。それは私

 たちが主への信仰をもつ時に、私たちのうちに始まっている。

5)キリストを信じる人々はまた、父なる神のものにほかならない。イエスの救いのみわざ

 によって「私は主のものとなり、み国において彼のもとに生き、永遠の魏と純潔と救い

 との中に主に仕える」(小教理)のである。主は、キリストのものとなった者、キリス

 ト者たちのために、彼らを守ってくださいと願われる。父なる神とキリストとが一つで

 あられるように、この人々もまた父なる神とキリストに連なり、同時に互いに一つとな

 るためである。しかも人々がそうなるための鍵は神のことばであり、イエスが神から受

 けた言葉を人々に伝え、彼らがそれを受入れて、信じるに至ったからなのである。

昇天祝日  ルカ24:44-53  使徒1:1-11 エフェソ1:15-23 

1)昇天祝日はルカの日程にしたがって、復活後40日目とすると木曜日になるので、昇天主

 日として復活後第6 主日と置き換えて守ってもよい。日課はルカが用いられているが、

 他の福音書や使徒言行録の昇天記事を参考にしてもよい。

2)復活のイエスは弟子たちに、「神の国について話された」(使徒1:3)。しかし、それは

 死後の世界や天の彼方の問題についてではない。ルカ福音書は、旧約聖書の全体がキリ

 ストについて証ししていることが実現することを、教えられたという。主は弟子たちの

 心の目を開いて、ご自身が示された基本的なメシア像を明らかにされた。すなわち「苦

 しみを受けて、三日目に死者の中から復活する。罪に赦しを得させる悔い改めが、その

 名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」死と復活のメシアも、イスラエルに

 限られずあらゆる国の人々のための赦しも、人々にとっては新しい音信である。それは

 主イエスの生涯を意義付け、将来の伝道を方向づける内容であった。

3)そして主はベタニヤの辺りから、弟子たちを祝福しながら天に上げられた。弟子たちが

 見た最後の姿は、手を上げて祝福してくださる主であった。祝福は取り戻せない力をも

 っていた(創世27章) し、モーセの上げた手は具体的な結果を起こした(出17章) 。そ

 れはいつまでも彼らの歩みを力付けたに違いない。弟子たちは、それが主との最後の別

 れであったのに、悲しみや寂しさをもってではなく、大喜びでエルサレムに帰り、神を

 讃美していた。一つの幕が下りたが、同時にそれは新しい時代の幕開けであった。そし

 て約束された聖霊がくだる時まで都に留まっているように主は彼らに命じられた。

4)天に上られた主は、すべてのもののかしらとして、神の右に座を占められた(エフェソ

 1:20) 。神の右は、神に最も近く、最も高い座と考えられた。パウロは、それが我らの

 ために執り成してくださる主の場所であるという(ローマ8:34) 。神の働きはその右の

 座を通して行なわれる。もちろん聖書の中で天ということ自体、単に大空ではなくて、

 神の御座のある場所を意味する。しかし、同時に地上の場所ではなくて、天はどこから

 でも見上げることのできる神の座である。イエスは地上の生涯の場合とは違う新しいあ

 り方を取られた。私たちもまた、つねに仰ぎ見ることのできる所におられるのである。

 私たちが「三日目に死人の中から復活し、天にのぼられました。そして全能の父である

 神の右に座し・・」と告白するひとつひとつの事の意味を考えなくてはならない。

5)使徒言行録は、弟子たちが将来の使命に向けて、聖霊を待つように命じられたことと共

 に、昇天の主を見送った彼らが、白い衣のみ使いに励まされたことを伝えている。「ガ

 リラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」去ってゆかれた主の方向を見つ

 めるのは過去に向かうか、現実を見ないことになり易い。先立ち行かれる主を見なくて

 はならない。さらに、主は彼らが見たのと同じように、「またおいでになる。」昇天の

 主は、すべての人々に近くおられるばかりか、再臨されるお方でもあるのだ。

聖霊降臨祭 ヨハネ7:37-39  ヨエル3:1-5  使徒2:1-21

1)五旬祭(ペンテコステ)はもともとユダヤ人たちの間で、麦の収穫とシナイ山で十戒が

 与えられたことを記念して祝われた。その日に弟子たちに約束の聖霊が与えられた。祭

 りの日で多くのユダヤ人たちが都に集まっていた時に、弟子たちによる宣教が始まった

 のであり、律法としての十戒と御霊による自由と力が対照される日でもある。

2)五旬祭の日に、主の約束を信じて祈り求めていた弟子たちに約束の聖霊が与えられた。

 焼き尽くし清めると共に新しい力の象徴である火のように、聖霊は弟子たちの一人一人

 の上に与えられた。彼らは恐れることなく、都にいろいろな地方から集まって来ていた

 人々が理解できる言葉で、神の偉大な業を証しし始めたのである。聖霊は主イエスの誕

 生の初めから働いていた。しかし弟子たちが主の来臨と十字架、復活の全体を見て、そ

 こに現れた神のみわざを、いわば世界の人々に証しし始めたのは、この時であった。真

 理を示し、また弁護者でもある御霊が、同時に弟子たちに力を与えたのである。

3)福音書の日課は、イエスが生前ユダヤ人のもう一つの祭、仮庵祭の時に語られたことを

 示している。過ぎ越しと五旬祭と共に、仮庵祭は大切な祭であって、ぶどうの収穫の感

 謝とイスラエルの民が40年の間臨在の幕屋を中心に天幕生活をして荒れ野の旅を導かれ

 たことを覚える時であった。一週間の祭の間、祭司たちは毎日シロアムの池(ヨハネ9:

 7)から水を汲んで、神殿の祭壇に注いだ。それは荒れ野の旅において岩から水を与えら

 れたことを記念し(民数20章) 、また現在の農耕生活に必要な雨を降らせてくださるよ

 うに、神に願ったのである。

4)旧約聖書においても、水は神の霊のしるしとして用いられている(イザヤ44:3他) し、

 終末の時には、回復された神殿から命の水が流れ出ることが言われている(エゼキエル

 47:1、黙示22:1) 。主イエスは自らを神殿に例えられ(ヨハネ2:21) 、サマリアの女と

 の問答の中で生ける水を与えることを語られた(ヨハネ4:14) 。十字架の上の主イエス

 を刺した槍の傷から血と水が流れ出たことが記されている(ヨハネ19:34)。罪の赦しの

 いけにえという意味と聖霊を与えられることが象徴されていると言えよう。ヨハネはこ

 とさらにそれを強調しているのである。

5)主は「わたしのところで飲め」と言われたが、川のように流れる生きた水、すなわち聖

 霊は、信仰者を通して流れてゆくのである。聖霊の働きは、信じる者を導き、支えるだ

 けでない。それは外へ溢れ出てゆく。弟子たちが、力を受けて全世界に伝道に出掛けて

 行ったように、私たちもまた人々のためにみことばを証しし、愛に生きる生活をもって

 ゆく。ルターは、聖霊が働いてまずすることは私たちを教会の交わりに連れて来ること

 だと言っている。しかしその働きは私たちのうちで止まらない。パウロはさまざまな霊

 的な賜物があることを示しているが、皆が求めるべき大きな賜物、最高の道が「愛」で

 あることを力を尽くして述べているのである(・コリント12-13 章) 。

三位一体主日  マタイ28:16-20  イザヤ6:1-8 ・コリント13:11-13

1)西方教会では14世紀頃から聖霊降臨の後に三位一体の記念をしてきた。これは教会暦の

 中での唯一の教理的な祝日であるが、日課は教理的な主題よりも、神がいかにわれわれ

 に働きかけ、弟子たちを派遣されたかを述べていることに注意したい。

2)マタイによると、復活の主は弟子たちに先立ってガリラヤへ行かれ、そこで弟子たちに

 出会われた。ルカは専らエルサレムを中心に考えている。歴史的に整合できるかどうか

 は別として、マタイが、弟子たちが召されて主と共に働いたガリラヤに注目しているこ

 とは注意してよい。彼らは主が指示しておかれた山で復活の主に出会った。マタイによ

 れば、それだけが弟子たちと復活の主の出会いである。

3)弟子たちは、主イエスに会ってひれ伏して拝した。「しかし、疑う者もいた。」これは

 他の弟子たちの中に疑う者があったというのか、出会っている弟子たちの中になお疑い

 があったというのか、また何を疑ったのかも、明らかでない。通常でない経験の中で彼

 らは困惑していたのかも知れない。しかし、主はそれに構わず、彼らに近づき、使命を

 与えられた。復活の主がどういう状態におられるのかは、この世の経験を越えている。

 むしろそのみことばに従うことが彼らに確かさをもたらす。

4)イエスはご自身の力を確証し、弟子たちにすべての人に対する宣教の大命令を与え、世

 の終わりまで共にいるという約束を加えられた。洗礼を授けよということは、決してた

 だ外的な儀礼としての洗礼を授けさえすればよいということではない。「父と子と聖霊

 の名によって」という言葉もよく注意しなくてはならない。父と子と聖霊と言われてい

 るのに、三つの名ではなくて、単数形で名という言葉が用いられている。また「名によ

 って」は、「名の中へと」という気持ちがある言い方である。ただ名が唱えられればよ

 いというのではなくて、父、み子、み霊として働かれる神の救いのみわざによって、神

 ご自身と結び付けられてゆくこと必要なのである。そして相手が生きて働かれる神であ

 るから、洗礼によって結び付けられた人も絶えずそのみ心を聞き、それに従ってゆくよ

 うに努めなくてはならなくなる。

5)父なる神が、み子イエスにおいて贖いのわざをなされ、そのことを聖霊がわれわれの心

 に示される。父なる神とみ子イエスと聖霊とが、相互にどういう関係にあるのかについ

 ては、教理的に難しい議論もなされて来た。しかし、父、み子、み霊なる神を信じる、

 いわゆる三位一体論は、救いのわざが徹頭徹尾神のわざであることを讃美告白するので

 あり、十字架と復活のキリストを見上げることに基礎を置いている。そしてその働きの

 広さも、必ずしも私たちが考える範囲に限定されない。私たちは礼拝においても、父と

 子と聖霊のみ名を呼び求め、そのみ名のもとに結集することによって始め、また同じみ

 名によって結ぶ。「三位を一体において、一体を三位において礼拝する」(アタナシウ

 ス信条) のである。

 










顕現7-臨後4  マタイ5:38-48   レビ19:17-18  1 コリ3:10-23 

1)前の主日から続いて「〜と命じられている、しかしわたしは言っておく」という形で示

 された伝統的な戒めに対するイエスの新しい戒めである。それはただ新しい条項が加え

 られたというのではなくて、種類の違う新しさであった。しかも総括的に天の父の完全

 さに倣うことが求められている。

2)目には目を歯には歯を、というのは出エジプト記21:24 に記されたモーセに与えられた

 法であった。そのこと自体、大事な戒めである。というのは、目をあるいは歯を傷つけ

 られたからと言って、同じだけやり返すというのは、実際問題として考えられない。や

 られた方は一層強くやり返すに違いないし、他方はそれをじっと待っているわけではな

 いからである。それは第三者の裁定者がいることを前提にしている。直接的な復讐では

 なくて、法による刑罰である。しかし主は、悪人に手向かうなと戒められた。右の頬を

 打たれるのは、相手が右利きなら手の甲で打つことになる。それは一層の侮辱を意味し

 た。そして左を打たれるのは、存分に力が込められることになる。

3)ユダヤ人にとっての上着は「唯一の衣服」であり、それにくるまって寝るものでもあっ

 たから、質にとっても日没までには返さなくてはならないようなものであった(出22:2

 5,26) 。ローマの兵隊がユダヤ人を徴用して、1 ミリオン(1.5km弱) 行かせようとする

 なら、逆らわないでその倍も行ってやったらよい。求める者に与え、借りようとする者

 に背を向けるな。それは徹底的に暴力を用いないだけでなく、積極的に仕え、権利をも

 放棄する勇気を持てと言われているのである。それが却って悪に勝つ道となる。

4)それは、敵をも愛せよという言葉で包括される。「隣人を愛せよ」(レビ19:18)という

 言葉は旧約にあるが、「敵を憎め」という語の直接の典拠はない。むしろ敵対する者に

 も親切にしなくてはならないと戒められている(出23:4,5) 。ここでは俗に言われてい

 たことが引用されたか、強調して言われたのであろう。それは「天の父の子となる」た

 めである。主イエスは、神を自分の父と呼ばれたばかりでなく、「わたしたちの父よ」

 (6:9)と呼ぶことを人々に求められた。キリストの名を信じる者は神の子となる資格を

 与えられた(ヨハネ1:12) し、聖霊はそれを受ける者を「子とする霊」(ローマ8:15) 

