聖書の学び
今週の聖書の言葉
すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。 これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。 ( 中略 ) 女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。 (マタイ 15:10~20~28 より一部引用)
説教(解説) 「形の信仰、心の信仰」 徳弘浩隆師
1、聖書
今日の聖書は二つの物語が読まれました。これらそれぞれは大切な出来事が記されていて、それぞれに大切な教えを学ぶことができます。しかし、今日はそれら二つが連続して選ばれています。そこで私たちに必要なことは、それぞれの中に入り込んでゆっくり教えを学ぶことと共に、これらの二つの物語が対比して教えている神様の言葉を聞き取ることだと思われます。
簡単に言えば最初の話は、必ず手を洗って食事をするかどうかということ。二つ目の話は「カナンの女」と記されている、いわゆる異邦人、ユダヤ人ではない人に対してイエス様の救いがこの時点でどのようにされるか、ということです。
そして、この二つの物語を読みながら、これらを対比したうえで、神様が今日私たちに語りたいメッセージを聞き取っていきたいと思います。
2、手を洗うこと
食事の前に手を洗うことはとても大切なことです。それは宗教的にということよりも、特に今は、新しい感染症の防止のために、世界中で今まで以上に気をつけさせられています。日本人の新型コロナへの感染や死亡率が少ないと不思議がられていますが、これは、玄関で靴を脱いだり、手を洗ったりすること、食事の際にとり箸を使ったり、大声で笑ったりおしゃべりしたりする度合が少なかったりする日本やアジア人の生活習慣がよいのかといわれたりもしています。しかし今日の聖書の中の問答は、衛生上の問題ではなくて、宗教上の問題でした。厳格なユダヤ教のファリサイ派の人たちは律法のおきてに加えて言い伝えのおきても厳格に守っていて、食事の前に必ず手を洗い清めていました。今でもユダヤ教超正当主義者たちは飲食物を口に運ぶ際に必ず祈りの言葉を唱えるので、普通のユダヤ教の人たちから怪訝な顔で見られるということが、教会の集会で数回見たイスラエルのTVドラマでも描かれていました。ファリサイ派の人たちのようには厳格にしていなかったイエス様の弟子たちが責められますが、イエス様はそれを気に留めず、反論します。口から入る物よりも、口から出るもの、つまり言葉によって人は人を傷つけ汚し、罪を犯すものだと。信仰は、形ではなく、心が大切だと教えてくれます。私たちは、愛のある言葉、正しい言葉を出しているでしょうか?それも反省させられます。
3、カナンの女
二つ目の話はこうでした。メシア、救世主を待っていたユダヤ人に神様の言葉を伝えることに注力していた時に、カナンの女性がまとわりついてきます。マルコの福音書の並行個所を見れば、これはギリシャ人でスロ・フェニキア生まれの人だったということです。ユダヤ人にまずメシアの到来を悟らせようと神の言葉を伝えている最中に、ユダヤ人ではない女性が自分の娘の悪例を追い払ってくださいと、叫びながらついてきました。まだ「神様の時」ではないので返事をしないイエス様でしたが、女性は食い下がります。そして、対話の中で、「どうか、助けてください」「子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」と、「自分は資格がないかもしれないけれども、残り物でも、おこぼれでも頂きたいのです」と謙虚に、そして一心にイエス様にすがりました。それを見て、「あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」といわれ、その時、娘の病気はいやされたのです。
「私は立派で、資格があるから、洗礼を受ける。私はすべてが理解できたから、神様に救われるはずだ」という思い上がり、あるいはそれができないからダメだという行き詰まりが、どちらとも、如何に愚かかということを教えてくれます。「資格がないほどのものですが、救ってください」という神様への全面降伏と、依存するときに、神様の力が働くのに、です。
4、学び
これら二つの出来事がマタイの福音書では続けて記されています。そして今日はそれらが両方選ばれ、読むように勧められています。
私たちは、何を学ぶべきでしょうか?それは、形だけの信仰ではなくて、心を込めた信仰が大切であり、それには資格も何もなく、謙虚な神様を信じ願う心が大切だということではないでしょうか。
5、勧め
今日は、岐阜のルーテル教会では、召天者記念礼拝をしています。キリスト教の伝統では11月の初めのころにすることが多くあります。8月は日本のお盆の習慣ですから、「日本の他宗教の習慣に迎合して、これはおかしいんじゃないか?」と思われる方もおられるかもしれません。役員会でも、きちんと話し合いました。そこで、皆で理解し納得したのは、こういうことでした。11月のキリスト教の死者の日や召天者記念礼拝も、実は、キリスト今日が広がっていく中でヨーロッパの現地の宗教や習慣と合わせながら、あるいや、利用しながら、伝わり広まっていったということです。そもそも、クリスマスの日も聖書には記されていません。これも、ヨーロッパで冬至になりこの日から夜の長さが短くなっていく季節の変わり目に祝っていた現地の祝いと、暗闇の中に世の光としてこられたキリストの誕生を重ね合わせて祝う習慣ができたといわれています。ですから、日本の風習に寄り添って、この季節に、愛するものを思い出し、ともに礼拝するのもよいのではないでしょうか。
冷静に考え、学ぶべきことは、やはりこうです。神様を思い、信仰が熱心であるからこそ伝えられ守られてきたものでも、形にのみとらわれてしまえば、最初大切にしていたはずの神様への思いや信仰を見失ってしまうことになる。イエス様を動かすほどの信仰は、血筋や厳格な信仰姿勢よりも、自分には資格がないけれどもと、謙虚になって祈り頼む姿だということ。もう一度、神様との付き合い方を考えてみませんか?教会の礼拝で学び、祈り、一緒に歩んでいきましょう。
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