2020年8月29日土曜日

週報・説教メッセージ 20200830

 




聖書の学び 

今週の聖書の言葉

このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。マタイ 16:21~27より

説教(解説) 「自分の十字架」 徳弘浩隆師

1. 一枚の写真

今日の聖書の中のイエス様の言葉は、「自分の十字架を背負って私に従いなさい」とあります。

写真を見てみましょう。これは、もう20年近く前に、教会のツアーで長崎の殉教の地を訪ねた時の写真です。忘れないように、私の机にいつもこれを置いています。そのもう少し前に、中高生キャンプ、いまはルーテル教会でTeens Campとして続いていますが、その企画で「実際に十字架を担いでみよう」ということをしてみました。そして、壮年婦人の信仰ツアーでも似た企画をしたのです。十字架といえば、首に下げたり、壁に下げたりすることが多く、すでにアクセサリーや飾りになっています。どのくらい重たくて、どんな手触りがするだろうか、ほぼ実際の大きさで考えてみました。順番に担いでみて、少し歩いてみるのです。珍しい体験で、皆ちょっとフラフラしたり、楽しい面白い体験でもありました。しかし、神妙にしみじみとその重さを味わいもしました。さて、今日の聖書が言う、「自分の十字架を背負って私に従いなさいというのは、どういう意味なのでしょうか?

2. 聖書

先週の聖書の続きで、イエス様が話をしていることが分かります。先週といえば、ペテロが、イエス様のことをキリストだと答え、ほめられたことが書かれてありました。しかし今日は、同じペテロに、「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をするもの」としかられてしまっています。信仰の礎だとほめられたすぐ後で、サタン呼ばわりされているペテロは、文字通り上げられたり下げられたりです。イエス様は、気分屋さんなのでしょうか?ほめたかと思えば、すぐに叱っている。何を根拠に、ほめたり、叱ったりしているのでしょうか?

これを読み解くと、今日の聖書の言葉がもっとわかってくるはずです。それは、「サタンよ引き下がれ」の続きを読んでみればわかってきます。「神のことを思わず、人間のことを思っている」と続くのです。そしてそのあとで、今日の説教の題にもなる子の言葉が続きます。「私についてきたいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」

ここでわかるイエス様の基準というものは、神様のことを思っているか、自分のことを思っているかという一点なのです。神のことを思うペテロはほめあげられ、良かれと思われることでも人のことを思っているペテロはサタンとしかられているからです。イエス様の運命が十字架にかかることだとなれば、それに反対することは、人間の思い、サタンの思いだというわけです。だから、自分を捨てるように、イエス様はペテロをいさめます。そして、自分の十字架を背負ってついてくるように呼びかけます。それは、短期的に考えればたとえ嫌なことでも、神様の御心ならば、喜んで引き受け、受け入れることを表しています。

3. 振り返り

それでは、私たちが抱えるそれぞれの十字架というものは、どんなものでしょうか?自分の思い通りにいかないこと。これさえなければと思う、いやなこと。それは、病気や、いやな人や、家族の問題、仕事の問題、自分の欠点や失敗、罪深さかもしれません。解決するように努力しても、解決しない。病気ならこれさえなければと思っても、どうやら一生付き合っていかないといけない病気もあるかもしれません。そんなものも、神様が与えた十字架かもしれません。

それを通して、どんな良いことがあるでしょうか?今はわかりません。でも、一生懸命祈っても、変わらないなら、神様の御心かもしれません。それを通して、私の人生を、教え、育て、祝福しているのかもしれません。あるいは、自分にではなくて、出会うだれか大切な人に、大きな支えになっていくのかもしれません。なぜなら、その人が抱える苦しみや問題は、似た苦しみや問題を持った人しかわからないからです。これさえなければと思う厄介なことや不幸が、後から考えると自分を助け、守ってきたのかもしれません。

4. 勧め

「失敗学」という学問が今あります。そして、対照的なTV番組が二つありました。ひとつは、「ようこそ先輩」。もうひとつは「しくじり先生」です。

ようこそ先輩は、いろんな世界で成功した人が母校に帰って後輩に授業をするというもの。成功者です。

しくじり先生は、自分がこうして失敗したという話を、TVで正直に話して、失敗しないように、参考にしてもらうという番組でした。いろんな苦労や失敗も、人々のためになる。失敗しないように。または、失敗しても、その苦しみを知ってくれる人がいて、理解し、助けてくれる。

大成功した先生にはなれなくても、しくじり先生には、誰もがなれるかもしれません。私たちの、苦労や問題、失敗や悲しみも、神様からのプレゼントと思い、喜んで背負っていくときに、それは他者を救う道具にもなるのです。そして、自分自身も、それがあったからこそ今があると、自信を持った人生を送ることができるようになるはずなのです。

あなたの十字架は何ですか?それを、喜んで、感謝していますか? 毎日いやだなと思って放り出したいと思っていませんか?自分をすて、自分の人間的な考えを捨てて、神様の目で、今の自分を、また隣人を見ていきましょう。神さまの祝福がありますように。


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