 であった。しかし、それは具体化しなければならない。キリストに信頼する者は、実際

 に天の父の子となってゆかなくてはならないのである。しかも主はとんでもない求めを

 加えられた。父なる神が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

5)主イエスの求めは、人の果たし得る限界をはるかに越えている。しかし、神の子である

 ことは、こういうことであると示された。私たちが、どうしようかと選択することとし

 てではなくて、「あなたがたは〜である」と宣言して、そのことの中に巻き込まれる。

 与えられた戒めは簡単なことだけれども、不可能なことである。しかし、それによって

 私たちは全く赦しの神により頼むように導かれるのである。

顕現8-臨後5  マタイ6:24-34  イザヤ49:13-18 1 コリ4:1-13

1)この日の日課は山上の説教の中でもよく知られた部分である。それだけに聖書が何を言

 っているかを注意して聞いて行かなくてはならない。

2)神とこの世的な財産や富の両方に兼ね仕えることはできない。仕えるということは、そ

 の奴隷としてすっかり制約されていることを意味している。神を信じているというのは

 その相手である神に心から信頼していることである。大教理問答書は、金や財産を持っ

 ていることですべてを所有しているかのように思い込み、ひたすらそれに頼り、それを

 鼻にかけて、人を人とも思わないような者は、実はマモン(富) という別の神を持って

 いるのだと言う。多くの人の場合は、それぞれ極端にではないが適当に、しかし実は自

 分に仕えさせようとするのが問題であるかもしれない。「地とそこに満ちるもの、世界

 とそこに住むものは、主のもの」(詩24:1) であり、自分をも含めて神の支配のもとに

 あることを覚えなくてはならない。

3)弟子たちは主のみことばに対して、自分たちは衣食が事足りたら十分ですというような

 答えをしたかもしれない。イエスは追いかけて、衣食について思い悩まないように言わ

 れた。空の鳥は種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めることもしない。野の花は働き

 もせず、紡ぎもしない。しかし鳥は養われ、顧みられない野の花は栄華を極めたソロモ

 ンも及ばないほど美しく装われている。それは天の父なる神の恵みにほかならない。鳥

 や野の花よりもまさる人間において、神がよりよく配慮してくださるのは当然ではない

 か。だから、大きな富についてのみでなく、だれでも、自分の物質的な生活について思

 い悩むことはない。天の父は、これらのものが皆必要なことをご存じであるからだ、と

 主は言われた。もちろん、鳥は鳥なりに忙しく飛び回って食を求めている。野の草もそ

 の種に適した土地でなければ成長はできない。しかし、これらのものが人間のためにす

 ばらしい説教をし、証しをしていると言える。

4)思い悩んではならないという戒めは、もちろん必要な準備もしないで、明日は明日の風

 が吹くとばかり、宵越しの金も持たない生活の奨励ではない。先のことを心配して、不

 必要なあがきをしないで、その日、その日の責任を果してゆくことが求められているの

 である。肝心なことは、神の国と神の義を求めることである。神は創造者としてすべて

 のものを支配し、必要なものを備えてくださるに違いない。それは父としての神の慈悲

 と憐れみによる。現実には、力の不足や災害、人の争いなどの障害によって、少しもう

 まくことが運んでいないように思えることもある。それは人間の罪のゆえに生じた問題

 である。神の支配が具体化することをこそ、望み見てゆかなくてはならない。それだか

 ら、神のみ心が実現される終末の時、大いなる明日が待ち望まれるのである。この箇所

 で主が言われた多くの言葉が、6 章の初めに記された主の祈りの言葉に対応しているこ

 とも注意したい。

顕現9 ー聖霊6  マタイ7:15-29  申命11:18-28 ローマ1:8-17

1)福音書の日課は山上の説教の結びである。申命記でモーセは神の言葉をそれぞれの身近

 かに記して心に覚えることを命じたが、イエスは実際に行うことを求められた。信仰は

 心の確信に留まるのではなくて、具体的な成果をもたらさずにいない。

2)福音書の日課は、三つの部分に分かれる。偽預言者と奇跡さえもたらす熱狂主義的な人

 々が、歴史的にどういう人々であったか、またどの年代の問題を反映しているかは別と

 して、つねに必要な両面での戒めが語られる。それぞれの部分のルカの伝え方との比較

 も示唆を与える。

3)羊の皮をかぶって近づいてくるが、実は貪欲な狼のような人がいる。羊飼いは羊の皮の

 衣を着ていたし、預言者は毛衣を外套とした(列王上1:8)。しかし、人をたぶらかす偽

 預言者はその実によって弁別できる。マタイ12:33 にも木と実について、同様のことが

 言われている。また「樹木の手入れは、実を見れば明らかなように、心の思いは話を聞

 けば分かる」(シラ27:6) という。木はその種類によって、また手入れの仕方によって

 も、それにふさわしい実をもたらす。それには時間がかかるので、すぐには見分けられ

 ないようでも、やがて結果は明かとなり、審判に逢うことになる。

4)イエスに向かって「主よ、主よ」というだけでなく、み名によって預言し、悪霊を追い

 出し、奇跡を行うようなことがあっても、裁き主である主の前で「全然知らない」と拒

 絶されてしまう者もあることが警告される。そこでは真の神によらなくても、ある程度

 不思議なわざを行い得ること、前とは逆に、結果によってだけではなくて、どういう力

 によって、どういう方向でことがなされるかが問題とされる。出エジプトの際、ファラ

 オの魔術師たちも「神の指の働き」と諦めるまではモーセと同じことをなしえた(出7-

 8 章) 。しかし愛がなければ無に等しい(1 コリント13:2) 。その人たち自身の救いに

 はならない。悪霊の追放や奇跡と思われることに大騒ぎする必要はない。

5)主イエスの言葉を聞き、それを自分に適合することとして受入れ、行ってゆくことが必

 要なのである。そのような人は、岩の上に家を建てた賢い人に例えられる。それはただ

 岩の上に乗せて建てられた家ではない。地面を深く掘り下げ、それによって到達した岩

 の上に土台を置いている(ルカ6:48) 家である。主イエスの言葉がただ標語として繰り

 返されるのでなく、自分の状態の中に深く受け取られ、絶えず力の交換がなされていな

 ければならない。

6)イエスは学者たちのように、誰かを自分の主張の権威付けとして引かれたのではない。

 預言者たちのように、「主はこう言われる」と言われたのでもない。聖書的な伝統をさ

 え批判して、「わたしは言っておく」「はっきり言っておく」と宣言された。人々がそ

 の権威に驚いたのも無理はない。そしてその驚きは、マルコによると(1:22)、主が最初

 に会堂で教えられた時から人々の中にあったのである。

聖霊降臨後2-7  マタイ9:9-13  ホセア5:15-6:6 ローマ5:6-11

1)主イエスは四人の漁師のほか(マタイ4:12以下) 、マタイをも弟子として召された。そ

 れは次の12弟子の選定につながる。多くの人々に教えられただけでなく、少数の弟子た

 ちを核としてその教えを宣べ伝えられた。信仰の伝達には個人的な交わりにおける影響

 が大きな役割を果たすし、信仰はそういう形で形成されてゆく。

2)マタイはこの福音書の著者に擬せられてきたが、厳密にはもはやその考えは支持されて

 いない。しかもマルコ、ルカには徴税人レビの召しはあるが、レビがマタイであるとい

 うことはマタイ9 章の記述がそれらと同じであるということ以外に、言われていない。

 しかし、どういう背景があるにせよ、弟子マタイの名で伝えられた福音書の中での、マ

 タイの名の弟子が召された記事は大きな意味を負わせられていると言ってよい。

3)マタイは通りがかった主イエスに呼ばれて、立ち上がってついて行った。徴税人は嫌わ

 れていたけれども、それだけうま味のある仕事であったから、その地位を狙う人々もい

 た。したがって、その地位を離れたら、再びそこに戻ることは難しい。漁師がすべてを

 捨てて主に従うこと以上に決断を要することであった。徴税人はローマ政府のもとで、

 税金の徴収を請け負っていた。ユダヤ人にすれば、祖国を征服した相手のために税金を

 徴収するだけでなく、その途中で私腹を肥やすこともしたから、汚れた者、憎むべき者

 とされていた。しかし、主はそのようなマタイを公に呼び、従うことを命じられた。そ

 してマタイはそれに応じて行ったのである。

4)彼は、主が汚れた者、憎まれる状態にあった者をも、区別しないで呼ばれたことを、大

 きな喜びとして、主イエスを自分の家に迎えて歓待した。自分がどういうわけか、主に

 差別なく取り扱われ、自分だけは徴税人仲間から抜け出て、主に召されることができた

 ことを喜んだだけではない。彼はむしろこの主を自分の仲間たちに紹介する方向で、歓

 待したのである。したがって、そこには徴税人仲間や、罪人とされる人々が集まって来

 た。罪人と呼ばれたのは、律法に定められた生活を守りえない人々を指したが、それだ

 けでなく当時の人々の感覚で不品行な者たち、例えば娼婦、徴税人、高利貸し、十一税

 を納めることを怠る者などを含んでいた。この時の人たちが具体的にどういう者であっ

 たか分からないが、少なくともファリサイ人らには一様な罪人たちが主の一行と同席し

 たのである。食事を神聖な、ある意味では礼拝行為のように受け取っていたユダヤ人に

 は、それは承服しがたい態度であった。

5)主イエスはファリサイ人の問いに対して、医者を必要とするのは病人だと宣言された。

 ホセア6:6 の言葉は、積極的に愛をもって人々の中にあることが神の求められることで

 あると語っている。律法に忠実であることを求めるファリサイ人が、むしろ聖書の言葉

 に反しているではないかとやり返された。主が、正しい人を招くのでなく(本当にその

 ような人はあり得ないが) 、罪人を招くために来られたことこそが福音であった。

聖霊降臨後3-8  マタイ9:35-10:15  出19:1-8a ローマ5:12-15 

1)主はご自身が人々のために働くと共に、働き手を送ってくださるよう神に願うことを勧

 め、ご自身12人の弟子たちに力を与えて遣わされた。それは主の働きを広げてゆくこと

 であり、主の働きに彼らは合わせられたのである。

2)9 章35節以下は、4:23以下と似ている。それは主ご自身の活動の要約にほかならない。

 町や村を回って会堂で教え、み国の福音を宣べ、病む者を癒してくださった。しかしこ

 こでは、飼い主のない羊のような群衆に対して、働き手が少ないことを描いている。神

 の眼には、いつでも収穫は多いのに、働き手が少ないのである。主イエスは深く憐れま

 れた。はらわたに響くような痛切な同情を感じられた。刈り入れはホセア6:11にもある

 ように、神がこの世に介入して、裁きをなさる時を指している。

3)マタイは主が12人の弟子を呼び寄せ、それに力を与えて派遣されたことを示している。

 遣わされる者であるから「使徒」と呼ばれる(ルカ6:13) 。彼らは自分たちがよりよく

 信仰に進み、救いの知識を持つように訓練されたのでなく、主に遣わされ、主ご自身の

 働きに合わせられた。マタイは12人の選定そのものについて語っていない。任命や彼ら

 の地位が問題なのではなくて、派遣のためであったからである。

4)使徒たちは、異邦人やサマリア人たちでなく、イスラエルの失われた羊に行くように命

 じられた。主ご自身カナンの女や(マタイ15:21-28) 、サマリアの女性を導かれたりし

 た(ヨハネ4 章) 。しかし、マタイは主が専らイスラエルのために働き、人々が受け入

 れないことが明らかになったのち、異邦人への宣教が始まるという段階を見ていたと思

 われる。したがって使徒たちの働きもまずイスラエルの人々に限られている。

5)彼らの働きは、主イエスの働きの延長であり、主の働きを担ってゆくことであった。そ

 こで主と同じように「天の国が近づいた」ことを知らせ、病人を癒し、死者を生き返ら

 せ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い出すように命じられている。もちろん

 弟子たちが癒すことのできない場合もあった(マタイ17:16)。死者を生き返らせるよう

 な奇跡を弟子がしたことは記されていない。しかし、主の復活の後の弟子たちの働きを

 も含めて、罪のうちに死んだも同然の人々が神との生活に引き戻されたことは沢山あっ

 たに違いない。主と共にある経験も短い、無学な普通の人(使徒4:13) の彼らに、この

 ような権能が授けられたのは驚くべきことである。しかし、それは彼ら自身の力ではな

 く、主の働きが負わせられたのである。だから無代価で与えるように戒められた。

6)彼らがもたらす平和の挨拶は、もともと「シャローム」(平和) というユダヤ人の普通

 の挨拶であったが、聖書はその元の意味を重く見、主の与えられる平和(ヨハネ14:27)

 として考えている。そして彼らの祝福は空しくはならず、もし相手がそれを受けるのに

 ふさわしくないならば、その平和はもたらす人に帰ってくると言われる。それは、彼ら

 の平和の祝福が空しく消えるのでないことを強調している。

聖霊降臨後4-9   マタイ10:16-33  エレミヤ20:7-13  ローマ6:1-11

1)主は12人の使徒を派遣するにあたって、細かな注意を与えられた。それは前週の日課か

 ら始まって、次週に及んでいる。しかしマタイは、そして今日これを読む者も、直接に

 12弟子のみでなく、何時も主に遣わされる者への注意であり、励ましとして見る。

2)弟子たちは、主の働きを行い、広めて行くのであるから、人々が弟子たちに対する仕打

 ちも主イエスに対するものと同様となる。弟子はその意味でも、師のようになる。キリ

 スト者が身につける十字架は、イエスの処刑のしるしであり、飾りでなくてむしろこの

 世からの排除のしるしでもあった。神からの働きを素直に受けることのできないこの世

 において、弟子たちはいろいろなレベルでの迫害を受けざるをえない。ユダヤ教からも

 政治的権力からも、そして家族からも責められる。われわれの心においてさえ反対の思

 いがある。しかし、働きかけられた主に信頼してゆかなくてはならない。

3)弟子たちは羊に、そのメッセージを受け入れない者たちは狼に例えられている。それは

 黙示文学の比喩に倣ったものであろう。使徒たちは新しいイスラエルを代表するもので

 あり、これに聞かない者たちは、迫害する者である。彼らは野の生き物のうちで最も賢

 い(創世3:1)とされた蛇のように賢く、しかし古代の考えでは怒ることのないものとさ

 れた鳩のように素直であることが求められる。パウロは40に一つ足らない笞を受けたこ

 とが5 度もあったといっている(・コリント11:24)が、それはここで言われているユダ

 ヤ人の法廷による。迫害されたら、他の町に逃れたらよい。憎まれても追われても、最

 後まで耐え忍ぶことが求められる。

4)体は殺しても魂を滅ぼすことのできない者を恐れてはならない。当時の人々の間では一

 番安価な一羽の雀も、神のみ旨に逆らって人が自由にすることはできない。髪の毛まで

 も皆数えられている。しかしそれは一般的な神の摂理としてよりも、ここでは神の使者

 たちを守り導かれるという脈絡で語られている。宗教改革の時、最初の信仰告白となっ

 たアウグスブルク信仰告白は「王たちの前であなたの証しを語って恥じることはない」

 (詩119:46) と、表題に付記している。言わなくてはならない時には自分の内で語って

 くださる神の霊に信頼し、明るみに向かって語らなくてはならない。

5)自分を主イエスの仲間であると告白する(言い表す) 者は、主ご自身が神の前で主の仲

 間と告白してくださる。キリスト者の信仰告白は、決してただ教えを受け入れるという

 だけではない。イエスを自分の主と言い表すのである。そしてそのような信仰告白は、

 神の前に自分を言い表してくださる主の告白を基とし、支えられている。それが信仰告

 白の基本的な意味である。弟子たちがイスラエルの町を回り終えないうちに人の子は来

 ると、言われている。それは救いのための到来でなくて、裁きのための来臨、終末の時

 を意味している。直接にはエルサレムの滅亡(AD70) が意識されていたのかも知れない

 が、究極的な意味ではその時はいつも私たちの前にあって、励ましを与えている。

聖霊降臨後5-10  マタイ10:34-42  エレミヤ28:5-9    ローマ6:15-23 

1)イエスが12弟子を伝道に遣わされるときに、与えられた諸注意の結びに当たる箇所が日

 課である。しかし、その内容は単にいわゆる伝道者用の注意というだけではない。すべ

 て主の弟子、すなわち信仰者であろうとする人々が聞かなくてはならない言葉である。

2)一般的なユダヤ人の考えでは、メシア到来の前には苦難が増し加わるが、メシアそのも

 のは私たちに恵みをもたらすと考えていた。それは「平和の君」(イザヤ9:5)と唱えら

 れるべきお方である。主の誕生に際して、天軍は「天に栄光、地に平和」(ルカ2:14) 

