2020年9月27日日曜日

週報・説教メッセージ 20200927

 






聖書の学び 

今週の聖書の言葉

福音書  マタイ 21:23~32 (新41) より

「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」


説教(解説)「後で考え直しても…」 徳弘浩隆師

1. 「武士に二言はない」という言葉がありますが

今日の福音書を読んで頭に浮かんだ言葉は、「武士に二言はない」という言葉でした。この言葉から派生して、「男に二言はない」という言葉もありますが、「女に二言はない」という言い方にも発展して、そういう人もいるそうですね。

「武士に二言はない」を調べてみますと、説明ではこう出てきます。「武士に二言はないとは、武士は信義と面目を重んじるものだから、一度口にしたことばを取り消したり、約束を破るようなことはしないということ。」たとえ後から自分に不利益になることでも、前言を取り消さない潔さとでもいうのでしょうか。

ブラジルで熱狂的な教派のキリスト教会の礼拝にも、勉強のためにと機会があれば参加してみました。ソロモンの神殿を大きさもそのまま再現したという話題の教会があったので、一度見学しようと、夜の礼拝に教会のメンバーといってみました。その「神殿」の地下には最先端の駐車場があって、すべての車の枠の上にセンサーがあって、今どこに何台駐車していると瞬時にパソコンで把握できて、適宜職員が案内できるようになっています。礼拝堂に入ると、白い衣装を着た職員が案内してくれ、聖壇には旧約聖書に出てくる「契約の箱」の模型が置かれ、物々しく礼拝が行われました。そして後半は壇上で証をする人もいました。インタービュー形式で、「主人はお酒や犯罪にも手を染めてしまい、家庭が壊れかけたけれど、一生懸命に祈り、信仰をもって悔い改め、生まれ変わった」と体験談を話してくれました。奥さんはご主人のことを、「彼は 言葉の人だから("Ele é um homen de palavra")」といいました。私はそれを聞いて、てっきり「口先だけの人」という意味で理解して聞いていましたが、どうも話が合いません。彼女は彼のことをそれ故にほめていたからです。礼拝後に一緒に行ったブラジル人のメンバーに聞いて初めて私の勘違いに気が付きました。「言葉の人」というのは、「言葉を決して曲げない。実行する人」という意味だったのです。

国を超えても、言葉を曲げない人、どんなことがあっても守る人は、尊敬され、称賛されるようです。

しかし、今日の聖書の話は少し様子が違います。今日の聖書は私たちに何を語っているのでしょうか。

2. 聖書を学びましょう

ある人が二人いる息子の兄の方に、「今日ぶどう園に行って働きなさい」というと、彼は「いやです」と答えましたが、考え直して出かけました。弟の方にも行って同じように言うと「お父さん承知しました」といいましたが、出かけませんでした。

「どちらが父親の望み通りにしたか?」とイエス様は弟子たちに尋ねました。弟子たちは、「兄の方です」と正しい答えをしました。

そしてイエス様はこのたとえで、「ヨハネの言葉を聞いても信じず何もしない宗教家たち」ではなくて、「悪いことをしていた徴税人や娼婦たちはそれを信じたゆえに、先に神の国に入るだろう」といわれます。

神さまから見たら、立派な答えをする人よりも、横着に拒否したけれども後から考え直した兄の方が、喜ばれるのだ、ということです。

どうでしょうか。神様から見たら、間違ったことを言っていたなら、考えを改めて、前言を撤回する人、つまり「二言がある」人の方がよいのです。

3. 振り返り 

私たちは、何にこだわっているのでしょうか?

自分の過去の言葉、プライド、人の評価でしょうか? 「一度言ったら簡単に変えられない」「それは恥じだ」でしょうか?

分かってはいても、今までの生きてきたたくさんのものを背負って生きています。素直に変えられないことがあるでしょう。親の目や期待、人の評価が怖くて、いまだにそれに縛られているという人もいるでしょう。一生懸命にすがっているかもしれません。

または、お金、名誉、人からよく見られることに、すがっている自分に気づくこともあります。今までの常識や成功体験に縛られて、変革ができないこともあるでしょう。

「間違えたら恥ずかしい、失敗したら人前で恥をかくから」と恐れていてはいつまでたっても物事は上手になりません。外国語を勉強していていつも思うことでした。そして今、外国人の方々に日本語を教えていて、そう説明します。一説によると、新しい言語を覚える時は、一生懸命に考えて、間違えてもいいから口から出してみること、その時に脳の中のあたらしい言語の文章を自然に組み立てていく部分の神経がつながって、形成されていくそうですね。

4、勧め 

教会に集まっている私たちは、「聖人」の集まりではありません。「私なんて俗世間のものは教会なんてとても敷居が高くて」「私なんかが教会に入っていいんでしょうか?」という方も多くおられます。そうではありません。クリスチャンは「立派な人間」ではなくて、「自分は不完全で罪深い人間だ」と自覚しているだけです。そしてイエス様の十字架のおかげで赦していただいて、新しい生き方を生きているだけです。キリスト教は「学んで理解して、信仰で信じる宗教」ではなくて、むしろ「そんな新しい生き方」「生きる道」と考える方が近いと思います。教会は「罪をゆるされた罪びと」の集まりともいわれます。

罪深い自分の誤りに気が付かされたら、遠慮せずに「前言や今までの生き方」を撤回して、「二言のある」生き方をしましょう。神さまと一緒に、新しい生き方をして行きましょう。 


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