2020年9月6日日曜日

週報と説教メッセージ 20200906


 



聖書の学び 

今週の聖書の言葉
福音書  マタイ 18:15~20 (新35)
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

説教(解説) 「信仰の衣替え」 徳弘浩隆師
1. 今日の聖書の教え
今日の聖書の中のイエス様のお話は、誰かが自分に対して罪を犯したときに、どうするかという対応方法について教えられています。イエス様の当時の聖書、つまり今の旧約聖書の部分では、神様の厳しい「おきて」が書かれています。それに従って厳しく罰するか、それともイエス様が当時語っていた新しい神様の教えやその生き方のように、「赦す」ことが大切かという疑問に対する答えともいえるでしょう。
イエス様は、「自分に罪を犯した兄弟の所に行って、二人だけのところで忠告しなさい」といわれます。なかなか勇気のいることですね。こんな時には、人を批判するようで何も言えないし、自分の心の中で悶々とすることが多いと思います。その人をゆるせなかったり、結果を恐れて言い出せない自分に腹が立ってストレスになったりもするでしょう。
でも、きちんと二人だけのところで忠告するべきで、相手が聞き入れてくれたなら兄弟を得たことになるし、そうでなければ、他の証人を連れて行って話し合うことが大切だといわれます。和解の談義には、3人の証人を立てるべきことが、聖書の中、申命記の19.15に定められていたからです。それでもだめなら、教会に申し出て、教会の言うことも受け入れないなら、あなたに非はない、というのです。訴訟のプロセスではありませんが、話し合いの順序を教えてくれています。

2. 振り返り
他人が正しいかどうか、自分に対して罪を犯したかどうかという問題は、今の私たちにもよくある話で大切な問題です。
たとえば、今の新型コロナの感染症対策の件でも、うっかりマスクをしていなかったり、喘息でせき込んでいるだけなのに、「マスクはどうしたんだ!」とか「そんなに咳をするんだったらみんなのいるところに出てくるな」と知らない人から怒鳴られたと知り合いの体験として聞きました。私も喘息持ちですから、うっかり人がいるところでせき込みでもしたら、と心配になります。玄関から出た後、マスクを忘れたのに気付いて引き返したというのは、だれにもある経験でしょう。周りも自分も、「自警団」になってしまって、取り締まり、そんな目が光る中を生きているようです。

3. 聖書をもっと読んでみる
では何事も機械的に、この通りにすればよいのでしょうか。この手続きを踏んでいて、マニュアル通りに対処すれば、自分は責められないのでしょうか?
今日のほかに二つ読んだ聖書の個所、旧約のエゼキエル書や新約聖書のローマの信徒への手紙では、どのように教えているでしょうか?
エゼキエル書の言葉はそんな私たちの疑問に鋭く呼びかけています。「『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。」というのです。悪人をさばいても、その人が悔い改めて、その悪から離れるように、そんな気持ちと祈りを持って語らないなら、それを伝えたあなたにその責任を問うというのです。
もう一つのローマの信徒への手紙でパウロもこう言っています。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。どんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます」というのです。
旧約聖書が厳しい「おきて」でイエス様がそれを否定して愛を説いたと思いがちですが、そうでもないようです。神は預言者エゼキエルが悪人に裁きの言葉を語るときにも、悔い改めを祈る愛の気持ちがなければエゼキエルにも罪の責任を問うのです。そして、イエス様の教えを世界に広めたパウロは、律法はどんなに厳しいおきてがあっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に尽きる、といいます。
この世でも法律や決まりごとは物事をよく進めていき、間違いを犯さないようにするための規範でしょう。それが独り歩きしていくと、冷たい裁きの剣になります。それを運用する人たちに大切なものがなければ、です。その大切なものは「愛」なのです。どうしたら、いつも、そんな愛の人でい続けることができるでしょうか。私たちは、すぐに怒ったり、傷ついたり傷つけたりします。今までの自分のままでは難しいと感じます。どうしましょうか。
そんな私たちにパウロはこう続けました。「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、 主イエス・キリストを身にまといなさい」と。

4、今日のポイント・勧め
猛暑の夏から夜は少し涼しくなりました。台風も心配ですが、季節は動いています。衣替えをしなければなりませんね。私がいたサンパウロは沖縄の那覇と同じくらいの緯度(南北逆ですが)にあり基本的に暑いのですが、高地にあるので天候次第では気温が変わります。夏でも寒い時があり、冬でも泳ぎに行けるほど暑い時もあります。年中、一日の中に四季の気候があるといわれるほどです。ですから、衣替えをしませんでした。Tシャツからセーターまで一式タンスに入れたまま年中過ごし、その日に合わせて選んでいました。衣替えをしてタンスにしまっていたら、その日の気温に合わせて、いちいち出し入れが大変だからです。でも、日本では夏服をそろそろ選択してしまって、秋冬物を出す必要があるでしょう。
私たちも、信仰の衣替えをしましょう。今までの罪深い自分、すぐに怒ったり、裁いたり、決めつけたり。逆に傷ついたり落ち込んだりする今までの自分を脱ぎ捨てて、「キリストを身にまとう」、そんな信仰の衣替えをしましょう。それが今日のポイントです。何をすてて、何をしまって、新しく何を着ることにするか、そんなことを考えながら過ごしましょう。神さまの祝福がありますように。


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