 と歌った。ところが、主は地上に平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来

 たと言われた。主の与えられる平和は、世が与えるように与えられるものではなかった

 (ヨハネ14:27)。表面的な、差し当たり対立のない状態というのではなくて、神との平

 和はむしろ人々の心に鋭く突き刺さり、分裂さえも起こさせる。腐敗した民の中では、

 ミカ7:6 に示されたような分裂や戦いも起こる。そして神を神として、何ものにも増し

 て恐れかしこむことが求められる。

3)イエスに従うことは、自分の誉れや命さえも喜んで捨てる覚悟を求める。確かに主は人

 々の救い主であられるが、それは私たちが自分中心に求めることが満足されるというこ

 とではない。神を求めているようで、いつの間にか自分に仕えてくれる神を探している

 ということになり易いのが私たちである。この世的な成功のために力を貸してくれる神

 を求めても、聖書の神にふさわしくない。むしろ自分の十字架を担って従えと、主は言

 われる(16:24)。福音書の中で十字架は、主の十字架のほかにこの脈絡においてのみ現

 れる。十字架刑は、罪を冒した奴隷や政治的反逆者に対するローマの刑罰であった。処

 刑される者は、自分の付けられる十字架の木を背負って、刑場まで行かなくてはならな

 かった。それは主イエスが踏まれた道であったが、弟子たちもまた、自分がそれによっ

 て罪ゆるされたのであるから、それに合わせられ、倣ってゆかなくてはならない。直接

 的に、自分のいのちを保持しようとするなら、かえってそれを失ってしまう。主のため

 に名誉も命を捨てる態度が、かえって違う意味で、命を得ることに繋がるのである。

4)弟子は主イエスと本来一体である。弟子たちを受入れる者は主を受け入れる。主を受け

 入れる者は神ご自身を受け入れる。そして、主と同じ報いを受けることができる。主イ

 エスの弟子だという理由で「この小さい者の一人」に冷たい水の一杯でも飲ませてくれ

 る者は必ずその報いを受ける。それは、マタイ25:31 以下の「私の兄弟であるこの最も

 小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたこと」だというみことばを連想させる。そ

 れはもともと多くの人々に言われるべき言葉であって、遣わされる弟子たち向けの言葉

 ではない。しかし、弟子たちに語られているのは、弟子たちがそのように遣わされる主

 と結びついていることの保証である。彼らは主に遣わされ、主を証しする。そしてその

 報いは自分にではなく、主に帰せられるのである。

聖霊降臨後6-11  マタイ11:25-30  イザヤ40:26-31 ローマ7:15-25 

1)主は弟子たちを遣わされるだけでなく、ご自身も町々、村々を回って伝道された。しか

 し、人々は洗礼者ヨハネにも主イエスにも、本気で聞こうとしない。悔い改めない町を

 叱り、嘆かれたが、それに続いてこの日の日課がある。幼子のような心に真理を示され

 た神への讃美と、人々への招きの言葉である。

2)主ご自身も、そして弟子たちも神の国の福音を説いたのに、その結果は必ずしも期待の

 ようではなかった。幼子にたとえられた謙虚な人々はこれを受け入れたが、知恵ある者

 や賢い者たち、すなわち神の教えを学び知っているはずのファリサイ人や律法学者たち

 は、かえってこれを受け入れず、関心は示しても聞き従おうとはしない。しかし、主は

 それを伝道の失敗と見られたのでなく、父のみ心であるとして、ほめたたえられた。い

 つの時代にも、福音は人間が期待するような形で広まってゆくとは限らない。しかし弟

 子である者は、ひたすら努めて止めてはならない。主を信じることも、神の賜物であり

 祝福である。神が真実のことを、知恵ある者には隠される。人の側に必要なことは知恵

 や知識でなく、謙虚な心なのである。

3)たとえイエスの伝道が、人の考えたように行かなくても、それはイエスの誤りの故だと

 いうのではない。すべてのことは、父なる神から主に委ねられているのだから、それは

 むしろ人の側で恐れるべき事態なのである。父なる神のみが、イエスがだれであるのか

 を知っておられる。そして父が示されるとき、人々はイエスを知ることができる。主を

 宣べ伝えている人間は、拒まれようと受け入れられようと、ひたすら命じられたように

 努めなくてはならない。もちろん自分の意見ではなく、キリストの出来事が妨げられな

 いで伝えられるように努めるのである。

4)イエスはご自身と父なる神の間の結びつきを示し、その宣べ伝えたことが受け入れられ

 るにせよ、受け入れられないにせよ、そこに示された神のみ心を見て神をほめたたえら

 れたが、一転してご自分が人々へ如何に関わっているかに言葉を向けられた。それは大

 きな慰めの招きである。疲れた者、重荷を負う者は私のもとに来いと、直接的に語りか

 けられる。その言葉はシラ書51:23-26に類似している。しかしシラ書は知恵が主題であ

 るが、主イエスはご自身との人格的な交わりへと招きたもうのである。

5)律法学者たちのように、さまざまな戒めを守ることを、主は求められたのではない。律

 法を全うする愛を求められた。軛は牛馬に物を引かせる時に首にかけるものである。そ

 の言葉が人間にあてて用いられるときには、軛をかける主人への服従を意味している。

 軛のもとにある奴隷の身分の者は、主人を尊敬すべきものとしなくてはならない(1テモ

 テ6:1)。しかし主は、私の軛は負いやすく、その荷は軽いと言われる。軛が体に合って

 おり、それだけでなく、主人であるお方自身が柔和で謙遜であるからである。そこにお

 いてこそ、すべの者は魂に安らぎを得ることができる。

聖霊降臨後7-12  マタイ13:1-9  イザヤ55:10-11  ローマ8:18-25 

1)主イエスの教えの特徴の一つは多くのたとえを語られたことである。マタイ13章にはそ

 の最初のたとえが幾つか出てくる。長い形では23節までを日課に加える場合があるが、

 それはたとえで語られたことの意味と、このたとえの直接的な意味が示される。但しこ

 の説明は、主イエスのたとえの持つ切迫感が薄いので、後の付加とも考えられる。種に

 ついての別のたとえが次週の日課になっていることも注意したい。

2)種を蒔く人のたとえを、主は群衆に向かって語られた。そしてその意味を弟子たちに説

 明された。弟子たちも主に助けられないと理解し得ない。たとえは主題を分かり易くす

 るために用いると私たちは考えるが、必ずしもそうではない。主はむしろ人々に天の国

 の秘密が知られないためだと言われる。それは一般群衆と弟子たちの集団という具体的

 な区別によって分けられるというより、一般的に聞く場合と主に従おうとしながら聞く

 場合の相違と考えてよい。一定の理解に慣らされて、私たち自身もその秘密を正しく理

 解し得ているかどうかを、いつも反省して見ることが必要である。

3)蒔かれる種は「御国の言葉」である。当時のパレスティナの種蒔きとわが国での種蒔き

 の相違は、土地を耕してよく準備してから蒔くのと、一面に種を蒔き散らしてから耕す

 という相違だという。そうであれば、休耕時に茨が生えていたり、人が通って踏み固め

 られたいたりするところにもすっかり種を蒔いて、それに応じて余さず耕したかどうか

 が問題となる。そうでなくても、種を受け入れる土地がいかにそれを迎えるかが問われ

 ている。

4)道端は、人がしばしば通るので踏み固められた地で、種を深く受け入れられない。人間

 的な考えや人々の通常の理解に固まっていて、新しい挑戦を受け付けることができない

 土地である。折角蒔かれた種も、悪い者にしばしばたとえられる鳥についばまれてしま

 う。石だらけの地というのは、石ころがごろごろしているというよりも、石の層の上に

 薄く土がかぶさっている土地である。土が深くないから、石で温められて早く芽は出す

 が、枯れやすい。茨の地は茨もろとも耕すことができるが、強い根が残っていてよい種

 の成長よりはるかに早く成長し、よい種の成長を妨げる。みことばを聞くが、思い煩い

 や誘惑にふさがれて、実が実るに至らない。しかし、こうした土地にたとえられる人を

 具体的に想定することがこのたとえの意味であると思ってはならない。主イエスのこと

 ばはいつも状態の説明でなくて、勧めであるからである。

5)主の伝道は、期待されたようにすぐに発展はしなかった。しかし、無駄になる場合もあ

 ることは分かっていても、種を蒔く人があらゆる所に蒔き、圧倒的な実りを希望してい

 る。確かに実りをもたらす人も、その実りのさまは一定ではない。しかし、地が実るの

 ではなくて、種が実るのである。神のことばは、希望の持ちにくい場所からも実りをも

 たらすことができることを信じて、たゆまず蒔く者でなくてはならない。

 














