2020年8月21日金曜日

週報・説教メッセージ 20200823




 



聖書の学び 

今週の聖書の言葉

イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 マタイ 16:13~20より

説教(解説) 「天国の鍵、自動ドア?」 徳弘浩隆師

1、天国の鍵

今日の聖書の中には、「天国の鍵」という言葉が出てきます。そんな鍵があるなら欲しいものだと、だれもが思うでしょう。マルチン・ルターの時代に当時のカトリック教会が販売に熱心だった贖宥券・俗にいう免罪符はまさにそういうものだったに違いありません。これを買えばすべての罪がゆるされ、天国が約束されると人々は思ったでしょうから。

私もイタリアのバチカンを旅行したことを思い出します。牧師になってしばらくして初めて夫婦二人で本を片手にヨーロッパに旅行した時、行ってみたかったバチカンに最初に行きました。サン・ピエトロ大寺院の庭に行き、ペテロとパウロの像の前で「ここだ、ここだ」としみじみ見つめました。キリスト教の基礎を築いたともいえる、この二人の像が右と左に立っています。ペテロは大きなカギを手にしています。「ああ、これが天国の鍵だな」と思いながら、半分冗談でしかし半分本気で神様に祈りました。「天国の鍵があるなら、合鍵でもいいからほしいものです」と。そして反対側に行きパウロの像を見上げて、ここでも神様に祈りました。「世界伝道旅行をしたパウロのように、自分も外国語を勉強して宣教師になるのが高校生の頃ふと思った夢でした。そんな道がまだあるならいつか行かせてください」と。この二つの祈りの内、一つは不思議な方法でかなえられました。のちにブラジルに宣教師として行くことになったからです。パウロの前で祈りましたが、私たちが住んだ町はサンパウロでした。聖人パウロの名前を持った南半球最大の都市でした。もう一つの祈り、天国の合鍵はどうでしょうか?これはまだいただいていません。どうしたらそれを私たちは手に入れることができるでしょうか?

2、聖書

 聖書の教のお話では、天国の鍵は確かにペテロにイエス様から授けられました。いや、「授けよう」とイエス様は言われました。しかし、もちろんその現物があるわけではありません。バチカンのペテロ像は鍵を手にしていますが、どこかにその本物が大切にしまわれているわけではありません。イエス様はどうして、このように言われたのでしょうか?そのいきさつが大切だということになります。

 イエス様はなぜ、ペテロに「天国の鍵を授ける」といわれたのでしょうか。それは、その直前の会話がカギになります。イエス様は当時有名になってきました。神様のお話を分かりやすく教え、奇跡をおこない、群衆が後を追って集まっていました。偉大なユダヤ教のラビ・先生だと思っていた人が多かったのですが、中には有名な洗礼者ヨハネかその生まれ変わり、または預言者エリヤだというものもいます。そこでイエス様はペテロに尋ねました。この時はまだシモン・バルヨナという名前でした。すると彼は答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。これがイエス様のことを本当に救い主、メシア、キリストであるとはっきりと言い当てて表明した最初の言葉でした。ですからイエス様はそれを喜ばれたでしょう。そして、その言葉に対して、シモンに「岩」という意味のペテロという名前を与えました。今の私たちにわかりやすい英語風に言うならピーターですね。そのしっかりした確かな「岩」を基礎として、教会をたてる、そして「ペテロあなたに天国の鍵を授ける」といわれたのです。

3、天国の鍵は…

つまり、天国の鍵は、目に見えるあるものではなくて、「ペテロが信仰をもってそう信じ、イエス様の前で言い表した言葉、『この方こそ、メシア、キリスト、生ける神様の子だと私は思い信じます』という言葉に基礎があります。そういう信仰の言葉を「信仰告白」といいますし、私たちも毎週礼拝の中で、「信仰告白」を唱えています。

となると、「洗礼を受け、信仰告白を知っていて、唱えている自分は天国の鍵を持っていることになるから、もう大丈夫だ」ということになるでしょうか?

4、天国は自動ドア?

残念ながら答えは「Yes」であり「No」です。言葉を知っているとか、読み上げているというのと、自分がそのように生きているというのは、違うからです。

天国のドアは「開けゴマ」のような特別の呪文を覚えていて、それを唱えるとガラガラっと開く自動ドアのようなものではないのです。

知っているということと、そのように生きているということは違います。私たちが、イエス様の教えを学んで、罪を悔い改めて、ゆるしてもらい、新しく生まれ変わり、愛と真実の生き方をすること、その生きざまが大切です。洗礼は大きなカギです。それがなければいけません。しかしそれだけで後は何をしてもよいということではありません。その後の生き方で、何度も失敗するかもしれません。罪を犯したり、人を傷つけたりするかもしれません。しかし、そのたびにイエス様の十字架の救いを見上げること、その生き方も問われています。

5、勧め

鍵でも呪文でもなく、生体認証という鍵が今よくあります。私も教会の事務室のドアノブを鍵がある物に取り替えました。暗証番号と、指紋で開く用になって便利になりました。

天国の鍵は、「イエス様の十字架の救いと、それを生きる自分自身」という「生体認証」で開く自動ドアといえます。これによって開きも締りもするのです。イエスキリストを受け入れて、どんな正しい生き方をするか、どんな愛のある生き方をするか、それを見つめながら生きていきましょう。

そして、それは死んだ後の話だけではありません。そう生きる時に、自分の身の回りに、天国が少しずつ実現していきます。悩みや苦しみ、いさかいや争いから解放された生活、社会があなたの周りから、少しずつ始まるのです。そんな毎日を、いっしょに、生きていきましょう。


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