2020年9月19日土曜日

週報と説教メッセージ 20200920

 


聖書の学び

今週の聖書の言葉

ヨナ 3:10~4:11 (旧1447) より

神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

福音書  マタイ 20: 1~16 (新38) より

「そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』

 

説教(解説)「労働価値説と人間価値説」 徳弘浩隆師

1. 「労働価値説…」とはたいそうな説教題ですが

今日の福音書を読んで頭に浮かんだ言葉は、「労働価値説」という言葉でした。むつかしいことはよくわかりませんしが、「商品の価値はその生産に投じられた労働量によってはかられる」といったものでしょう。今の私たちも、仕事をして契約をして賃金を得る時に、その物差しとなる物があります。出来高払いか、時給制かなどで、売ったり買ったり、報酬をもらったりという時に、何を基準にしてその価値を測るかということが大切で、時として問題になるでしょう。

同じ時間を費やせばその商品は同じ価値なのか。でも、熟練した人が作れば、短時間で作っても優れたものであれば、その価値は他のものよりも大きくても議論にはなりません。

今日の聖書は私たちに何を語っているのでしょうか。そこには、人間の価値は、いったい何で測るべきかということを考えさせられているとも言えます。神様の観点はいったい何でしょうか。

2. 聖書を学びましょう

それぞれ違った時間帯で契約をして労働した人たちがいました。朝早くから、9時から、そしてもう終わりの時間にちかい5時からやってきた人もいました。夕方になり、それぞれ賃金を受け取ります。遅く来た人から順に賃金が支払われます。そこで、もっと長く働いた人は期待をします。自分の契約では一日一デナリオンだったけれど、遅く来た彼が一デナリオンもらっているなら、私はもっと多くもらえるかもしれない、と。しかし、順番が来て手にした賃金は、同じ一デナリオンでした。そこで文句を言ったのです。しかし主人は説明し、彼をたしなめます。「私は何も不当なことはしていない。あなたと一デナリオンの約束をしたではないか」というのです。

これを今の社会でそのまま適応するのは難しい話かもしれません。いつもこうだとわかると、朝早くからくる人はいなくなり、昼過ぎや夕方にやってきた方が割がいいからです。社会の秩序やモラルは崩壊するでしょう。ではイエス様はこの話で何を言いたかったのでしょうか。

雇い主の気まぐれ?横暴でしょうか?社会のひずみをなくすための「労働価値説」や、それに基づく共産主義や社会主義の「革命」というのは、富の集中、労働者からの搾取を問題にしました。アジアの国々でも革命があり、知的階級や資本家たちが弾圧され、殺されていって国々もあります。人間の価値が認められない社会、貧しくて苦しくても我慢をしないといけない社会は問題がありますが、これで解決でしょうか?

聖書では、イエス様は「天の国は次のようにたとえられる」とこの話を始めていることを見逃してはいけません。天の国、それは天国と地獄という死んだ後の世界を言っているのではありません。「神様の支配があるところ」という意味です。それは今生きている私たちの社会が、あるいは個人が、神様と関係のないところで生きていて、混乱していたり苦しかったりする、ということも説明します。そのうえで、神様にゆるされ、神様や人間同士の正しい関係が取り戻された状態、つまり「神様の支配する社会」はどうなるかということをイエス様はたとえ話で説明されているのです。神様から見た価値の基準は何かということを語ります。それは、すでにある蓄財や権力ではありません。しかし、単純に労働時間ということでもありません。はたから見たる「ズルい」と思われるような、「最後に来た者にも同じようにしてあげたいのだ」という言葉に現れています。それは、神様の目から見た価値基準は、「愛」だということです。出来高でも時間でもない、こんな人をも「愛したい」という心です。

3. 振り返り ゴーヤを植えて日除けカーテン

それを聞いて、やはり「ズルい」と思う人は、自分が分かっていません。「自分は素晴らしい人間なのに、そうでないあの人も良くしてもらっている」と思うから「ズルい」と思うのです。

それをわからせるエピソードが旧約聖書から選ばれています。自分で育てることもなく、労することもなく得た「とうごま」の日陰のおかげで暑い日でも快適に過ごしていたのに、急にそれが枯れてなくなると「もう死んだほうがいい」と文句を言うヨナのことです。愛する子供を見る神様の気持ちは、悔い改めるなら前言を撤回しゆるしたい、という愛の気持ちです。不平を言ったヨナは、自分は正しく、立派な人間だと思っていたのでしょう。

私たちも神様から赦してもらい、祝福される他人を「ズルい」と思う時には、自分がどれほどゆるされて、祝福されたのかを忘れているのです。

私もこの夏、ゴーヤを植えてみました。苗を三つ買ってきて草刈りの後に植えて、後は水やりを頑張っただけですが、日陰のカーテンで快適になり、40以上の実をもたらしてくれました。「収穫は多いが働き人が少ない」という聖書の言葉がありますが、「収穫が多いが食べる人が少ない」と実感した日々でした。私たちがいただいている神様の赦しや祝福、恵みを当たり前と思うか、ありがたいことだと感謝するかです。

4、勧め 

神さまの価値の基準は、労働価値説でもなく、人間そのものに価値があるというものでもなく、「愛に価値がある」というものなのです。その考え方や生き方が普通になる社会、それが「神の国」です。それは死んだあと行く天国ではなく、今目の前の毎日の生活、そこにそれが実現するというのです。今週も、そんな社会や生活実現に向けて、神様の愛の中を生きていきましょう。神様の祝福がありますように。

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