聖霊降臨後8-13  マタイ13:24-35 ローマ8:26-30   イザヤ44:6-8

1)前週に続いて、天の国についての三つのたとえが日課となっている。毒麦の話は、種を

 蒔く人の場合のように、説明が後に出てくるが、これも後の付け加えと考えられる。

2)たとえという言葉は箴言(詩78:2) や比喩、なぞなど広い意味で理解される。しかし、

 主は「天の国」を示すためにたとえを使われた。たとえは比喩的に用いられている場合

 もあるが、比喩とは違って話全体の中での主題がある。したがって用いられた例の詳細

 に入り込み過ぎると、的を外すことになるので注意しなくてはならない。

3)天の国、天国は、マルコ福音書では神の国と呼ばれている。天は神がおられる所を指し

 ている。しかし、天の国がいかに素晴らしい所であるかとか、いかにそこにたどり着く

 ことができるかということのたとえではなく、いかにこの世界の中で成長し、人々の生

 活を変えずにいないかが語られる。天の国は神が支配される所を意味していて、どうか

 すると考えられ易い死後に行くことのできる楽園ではない。

4)毒麦は、穂が出る頃までは麦と見分けがつきにくく、その頃になると根がからみあって

 いるので、それだけを抜くことが難しくなっている。それで収穫の時により分けなくて

 はならなかった。軽い毒性をもっていて、麦と一緒になると苦くていやな味になった。

 他の人の畑に害になるものを蒔くということは、どこにもあった悪業である。わが国の

 昔の祝詞の中にも天津罪の一つとして頻蒔(しきまき)が数えられている。それは他の種を後

 から蒔いて、元の作物の成長を妨害することと考えられる。純粋な信仰生活を保持しよ

 うとしたユダヤ人の中には、主イエスが徴税人や罪人をも招かれたことにつまずく人も

 いた。しかし純粋であろうとした人々をも含め、だれがよい麦であるのかは、刈り入れ

 の時まで分からない。審判するのは神であって、それ以前に人が決めつけることはでき

 ない。36節以下に示される説明は、キリスト者の共同体の中にも同じ問題が起こること

 を示している。今は同様の状態にあっても、最後に炉に投げ入れられるものにならない

 よう、自ら努めて行かなくてはならないし、早急な判断である者を排除してしまい、神

 の審判を自分のものにするようなことがあってはならない。

5)からし種は、どんな種より小さいというのは少し誇張としても、大根の種のように小さ

 いことは確かで、場所によっては2-3 メートルの高さまで成長した。大きな木に成長し

 て空の鳥(異邦人にたとえられた)までやってくるという姿は、ダニエルが判断したバ

 ビロン王ネブカドネツァルの夢にも似た形である(ダニエル4:21) 。それは今は小さく

 ても、やがて大きく成長せずにいない天の国の姿を象徴している。パン種は植物の種と

 は違うが、小麦粉と混ぜてねるとやがて発酵して大きくふくれる。出エジプトの際のあ

 わただしさを記念して除酵祭(出12:15)を守ったことからの連想によって、むしろ悪い

 影響力をパン種にたとえた例もある(・コリント5:6-8)。しかし主は、彼らの日常生活

 での経験を、神の力が人々の生活を具体的に変えずにいないことにたとえられた。

聖霊降臨後9-14    マタイ13:44-52 ローマ8:31-39   列王上3:4-15

1)天の国のたとえがさらに三つ続いている。13章の初めは群衆に対して語られたのであっ

 て、後で弟子たちに説明がなされる形であった。しかし、この部分は天の国は次のよう

 である、という言葉でたとえが記され、最後に弟子たちへの確かめが来るので、弟子た

 ちに語られたたとえということができる。

2)イスラエルの民は、何度も外国の侵略にあった。その際に財産を地中に隠したまま、当

 事者が元の場所に帰って来れなくなって忘れられた場合もあっただろう。雇い人として

 日々その畑を耕していた人が偶然その宝を見つけた。自らの貧しさにも関わらず、持ち

 物を売り払って、その畑を自分のものとする。現代人の感覚では、そのようなことは合

 法的かという気もするが、ユダヤ人の解釈では見つけた人のものであった。たとえの主

 題は、見つけた物の価値の故に、自分の財産のすべてを売り払っても、これを手に入れ

 るという点にある。そのような価値あるものとして「天の国」がある。そして多くの人

 々が見ようとして見ることのできなかった救い主を、弟子たちは見ることができ、その

 話を聞くことができている。

3)よい真珠を探していた商人が見つけた真珠のために、自分の持ち物をすっかり売り払っ

 てそれを手に入れるというたとえも、同じ主題である。商人は雇われて畑を耕す者に比

 べると、自分で相応の財産も持っていたに違いない。農夫は思い掛けなく宝を見つけた

 が、商人は予てからそれを探していた。しかしそういう相違を越えて、同じように、何

 も自分のために取っておくことなく、見いだしたもののためにすべてを投げ出した。天

 の国は、そのようにさせるほど大きな価値を持っている。実際には人が求めることを越

 えて、逆にその人自身を求めるのである。

4)漁師は網で魚を捕らえて岸に引き上げるが、それがどういう網であったにせよ、種々雑

 多な魚を一緒に捕らえているに違いない。ユダヤ人には食べてよい清い魚とそうでない

 ものの区別があった(レビ11:9-12)。そうでなくても、食べられないものはえり分けら

 れる。同じように、時が満ちると天の国はすべてのものを捕らえるが、天使によってえ

 り分けられる。刈り入れまで両方とも育つままにしておけ(13:30) というように、終わ

 りの時には裁かれ、器に入れられるものと捨てられるものが分けられる。

5)天の国のことを学んだ者は、律法学者とは違う。「学んだ」という言葉は、すべての民

 を「弟子としなさい」(マタイ28:19)という語と同じである。天の国の弟子となった学

 者である。知識として学び知るというのではなく、自分自身が天の国に属するようにな

 ったのである。それは自分の倉から、古いものであれ、新しいものであれ、自由に必要

 なものを取り出すことのできる主人にたとえられる。天の国を手にいれるなら、人間的

 な、時代的な基準に惑わされることはない。神のみ旨に従って判断して行くのであり、

 そこでは古いものも意味をもち、新しいことを語っても古いものの実現となる。

聖霊降臨後10-15   マタイ14:13-21 ローマ9:1-5   イザヤ55:1-5

1)福音書の中で主が群衆を養われた記事は都合6 回でてくる(マタイ、マルコに各二回、

 ルカ、ヨハネに一回)。四福音書に共通して記された出来事であって、その意味の重要

 さを示している。それはメシアの備えられた食事として、聖餐と結びついて考えられて

 きた。それぞれの強調があるが、マタイのここでの出来事への関心をみる必要がある。

2)主は、洗礼者ヨハネが殺されたと聞いて、人里離れた所に退かれた。ご自身の将来をも

 考えられたのであろう。しかし追いかけて来た群衆を見て深く心を痛め、病人を癒され

 た。夕暮れになったので、弟子たちは群衆を解散させて、それぞれが食べ物を得るよう

 にさせてくださいと願った。主は、彼らを行かせることはない、あなたがたが彼らに食

 べ物をやりなさいと、言われた。男の数が五千人という群衆の食物が、現在でもにわか

 に手に入るはずはない。マタイは弟子たちの手元にあったものが僅かな食料でしかなか

 ったことを示している。しかし主は、彼らの内にあったその五つのパンと二つの魚を、

 ここに持って来るようにと、命じられた。

3)ここから出てゆく必要はない、ここに持って来なさい、と主は主のもとにある場所を強

 調された。主のもとで、人は本当の命の養いを受ける。神は預言者エリシャを通して、

 20個のパンを百人に分けて、食べきれないという状態にさせられた(王下4:42,43)し、

 モーセは荒れ野でマナを受けて人々を養った。主イエスはこれらの人々のまさって力が

 あり、人々に救い主と共なる食事を演出された。パンと魚が用いられたのは、他の養い

 の記事でも共通であるが、マルコ6 章を除き魚の残りへの言及はない。魚は復活の主と

 の出会いにおいて重要な役割を占めていた(ルカ24:42,ヨハネ21:13)。そのギリシャ語

 のIXθUS(イクスス)は、イエス・キリスト・神の子・救い主の頭文字となり、初代教

 会でキリスト者のシンボルとして用いられた。しかし、最後の晩餐では用いられていな

 い。ヨハネ6:53以下には、突如としてキリストの血が出てくるのと対照的に、ここでは

 魚が消える。福音書記者たちが、五千人の養いと聖餐の出来事に関連性を見ていたこと

 を示唆している。少なくとも、最後の晩餐と復活の主との食事、五千人の養いの出来事

 は関連して覚えられたし、そのことがこの記事にも反映しているかもしれない。

4)主イエスはパンと魚を取り、天を仰いで、「讃美の祈りを唱え(祝福し) 」、裂いて、

 「渡され(与えられ)」た。これらの動作は分詞で続いていて、括弧の部分だけがもと

 の動詞の形で強調されている。それも最後の晩餐における主ご自身の分与として与えら

 れたパンとぶどう酒と共通している。弟子たちは、「あながたが」食べ物をやりなさい

 と言われて困惑したが、結局主のみ業に奉仕して、群衆に分け与えたのは弟子たちであ

 った。そこには、弟子たちが教会でなすべき仕事が示唆されている。すべての人が満ち

 足りて、残ったものが十二の籠に一杯になるほどであった。それはさらに多くの人々が

 加わる可能性があることを示している。

聖霊降臨後11-16   マタイ14:22-33   ローマ11:13-24  列王上19:1-21 

1)五千人を養われた主は、その場所に留まらず、弟子たちを舟で送りだされた。そしてご

 自身は本来意図したように、一人退いて祈られた。そして自分たちだけで行かなくては

 ならなかった弟子たちの舟は、主を天に送ったのちの教会のようなものであった。逆風

 に悩まされる中でも主が思いがけない仕方で近づいて来られる。主への信頼を固く保っ

 てゆかなくてはならない。

2)五千人を養われた後、主は強いて弟子たちを舟で湖の向こう岸へ渡らせられた。群衆に

 メシヤとして担ぎ上げられるような行き違いを恐れてのことであったかもしれない。弟

 子たちの中には何人ものガリラヤの漁師たちがいた。しかし、自分たちの漁の場合と勝

 手の違う時間に、先で何が待っているか知れない向こう岸に、しかも主と離れて自分た

 ちだけで行かせられた。実際彼らは逆風の悩まされて、夜明けにまで及んだ。そして主

 が湖の上を近づいて来られるのを見た。もっとも「湖の上」を湖の方へと読むこともで

 きる。問題はどこを歩かれたかよりも、思いがけない主の接近に、弟子たちが幽霊かと

 恐れたということである。弟子たちが困惑している中に、イエスは助けに来られたが、

 彼らにはそれと分からないで、別の何かかと思われた。

3)恐怖のあまり叫び声を上げた彼らに、「安心しなさい、わたしだ」と主は言われた。こ

 の「わたしだ」という言葉は、旧約において神が現れたもう時の特徴ある言い方である

 (出3:14, 申命5:6,詩46:11)。それは単に恐れている弟子たちが自分に気づくためとい

 う以上に、ご自身を神的存在として現されたことを伝えている。そしてその時の弟子た

 ちに対してだけでなく、あらゆる時にこうして近づいてくださる慰めと励ましの呼びか

 けでもある。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる」(イザヤ43:2) 。

4)安心したペトロは、相手が主イエスであるなら、自分も主によって水の上を歩いて主の

 もとに行きたいと願った。しかし、強い風に気がつくと怖くなり、主イエスから目を離

 したためたちまち沈みかけ、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐ手を伸

 ばして彼を捕らえ、「信仰の薄い者よ」と叱られた。弟子たちは何重にも主から離れて

 いたが、しかし主は彼らを捕らえてくださった。そして不完全な形で終わったが、主の

 なされることは主の力によって弟子たちにもなし得られることを示した。

5)主イエスとペトロが舟に乗ると、風は静まった。舟にいた弟子たちは「本当にあなたは

 神の子です」と言ってイエスを拝んだ。それはフィリポ・カイザリアでのペトロの信仰

 告白でもあり(マタイ16:16)、主の十字架の死を見届けた百人隊長らの告白でもあった

 (マタイ27:54)。ここにこの告白が出てくるのは、恐らく湖上の出来事が語り継がれた

 時代の教会を励まし、希望を与えることででもあったからである。「拝んだ」はひざま

 づいて拝するという意味であり、「ひれふして」とも訳してある(マタイ8:2,9:18,28:

 9,17など) 。マタイが多く用いている言葉の一つである。

聖霊降臨後12-17  マタイ15:21-28 ローマ11:25-36 イザヤ56:1-8

1)イスラエルの人々が考えていた彼らとカナン人との間の障壁を、主イエスは信仰によっ

 て取り除かれた。この出来事の叙述には、直接的な対話でない要素が含まれていること

 を注意したい。

2)ティルスとシドンは、地中海岸のフェニキアの町で、イスラエルの国境の外にある。イ

 スラエルの家の失せた者を優先して考えられた主が、そのような所を訪ねられたとする

 のは、話の流れに合わない。その地方へ向かう国内の地域に行かれたのかもしれない。

 カナン人はパレスティナの古くからの住民で、信仰的にも異なり、イスラエルのカナン

 進入の際にもその人々への厳しい注意があった(民数33:52-55) 。主のもとに現れたカ

 ナンの女は自分の娘が悪霊に悩まされていた。昔の人々は病気を悪霊に取りつかれた結

 果と考え、悪霊が追い払われたと信じて病気がなおった。女は直接自分のことではない

 が、娘のことで主に願い、女と主イエスの間に弟子たちも介入する。

3)カナンの女で、一般的に信仰も違うなかであったのに、彼女は「主よ、ダビデの子よ」

 とイエスをメシアとして呼びかけた。イエスが何も答えられなかったので、遂には弟子

 たちが「追い払ってください」と願った。弟子たちは主イエスの周りに付きしたがって

 いたが、昔の殿様の護衛武士のようではない。イエスへの願いはイエスご自身が対処し

 てくださることを期待している。しかも追い払うのは、むしろその願いをかなえて早く

 帰してくださいということを意味している。しかし主は、イスラエルの失せた羊を直接

 の伝道対象にされた(マタイ10:6) 。マタイが異邦人伝道を正式に取り上げるのは、復

 活の主の命令においてである(28:19) 。しかしこの問答は、主イエスと女の間でのこと

 でなく、弟子たちとの間で、いわばことの説明の挿入として描かれている。

4)カナンの女は、主イエスの無視にも関わらず、近づいて直接に願った。ところが主は、

 子どもたちのパンを取って、子犬にやってはいけないと答えられた。子どもは神の民で

 あるイスラエルを指しているし、子犬は異邦人のことである。パウロは不信仰なユダヤ

 人たちを「犬」と呼んでいる(フィリピ3:2)。一方パンは救いの象徴である。しかし女

 はたじろがない。謙虚に自らを犬として自認しながらも、ユーモアをもって食い下がっ

 た。主はその信仰をほめ、願いを聞き届けられた。娘がそばにいたわけではないのに、

 その病気は癒された。

5)マタイは、主の福音がイスラエルに限られないで広くすべての人に与えられたことを、

 ことにイスラエルの人々に納得させようという意図を持っていたのかもしれない。そし

 て主イエスの働きを受け、恵みに与かるのは、ひたすら主に信頼する信仰によることを

 明らかにしている。そして主に近づくすべての者が、ひたすら歓迎されるわけでなく、

 拒絶されたと感じることもあることを示している。しかし主の真意は、人が自らを知り

 かつ試練を越えて主への信頼に至るように導きたもうことを証ししているのである。

聖霊降臨後13-18   マタイ16:13-20 ローマ12:1-8  出エジプト6:2-8 

1)ペトロの信仰告白の出来事は、主イエスの教えと活動を記した部分の結びであり、また

 クライマックスでもある。この時から主の受難と復活の出来事が語りはじめられる。私

 たちの信仰も、イエスを何者とするかに掛かっている。

2)主イエスは弟子たちと共に、フィリポ・カイザリア地方に赴かれた。これはローマの属

 領シリアに近いパレスティナの北端に位し、皇帝アウグストゥスによってヘロデ大王に

 与えられた。ヘロデの子フィリポが町を拡張して、皇帝の名と自分の名を組み合わせて

 町の名にした。皇帝のための神殿があって、皇帝礼拝の中心地の一つであっただけでな

 く、ギリシャの神々、ことにパンの神殿が有名であり、また古くからバール礼拝の根城

 でもあった。そのような中で、イエスは弟子たちに「私のことを何者というか」と尋ね

 られた。それは面と向かっての問い掛けであった。

3)「人の子」は、直接に人間を指していることも多いが、この時代にはダニエル書7;13に

 基づいて来るべきメシアのことを意味して用いられた。主イエスは、受難のご自身を指

 してこの言葉を使われたが、それだけでなく神的権威をもつもの(16:27) としても用い

 られ、キリストと同じようにほとんどイエスの別名のようにさえ使われている。但しこ

 れは主の自称である。人々はイエスのことを、洗礼者ヨハネ、エリヤまたエレミヤと噂

 した。領主ヘロデ(アンティパス) は、洗礼者ヨハネの生まれ変わりだと言った(マタ

 イ14:2) 。エリヤは預言者の代表として考えられ、マラキ3:23には主の日の前に遣わさ

 れるとされている。エレミヤも大預言者の一人であるだけでなく、捕囚の際に契約の箱

 を隠し、メシア来臨の際に再び現れてそれを取り出すと信じられていた(・マカバイ2:

 1-11) 。それらの人物は、メシア来臨を示す重要な人々にほかならない。

4)しかし弟子たちを代表して、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子」、すなわちメ

 シアご自身であると答えた。メシアはキリストのヘブライ語である。その言い方は前に

 も現れている(14:33)が、多くの神々の神殿を背景に、直接イエスの問いに対する主体

 的な答えであった。最も近くにいた弟子たちがこのように答え得たことは、イエスの救

 い主たることを強く示している。主イエスはそれに対して、そのような告白は人間の考

 えや、知識による判断でなくて、天の父なる神の啓示によると言われた。

5)イエスを何者と告白するかという問いへのペトロの答えに対して、主はすぐペトロが何

 者であるかを示された。キリスト告白は、告白者が何者かを決め、神からそれを宣言さ

 れる。ペトロ自身はすぐにサタンよ、引き下がれと言われてしまう人間に過ぎなかった

 が、その信仰は教会の基礎となり、み国への鍵が委ねられる。主イエスは、ペトロの答

 えを直接には肯定も否定もされないが、もちろんそれを是認しておられる。但し、弟子

 たちのメシア像が主の考えておられたことと一致していなかったことは、すぐその後の

 受難の予告と彼らの反応で明らかである。それだから黙っているように求められた。

聖霊降臨後14-19   マタイ18:1-14 ローマ 12:9-18  エレミヤ15:15-21

1)ペトロの信仰告白と山上の変容の時から、主はご自身の死と復活を語り始められた。そ

 して教会における信仰者のあり方が戒められる。この部分には言葉や考えの連鎖によっ

 て多くのことが語られている。新共同訳の小見出しが必ずしも適切でないと思える箇所

 もあるので注意が必要である。

2)天の国で一番偉いのはだれか、という質問を弟子たちはした。ここでの彼らの問いは、

 のちの教会の課題であったのかもしれない。しかし、それに対する主イエスの答えは必

 ずしも明確でない。子どものようになる人が、いちばん偉いと言われているが、むしろ

 子どものようにならなければ天の国に入れないという言葉の方が主の答えの本体である

 ように思われる。マタイの言い方では天においても上下、大小の立場の相違が予想され

 ているようにも見えるし(5:19,20:26) 、それは人間的な望みかもしれないが、それを

 主なこととして考える必要はない。

3)主は自分を低くして子どものようになれと、いかにも子どもが謙遜であるかのように言

 われた。どのような子どもがイメージされていたのかにもよるが、普通の基準では子ど

 もが謙遜とは決していえない。むしろ時には傍若無人に、ありのままの自分をさらけ出

 している。それこそが本当の謙遜ということもできる。またそのような個人の心の問題

 よりも、むしろ社会的に地位を持たないことを指していたかも知れない。未成年である

 間は、世継ぎであっても僕と変わる所はなかったのである(ガラテヤ4:1)。

4)信仰者は個人的にだけ神との交わりを保つのではなくて、つねに人との交わりの中にい

 る。交わりの中には幼い考えの人もある。物の判断については子どもとなってはいけな

 い(・コリント14:20)が、そうした人々をも主の故に受け入れてゆくようにしなくては

 ならない。しかし、そのような人をつまずかせる者は災いである。互いに受入れ、つま

 ずかせず、小さな者の一人も軽んじないようにと戒められる。だれでも、自分で意識し

 ないで悪しき者の手先になる場合があり得るからである。山上の説教には、つまずかせ

 る肢体は切り取ってしまえとあるが(5:29,30) 、ここでは自分の問題よりも教会の一員

 として注意すべきこととして言われていると考えられる。

5)主ご自身が失われた羊を尋ねる牧者にたとえられている場合もあるが(ルカ15章) 、こ

 こでは教会員が互いに導き助け合うことが主体だろう。「山」に残しておく99匹は、恐

 らく聖なる場所、教会に保たれている者たちである。創世記48:16,詩編91:11 やトビト

 5:22などに現れるように、ユダヤ人はそれぞれの者が守護の天使に守られていると考え

 ていた。但し父なる神の御顔を仰いでいるのは、最高の天使たちだけとされた。イエス

 は彼らの考え方を踏襲しながら、だれの天使も最高の位置で執り成し、守っているよう

 に教えられた。主ご自身が働かれると信じるので、キリスト教会では天使について細か

 く考えることは必要でなくなった。むしろ皆の者が神の使いとして働くのである。

聖霊降臨後15-20   マタイ18:15-20 ローマ12:19-13:10 エゼキエル33:7-9

1)この箇所は、主の言葉を基にしてはいても、後の教会の中で考えられた罪とその処置に

 ついての規則のように考えられている。教会という言葉が出たり、異邦人、徴税人の取

 扱いが主ご自身とは違うように感じられるからである。宗教改革の時代には、かぎの権

 威が16:19 のペトロに対してばかりでなく、教会に属することの典拠とされた。

2)羊の群れの中から迷い出たものを、どのように扱うかということは、いつの時代にも具

 体的な教会の課題であった。一面ではすべての者が信仰においても罪人としてあり続け

 る。しかし、他面神の国の民にふさわしく歩み始めているはずである。厳しい規律が求

 められるのか、お互い罪人として許し合うことでよいのか、ということが繰り返し問わ

 れた。この箇所は、まず二人だけで忠告すること、それで駄目な場合は証人を交えて話

 し合うこと、それでも改善できない時は、教会の共同の会議で究明し、教会の言うこと

 も聞かないなら、信仰の共同体から追放すべきことを、具体的な手続きとして示してい

 る。そして追放もまた、本人の悔い改めを促すためにほかならない。

3)申命記19:15 には、人の罪を定めるには二人ないし三人の証人の証言が必要とされてい

 る。またレビ19:15 以下にも、弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねったりし

 ないで、正しく裁くべきことが戒められている。どんな場合でも兄弟を憎むのでなく率

 直に戒めることが求められる。自分自身を愛するように隣人を愛しなさいという有名な

 言葉は、その脈絡で語られているのである。その愛は何でも許容するというのではなく

 て、神の正しさに基づいて、互いに戒め合うことなのである。パウロがコリントの教会

 に戒めた具体的な例も、1 コリント5 章に見られる。

4)この手続きの中には、教会が下す決定の重さが示されている。キリストの弟子たちが下

 す決定は、キリストの決定を代表する。教会はキリストの代理として働くような権威を

 委ねられている。16:19 においてペトロに与えられた権威は、ここでは全体の教会に当

 てはまり、地上の教会と天の結びつきが強調されている。それは、一面では教会が軽々

 しく決めてはならないことをも示している。もし罪を犯した者が、忠告を聞き入れるな

 ら、その人を滅びから救うことができたのである。そしてその人は教会の群れの中に回

 復される。忠告するという言葉は、エフェソ5:11以下の明らかにするという言葉と同じ

 である。明らかにされたものはみな、光になる。

5)しかし、教会がキリストの代理として働くことは、ただこうした咎めることにおいてだ

 けではない。信じる者たちが心を一つにして願い求めるときに、神はそれをかなえてく

 ださる。二人、三人が主のみ名によって集まるところには、主ご自身が共にいると約束

 されているからである。もちろんそれは、父、子、聖霊の神のみ名において集まる礼拝

 の群れにおいてもあてはまる。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にい

 る」という約束は、このような形でも現実となる。

聖霊降臨後16-21  マタイ18:21-35 ローマ14:1-18  創世記50:15-21

1)前週の日課の罪と忠告と赦しの問題に続いて、赦しについて語られる。ペトロの問いへ

 の答えと、仲間を赦さなかった家来のたとえは、一見連続しないように見えるが、何が

 問題になっているかを注意しなくてはならない。

2)相互の間での赦しの問題に関わって、弟子たちを代表する形のペトロは新しい問題を主

 に尋ねた。前の箇所はむしろ教会の問題であったが、ここで尋ねられているのは、「わ

 たしに対して」の個人的な関係においてのことである。自分が被害にあった場合、兄弟

 を何回まで赦したらよいのかという問題である。ユダヤ教のラビたちは三回までは赦す

 ように教えていた。主に尋ねるペトロは、思い切って七回までですかと言う。ところが

 主は七の70倍と答えられた。七が完全数であることを考えると、これは際限なく赦せと

 いうことにほかならない。

3)そしてそれに関連して、主は天の国のたとえを語られた。主人の前で預かったものの清

 算をすべき日(マタイ25:19)のことが考えられている。ある王が家来たちに委ねた金の

 決済をしようとしたら、一万タラントの借金を負う者があった。象徴的に大きな額が言

 われているのであろうが、それは具体的にはどうかした当時の国家の年間予算にも匹敵

 するという。家来は州の総督といった立場と考えられたのだろうか。自分も家族も持ち

 物も全部売って返済するように求められて、彼はひたすら猶予を願った。もちろん返済

 のあてもなかったのであろう。しきりに願う家来を憐れに思って、主人は彼を赦してや

 った。ところが、彼は自分に借金のある仲間を許さず、牢に入れてしまった。百デナリ

 オンは通常の百日分の給料ほどで、自分がゆるされた額とは比較にもならない。事の次

 第に心を痛めた仲間たちの訴えに、王は家来を改めて呼び出し、牢役人(拷問にかける

 ように)に引き渡したというのである。

4)主は際限もなく赦せと言われたのに、このたとえはそうではない。金額に限界があるの

 ではないが、赦しは無条件ではなかった。より正確には、赦しは無条件だが、ゆるされ

 た者が自分が同情されたように、他者に同情することが期待されている。そうでないと

 自分の赦しまで取り消されてしまう。「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しまし

 たように」赦してくださいと祈るように、主は教えられた(マタイ6:12) 。もちろんそ

 れも、自分が赦した分だけという数量的なことではないし、その度数だけという計算で

 もない。赦したという実績でも「赦します」からという(ルカ11:4) 意思であってもよ

 いが、神の憐れみを受けた者が憐れみの心を閉ざしてはならないのである。

5)王は家来を赦すために、国の財政を揺るがしかねないほどの損害をも自分に引き受けた

 ことになる。赦しは赦す者に具体的な痛みをもたらす。神は、その独り子を人の罪に赦

 しのために与えられた。そのことを知る者が、憐れみと赦しの愛から離れるなら、必然

 的に自分自身を神の赦しの愛から離れさせることになる。

 





聖霊降臨後17-22   マタイ20:1-16   フィリピ1:12-30  イザヤ55:6-9

1)先の者が後に、後のものが先になるという言葉に前後を画された天の国のたとえである

 が、われわれの感覚ではたとえの主題は少し異なっているように思える。主が律法学者

 やファリサイ人でなく罪人を招かれたことを示した話が、全体的な最後の審判を示すも

 のとされたのかもしれない。

2)天の国のたとえであるが、それはたとえの全体の主題に関わっている。そして天の国の

 報酬を如何に得ることができるかを示す。ぶどう園に働く労働者とそれに対する報酬が

 語られる。最後の審判はしばしば勘定の清算にたとえられている。ある家の主人がぶど

 う園に働く人を雇うために出かけた。夜明けから出かけて、一日一デナリオンの約束で

 人々を雇い入れた。収穫に適する時期は限られているし、恐らく雨の季節の前に急いで

 仕事をしなくてはならなかったと思われる。主人は九時ごろにも、十二時ごろにも、三

 時、さらには五時ごろにも雇われることを待っていた人々を雇い入れた。そして初めに

 約束した賃金を、一番後の者にも払ったから、人々の中から不満が出た。しかし主人は

 最後の者にも同じように払ってやりたいと言う。

3)今でも似た光景があり得るが、労働者たちにとって職にありつくことは死活の問題であ

 る。後になっても広場に立っていた人々は、先の時間にどうしていたのか。あてもない

 のに、午後遅くまでいたのはどういう気持ちだったのか。どういう人が何時頃の人だと

 比喩的に見る必要はないが、実際的であるだけに考えさせられる面がある。

4)主人は夜明けに雇った人にははっきり賃金の約束をしたが、後の者には「ふさわしい賃

 金を払ってやる」といっただけである。午後の者に対しては、はっきりした約束の言葉

 もない。雇われる方も多くのものを期待はしなかっただろうし、今日少しでも働けると

 いうこと自体に満足したのであろう。何もしないでいることは人間にとって好ましいも

 のではない。自分の人生に働きがいを見つけることは、その人の生活をいきいきさせる

 ものである。天の国にたとえられるとき、そこで受ける報酬は永遠の命に違いない。

5)天の国の報酬は、人の働きの量や質によるのではない。天の国のために働くのは、賃金

 を得るための手段というだけではない。働きに参加できること自体が喜びであり報酬な

 のである。早くから働いた人々は、主として賃金を得る手段としてしか考えなかった。

 それが主人の賜物であるとは考えず、他の人々の働きの量と比べて不平を言った。主人

 は彼らに不当なことをしていないと言明する。そして彼は自分のものを自分のしたいよ

 うにすると言う。すべて問題は他の人と見比べて、しかも自分たちの目で計って、働き

 を分量で考えようとすることに始まる。それが律法的な考え方なのである。天の国の主

 人は律法ではなくて、福音によって、恵みをもってすべての者に対される。判定する者

 は働く者たちではなくて、主人である。主人が気前よくすることで、自分の目を悪いも

 のにする(ねたむ)のであってはならない。

聖霊降臨後18-23     マタイ21:33-44 フィリピ2:12-18  イザヤ5:1-7 

1)エルサレムにろばの子に乗って入り、神殿から商売人たちを追い出し、神殿で教えてい

 た主イエスに、祭司長、長老たちは何の権威でこのようなことをするのかと質した。そ

 の答えの一連の言葉の中での祭司長、長老らに対して問いかけられたたとえの一つが日

 課となる。エルサレムでの主の最後の日々の中での出来事である。

2)主イエスはイザヤ5 章のぶどう畑の歌になぞらえ、イスラエルの歴史が神への反逆であ

 ったことを説き明かされる。ある家の主人がぶどう畑を整備して、それを農夫たちに貸

 して旅に出た。当時のガリラヤ地方には、外国人による不在地主が少なくなかったとい

 うから、人々に身近な状況設定であった。収穫の時が近づいたというのは、単に毎年の

 収穫期になったというよりは、時が満ち神の国が近づいた(マルコ1:15) ことを示して

 いる。カナンの土地は神がイスラエルに約束された地であったが、アブラハムがこの世

 的な意味で自分のものとすることができたのは墓地としてのマクペラの洞穴でしかない

 (創世23章) 。土地の真の所有者は神ご自身である。

3)ここに語られたたとえは、比喩的にだれもが理解することができた。ぶどう園の主人は

 神であり、ぶどう園はイスラエル、農夫たちはイスラエルの指導者たちである。主人が

 遣わした僕たちは、預言者たちを示している。二つのグループの僕たちが二度にわたっ

 て遣わされたのは、捕囚前と後の預言者だちである。旧約聖書には、石で撃ち殺された

 預言者はヨヤダの子ゼカルヤだけである(歴代下24:20)が、ほかにも名の知れない人々

 がいただろうし、全体的に言えば石で撃ち殺すも同然な扱いをしたと言ってよい。そこ

 で主人は最後に息子を代理として送る。しかし跡取り息子を殺せば、この地は自分たち

 のものになると考えた農夫たちは、息子すなわちイエスをぶどう園の外で殺してしまう

 (ヘブライ13章) 。

4)ぶどう園の主人が帰ってきたら、のこ農夫たちをどうするだろうか。主はこれを聞いて

 いる祭司長、長老たちに問われた。彼らはそれが自分たちのことを指して言われている

 ことを理解していても、主人は農夫たちを悪人として殺し、ほかの農夫たちに貸すだろ

 うと答えざるを得ない。それは自分たちに対する審判である。

5)イエスは詩118:22を、家を建てる者が不用として捨てた石、すなわちイエスご自身が新

 しいイスラエル、主の教会の親石となるという預言の言葉として引かれた。118 編は他

 の聖書の箇所にも引かれており、かつ「ダビデの子にホサナ」の主のエルサレム入城の

 際の人々の叫びも同じ箇所の続きである。石の上に落ちかかることと石が人の上に落ち

 ることと二つの方向が言われているのは、礎石としての役割とアーチの上を抑える役の

 石がイメージされていたのかもしれない。主は祭司長らもすぐに気づいた形でのたとえ

 で、彼らを責められた。イエスの出来事は旧約の実現であり、その死と復活が新しいイ

 スラエルの土台となる。それは人の思いを越えた神の不思議なのである。

聖霊降臨後19-24   マタイ22:1-14   フィリピ3:12-16  エレミヤ31:1-6

1)受難の週の中で祭司長や長老たちを相手に語られた主は、さらに天の国のたとえを語ら

 れた。しかしこのたとえは、元来は二つの話であったものがつなぎ合わされたと考えら

 れるし、話として不自然な面も感じられるので、その意味を考える必要がある。

2)天の国は〜のようだというたとえの仕方であるが、主題は天の国の喜びにいかに与かる

 ことができるかということである。王が王子の婚宴を催した。イスラエルの人々は天の

 国を、メシアと共なる宴席に迎えられるというイメージで考えた。静かな個人的な平安

 よりも喜びの交わりとした。王はかねて多くの人を招いておいたが、いざその時になる

 と、家来に呼ばせてもだれも来ようとしない。さらに王は別の家来を遣わし、食事の用

 意ができたことを告げさせたが、人々は無視しただけでなく、使いを捕らえて乱暴し、

 殺してしまった。そこで王は怒ってこの者たちを滅ぼし、その町を焼き払った。その上

 で町の通りから善人も悪人も見かけた者はだれでも集めるように命じた。

3)これはたとえではあるが比喩的で、かねて招かれていた人々は神の約束を受けたユダヤ

 人を指している。二度にわたる招きはぶどう園への使いと同じく捕囚前後の預言者たち

 を意味している。婚宴への招きに遣わされた者を殺してしまうとか、怒った王がその人

 々を殺し、町を焼き払うというのは穏当ではない。しかしそれは神が遣わされた預言者

 たちを意味し、マタイがこれを書いた時にはすでにエルサレムがローマ軍によって滅ぼ

 されるという出来事があったと考えられる。神殿をはじめ徹底的に焼かれ、町の石も一

 つ残さず破壊され、耕すことができるほどであったという。神の招きに応えなかったイ

 スラエルの代わりに、異邦人たちが世界中から招かれる。善人も悪人もというのは人間

 的な基準による評価によるのでなく、あらゆる人がということを示している。

4)11節以下は話として続いているけれども、本来は別のたとえであったかもしれない。王

 がやって来た客を見ようと入って来る。それは最後の審判の時を示している。ところが

 礼服を来ていない者が一人いた。もし、通りから引っ張って来られたのなら、だれも礼

 服の用意があったとは考えられない。もし礼服まで貸し与えられたのなら、この一人は

 正規の入口から入らなかったか、自分の服に自信があったのかもしれない。おそらく礼

 服は特別なものでなく、普通のしかし清楚な衣服を意味していたのであろう。それは、

 天の国の宣教を聞いて、悔い改めて新しい信仰の生活に入ったことのしるしである。

5)神はすべての者を招き入れたもうが、招かれた者は神が与えられる新しい衣服、イエス

 ・キリストを身にまとっていなくてはならない(ローマ13:14,ガラテヤ3:27) 。ユダヤ

 人たちは、自分たちのなしたよいわざが、神の前で執り成しをすると考えていた。しか

 しキリスト者にとって執り成しをするのは、神の右にいますキリストであり、聖霊にほ

 かならない。礼服を来ていなかった一人は、そういう執り成し役をもっていないから、

 ただ黙っているほかなかったのである。

聖霊降臨後20-25 マタイ22:15-22 フィリピ4:8-20  イザヤ45:1-7

1)皇帝への税金についての問答は、前に引き続き主イエスの最後の一週間の記事の中に位

 置していて、ファリサイ派やサドカイ派の人たちがイエスを言葉のわなにかけようとす

 る一連の出来事のなかで語られる。直接的な皇帝への税金の問題を越えて、この世の支

 配権力に対する課題を含んでいる。

2)ファリサイ派の人々はその弟子たちをヘロデ派の人々と一緒に遣わした。ヘロデ派は、

 当時の領主ヘロデ・アンティパスの与党として、ガリラヤに形成されていた。アンティ

 パスの父へロデ大王は、ローマの庇護のもとで、ユダヤの王に任命され、ローマ皇帝の

 機能を代行する者であった。壮大な神殿を造営して人々の宗教的な忠誠心を満足させた

 が、ローマへの貢のさやで、自腹を肥やした。したがってヘロデ派は当然皇帝への税金

 を肯定した。しかしファリサイ派の人々は律法に忠実であろうとし、外国人を支配者と

 することに反対であるだけでなく(申命17:15)、多神教的な、しかも皇帝を神格化しよ

 うとするローマの支配に満足していたわけではない。皇帝に税金を納めるのは、合法的

 でしょうかという質問は、この世の法の問題とユダヤ人の律法に照らして考える面の両

 方に受け取られ、賛成派と反対派とが組んで聞くのであるから、どちらに転んでも言い

 がかりが付けられるように計ったわけである。

3)これに対してイエスは、すぐ彼らの悪意を見抜いて、「税金に納めるお金を見せよ」と

 求められた。それはローマのデナリオン銀貨で、当時の労働者の一日の賃金に相当した

 (マタイ20:2) 。それは当時のユダヤに広く流通していたが、ユダヤ人にとってはロー

 マの支配を印象付けただけではない。それには皇帝像が刻んであった。彼らは人間の像

 が刻まれたものを用いなかった。神がご自分にかたどって造られた人間の像は、間接的

 に神の像になり、「いかなる像も作ってはならない」(出エジプト20:4) という戒めに

 抵触すると考えたからである。デナリオン銀貨は皇帝の像をオリンポスの神々の姿にな

 ぞらえて刻み、「尊厳なる神の尊厳なる子皇帝ティベリウス」の銘さえあった。

4)イエスは「だれの肖像と銘か」と問い返された。彼らは皇帝のものだと答えざるをえな

 い。すると「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われた。ロ

 ーマの貨幣によって彼らは経済的にも秩序においても利益を受けていた。そこで基本的

 にはそれへの税金を拒否する理由はない。カイザルに負うものは、カイザルに返したら

 よい。しかし「神のもの」はこれと並んである領域ではなく、すべてのものを含んでい

 る。彼らが神殿への献げ物として両替したユダヤの貨幣を意味するだけではない。こと

 に皇帝の肖像との対比で考えると、神にかたどって、神に似せて造られた(創世1:27) 

 人そのものを指しているといえる。神にかたどって造られた自分自身をこそ、神に喜ば

 れる聖なる献げ物として捧げなくてはならない。主は人々の悪意あるわなに落ち込まな

 かったただけでなく、深い反省を促す逆の問いかけをされたのである。

聖霊降臨後21-26  マタイ22:34-40  1テサロニケ1:1-10 申命記26:16-19

1)最も重要な掟は何かというラビたちの間でしばしば論じられた問いを、ファリサイ人は

 主イエスに投げかけた。主の答えは、一見明らかなようだが、子細に見るといろいろな

 問題を含んでいる。そしてルカはこの答えを律法の専門家のものとし、イエスが正しい

 答えだ、それを実行しなさいと言われた(ルカ10:28)ことも考え合わせたい。

2)ファリサイ派の中から律法の専門家がイエスを試そうとして、律法の中で最も重要な掟

 は何かと尋ねた。ユダヤ教の教師たちによると、律法には248 のしなければならないと

 いう掟と、365 のしてはならないという禁止の掟があるとされた。その数がどれほどで

 あるにせよ、旧約聖書の中にはたくさんの戒めがある。その中で何が最も重要なものか

 という問いに、主は申命記6:5 とレビ19:18 の旧約の言葉を引いて答えられた。申命記

 6:5 は「シェマ」(聞けという最初に言葉)と呼ばれるユダヤ人たちが毎日唱える言葉

 の中にある。レビ19:18 は、マタイ5:43や19:19 にも引かれている。いわばありふれた

 聖句にほかならない。しかし、そのような聖句の中に最も重要なことが隠されている。

3)律法の専門家は最も重要な一つの掟を想定して尋ねたが、主は神を愛することと、人を

 愛することの二つを同じように答えられた。第二もこれと同じ(ように重要)というの

 は、その内容が結びついているからである。神を愛することは、何か抽象的な問題では

 ない。何か特別な儀礼を守ることでもない。むしろ隣人を愛することの中で、この最も

 小さい者の一人にしたのはわたしにしたのである(マタイ25:40)という言葉を聞くので

 ある。逆に隣人を愛するのは、「わたしの兄弟である」者、あるいは「わたしの名のた

 めに」と言われるように、神信仰においてなされなくてはならない。

4)「律法の中で」と聞かれたのに、主は「律法全体と預言者」はこの二つの掟に基づくと

 答えられた。「律法」は旧約聖書の最初の五書が基本であった。しかし、律法全体と預

 言者と言われるときには、後期の預言者のことだけでなく、前期の預言者たちが活躍し

 た歴史書をも含んでおり、旧約聖書全体を指している。それは単に戒めの集成を考える

 律法学者たちのようにではなく、主イエスが歴史を通して働かれる神との関わりの中で

 なすべきことを見ておられることを示している。

5)掟そのもののについて言えば、これは旧約の言葉であるし、ルカは同じ言葉を律法の専

 門家の方が答えたことを記している(ルカ10:27)。それに対して主は「正しい答えだ。

 それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われたのである。最も重要な掟を

 知っていても、自分自身がその戒めに真剣に関わっているのでなければ、単なる知識に

 すぎない。主は、律法や預言者を廃止するために来たのではなく、むしろ完成するため

 だ(マタイ5:17) と言われた。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」、すな

 わち私たちのすべてを挙げて神を愛することは、逆に御子によって私たちを生かしてく

 ださった、この上ない神の愛に基づくのである(エフェソ2:4-8)。

聖霊降臨後21-26  マタイ25;1-13(-30)  ・テサロニケ3:7-13 ホセア11:1-9

1)教会暦の最後に差しかかって、終末の主題に入る。日課の箇所は、マタイ24章からの終

 末についての教えの部分である。主イエスの最後の記述の前に終末の教えがまとめられ

 ている中での天の国のたとえであるが、終末時への備えが主題となる。13節までが区切

 りだが、長い日課として30節まで、もう一つのたとえを加えてもよい。

2)天の国は十人のおとめにたとえれる。しかし、だから目を覚ましていなさいという13節

 の言葉はこのたとえの主題から少しずれている。賢いおとめも愚かなおとめも共に待ち

 くたびれて眠ってしまったからである。問題は余分の油を準備していたかどうかであっ

 た。婚宴は夜開かれたが、客は花嫁の家で花婿が来るのを待つ。花婿は花嫁を迎えにく

 る。花婿が来ると灯火を明るくして歓迎し、行列をつくって花婿の父の家に行き、そこ

 で婚宴が本式に開かれる。このおとめたちは、花嫁の家で花婿の到着を待っていたと思

 われる。もともとは主イエスの来臨に関わってのたとえであったろうが、花婿イエスの

 到来を待っている教会の状態が背景に読み込まれているように思われる。そしてなかな

  かその到来┣〓再臨がないということが初代の教会の課題であった。その日その時は、

 だれも知らない(24:36) 。ただ忍耐して油を絶やさずに待つことが勧められている。

3)備えの油は明らかではないが、聖霊を意味するかもしれないし、たゆまない信仰生活を

 指していたかもしれない。いずれにしても、悔い改めて新しい信仰にふさわしい歩みを

 することであったろう。それは善意をもっていても、他の人に分かち与えることのでき

 ないものである。人間はしよせん眠りこけてしまう弱さを持っている者でしかない。け

 れども信仰は自分の力だけではなく、相手のある関係である。いつも新しい主イエスと

 の交わりが保たれることが必要となる。

4)叩けば開かれる(ルカ11:9) と約束されているが、最後の審判で閉ざされた戸は開かれ

 ない。黙示録3 章にはだれも閉めることのできない戸を、主イエスが開いておいたと言

 われる。その一方、主の方が人の側の戸口に立って叩いているとされている。閉じた戸

 は、主のみわざに閉じた自分の結果であったかもしれない。

5)「タラントン」のたとえも、それぞれに委ねられた賜物を、存分に働かせるように求め

 られている。それぞれに違った額を預かったが、それなりに働かせた者たちは、主人と

 一緒に喜んでくれと、祝いの宴に招かれた。しかし余りの大金におそれをなした三番目

 の人が、自分が預かったものを失ってはならないと、地中に隠しておいて、主人に悪い

 僕と裁かれてしまった。主の福音は、自分だけのものとして保っておけばよいのではな

 い。しまっておけば、それ自体さえも失われてしまう。主人である神は、蒔かぬ所から

 も刈り取ることのできるお方である。それを恐れとして萎縮するのではなく、約束とし

 て収穫を見ることのできる心をもってゆかなくてはならない。それは、用いられるとき

 に必ず大きくなるものなのである。

聖霊降臨後最終  マタイ25:31-46 ・テサロニケ5:1-11 エゼキエル34:11-16,23-24

1)前週に続いて神の審判についてのたとえである。すべての民族が裁かれることと、裁き

 において基準となることが、憐れみのわざであることが示される。その意味で、奉仕の

 具体的な例を示すものともなっている。

2)主の働きはすべての民に及び、すべての民を弟子とせよ(マタイ28:19)という命令があ

 る一方、主の前にすべての民が裁かれることが宣言される。主は救い主として来臨され

 たが、やがて大きな力と栄光をもって天の雲に乗って来られる(マタイ24:30)。そして

 その前にすべての民は二つに分けられる。それは羊飼いが羊と山羊を分けるようなもの

 である。もちろんこれは二つに分けるということが主体であって、羊の方が山羊よりも

 価値があるように考えられたとはいえ、羊がよくて山羊は悪いという意味ではない。山

 羊の方が寒さに弱いので、夜には温かく保たれるために分けられたに過ぎない。

3)片側の人、すなわち救いに与かる人たちは、天地創造の時から備えられている国を受け

 継ぐように祝福される。もう一方は呪われた者として非難される。分けられる理由は、

 「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅のときに宿

 を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」かどう

 かと言うことなのである。そう言うのは「王」であるが、栄光の座についた主ご自身を

 指している。つまり憐れみをもって、愛の行為をしたかどうかなのである。信仰をもっ

 て神との交わりにあることは、必然的に愛の生活をさせると考えられている。祝福の言

 葉は、山上の説教の最初に現れる祝福の、ことに最初と三番目の言葉を反映している。

4)祝福を受ける側にいる人も、呪いの側にいる人も、言われる言葉の意味が分からない。

 王にそのようなことをした覚えも、また王にそのようにしないで見捨てたつもりもなか

 ったからである。しかし王は、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたの

 は、わたしにしてくれたことなのである」と言う。それは名もない人を相手に目立たな

 い助けの行為であり、自らも意識しないようなことでしかない。報いや称賛を期待して

 なしているようなことではない。しかし、その相手は王の兄弟として扱われる一人なの

 である。神へのイエスへの奉仕は、そのような形で実践される。小さい一人が飢えてい

 る中で「わたし」が飢えていたと王はいうのである。

5)主は、たとえの中で私たちに勧めておれるのであって、最終的な審判が今下されている

 のではない。それだからこそ、私たちは心して神の愛の中にたち、自分がそれを受け、

 したがってまた他の人々に愛をもって接してゆくことができるようになってゆかなくて

 はならない。ことにも抑圧された人々の中に、奉仕すべきお方がおられることを考えた

 い。天の国、神の支配はどこか彼方にあり、いつか破局を伴ってやって来るというだけ

 のことではない。どこででも、神の意思が受け取られ、行われているところに、神の支

 配すなわちみ国の現実があるのである。

宗教改革  ヨハネ8:31-36  ローマ3:19-28  エレミヤ31:31-34

1)宗教改革の記念は10月31日であるが、その前の主日に移して覚えられる。改革の三大文

 書の一つとされる『キリスト者の自由』に関連して福音書の日課、あるいは宗教改革の

 鍵となる神の義を示す使徒書を基とすることもできる。

2)主イエスは、自分を信じたユダヤ人たちと自由についての問答をされた。しかし、30節

 にある「イエスを信じる」という表現と31節の「信じた」という言い方は違う。後者は

 イエスの言葉に感銘を受けたが、全体的な信頼に至ってはいない。しかし、そのような

 者たちに、主は「わたしの言葉」にとどまり、本当の弟子になるように促される。「と

 どまる」という言葉もヨハネが特別な意味で用いている語であって、「つながる」とも

 訳される。人がイエスに、イエスがその人につながる関係が求められている。そしてイ

 エスが人とつながるのは、そのみ言葉がいつもとどまっていることである(ヨハネ15:5

 ,7) 。主イエスとの結びつきが、みことばによって確かになっているときに、その人は

 主の弟子であり、真理を知り自由になる。

3)真理といわれるのも、どこででも通用する一般的な真理ということではなく、神の真実

 さを意味している。「わたしは真理である」(ヨハネ14:6) と主ご自身がいわれたよう

 に、神の真実さは、主の贖いのみわざによって示されている。聖書の中で自由という言

 葉は、多く奴隷でない状態、自主の者を現している。決して人間的な自由勝手な思いを

 指しているのではない。自分の考えでなく、他人の意思に束縛され、それに従うよりほ

 かない状態から自由にされるのである。エジプトにいたイスラエルが、そこから出て神

 の意思のもとで、自分を確立することができるようにされたように、自主の者となる。

 しかし、それは道徳主義からの自由、自分を主とすることからの自由でもある。

4)人は罪のうちにあって、罪を犯さないわけに行かない。いつも神から離れている。それ

 は罪の奴隷になっていることである。奴隷であるなら、イスラエルの人々が神の家にい

 る選ばれた民と言っても、しょせんいつまでもおれる者ではない。その本当の主人は、

 この家の主人である神ではないからである。しかし、み子イエスは神に愛せられる独り

 子として来られた。そして信じる者たちに子としての身分を与えてくださる。それは人

 間的に考える自由ではなくて、イエスが人々のために自ら命を捨てられたように、自主

 の者として愛を示すことのできる立場に置かれることを現している。

5)ルターは『キリスト者の自由』で、キリスト者はすべての者の上に立つ自由な君主であ

 ると共に、すべての者に仕える僕であると、矛盾した言い方でこのことを言い表した。

 そういう状態を信仰がもたらすのである。しかし信仰がすべてであると言っても、それ

 は私たちの中に働く神のわざであって、私たちの確信の強さや修業の大きさによるので

 はない。また信仰は、自由に喜んで、報いを考えずに、隣人のために愛を働かせるよう

 に表れずにいない。そのためにみことばを内に留めてゆかなくてはならない。

全聖徒の日  マタイ5:1-12   黙示21:22-27  イザヤ26:1-13 

1)全聖徒の日は11月1 日であるが、その後の主日に守ることができる。地方により、教会

 によって、他の日に逝去者の記念をする場合は、この日に準じた礼拝式にしたらよい。

 先に召された人々の記念は、彼らの生涯に与えられた神の恵みと、彼らの生涯を通して

 私たちに与えられた神の恵みに感謝し、逝きし者を改めて神に委ねる心と共に、自分た

 ちそれぞれの人生を省みて、終わりに備えるようにする。

2)主イエスの山上の説教は、主のもとに集まってきた弟子たちと多くの群衆に対して語ら

 れた。主のみことばを聞こうとするすべての者を、「あなたがたは〜である」と、その

 ことばの中に包み込まずにいないような力をもって、述べられた。幸いであるという祝

 福は、その冒頭に宣言されている。それは「ああ、祝福された者! 」と讃えている。そ

 こに言われている人々こそが、来るべきみ国に入ることができる者だという宣言なので

 ある。山上の説教の冒頭の一部というよりは、山上の説教の全体がその説き明かしとい

 うようにも見られている。さらには、主イエスの教え全体の集約とも言える。

3)立派ないかにも天国に入るのにふさわしいと、人間的に観測できるような人々ではなく

 て、貧しい者、この世から見はなされて希望をかけるのはただ神でしかないというよう

 な人、亡くなった人を悼み嘆く悲しみの中にいる人、自分の無知や弱さをわきまえてい

 る謙虚な人、さまざまな不義に悩まされながら完全な義が行われることを心から求めて

 いるる人、他の人の思いに同情し憐れみの情をもつことのできる人、ひたすら純粋な思

 いをもつ人、神と人の、また人と人の間に正しい平和な関係を造ろうと地道な努力をす

 る人、神のただしさを求めながら人間的な理屈で迫害をこうむる人、そのような人々に

 対して主は「幸いである」と宣言される。見過ごしにされるような場所にありながら、

 なお神への信頼をもってきた人々である。

4)それは、すべての信仰者に当てはまる。そして主は山上で、また栄光の座から幸いを宣

 言される。単なる知識として聞いておこうというのではなく、自らに主の「みことば」

 を受けようとする者に、そのように宣言される。それは自分自身を見れば欠けの多い罪

 深いものであっても、信仰によってキリストを身にまとい(ローマ13:14)、その衣を小

 羊の血で洗って白くした(黙示7:14) すべての者に言われている。そして天の都の門は

 一日中閉ざされることなく、その人々に開かれている。

5)主イエスはかつておられただけでなく、今おられ、またやがて来られる方にほかならな

 い。その「みことば」は、かつて意味を持っていただけでなく、今も、そして終わりの

 日にも力ある宣言である。すでにこの世を去った人がどういう状態にあろうとも、「ラ

 ザロよ、出てきなさい」と呼び出されるお方が言われるのである。黙示録のヨハネは流

 された島で、寂しい礼拝を守っていたとき、先に召された人々を含む天上の礼拝が同時

 に進行していることを示された。「みことば」が今、過去と未来を見通す軸となる。

 


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