2020年7月4日土曜日

週報・説教 20200705





聖書の学び 
今週の聖書の言葉
今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。
葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』
ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
(新約聖書 マタイによる福音書11:16~19&25~30)

説教(解説) 
「肩の荷を下ろせる教会」 徳弘浩隆師
1. 導入
今日の聖書を読んで、「ロバを売りに行く親子」の物語を思い出しました。一般的にはイソップの寓話とされていますが、もともとポッジョというひとの「笑話集」に収録されていたそうですね。こんな話でした。
ロバを飼っていた父親と息子が、そのロバを売りに行くため、市場へ出かけた。2人でロバを引いて歩いていると、それを見た人が言う、「せっかくロバを連れているのに、乗りもせずに歩いているなんてもったいないことだ」。なるほどと思い、父親は息子をロバに乗せる。
しばらく行くと別の人がこれを見て、「元気な若者が楽をして親を歩かせるなんて、ひどいじゃないか」と言うので、なるほどと、今度は父親がロバにまたがり、息子が引いて歩いた。また別の者が見て、「自分だけ楽をして子供を歩かせるとは、悪い親だ。いっしょにロバに乗ればいいだろう」と言った。それはそうだと、2人でロバに乗って行く。
するとまた、「2人も乗るなんて、重くてロバがかわいそうだ。もっと楽にしてやればどうか」と言う者がいる。それではと、父親と息子は、こうすれば楽になるだろうと、ちょうど狩りの獲物を運ぶように、1本の棒にロバの両足をくくりつけて吊り上げ、2人で担いで歩く。しかし、不自然な姿勢を嫌がったロバが暴れだした。不運にもそこは橋の上であった。暴れたロバは川に落ちて流されて死んでしまった。
日本の小学校中学年(3年、4年)向けの道徳教材として使用され、指導の方向性としては、教育基本法第二条第2号に則り、「周囲の意見に流されない、自主や自律の大切さ」「節度や節制」を学ばせるための教材として利用される。
人はどうしても人の言うことが気になるものです。何をするにしても、「こういわれたらどうしよう」、「ああいわれたらいやだなぁ」と、だれしも思うことがあるでしょう。特に日本ではこういう傾向が強いように思います。外国人お子さんでも、日本という国や社会で育ったらそうなり、日本人でも外国の社会で育つとそうでない傾向が強いように感じます。持って生まれて気質もあるでしょうが、育った社会がどういう社会化ということが、大きく影響しているように思います。
しかし、同時に人は、人に対してあれこれというものです。人のしていることを見て、「もっとこうしたらいいのに」と注文を付けたり、「ああすごいなぁ、自分にはできない」と劣等感を持ったりもします。
人のことをどう評価し、その言葉をどう受け止めるか。そして神様の声をどう聞き取り、どう生きていくか、そんなことを今日の聖書から聞いていきましょう。

2. 聖書
イエス様は人々の姿をこういうたとえを出して嘆いておられます。
「笛を吹いたのに、踊ってくれない。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれない」というのは、子供たちの遊びのなかの歌で、結婚式ごっこをしても葬式ごっこをしても、ただ見ているだけで入ってこない子をなじっている歌といわれています。
そして、洗礼者ヨハネが断食していると悪例のせいにし、イエス様たちが飲み食いしていると大食漢で大酒のみと非難する。
つまり、何をしても悪意にとって、理解しない、反省をしない、そんな人々の姿です。神様の言葉を聞いても理解せず、厳しい言葉も愛の言葉も、素直に聞き取れずに、神様から遠く生きている人々を、イエス様は嘆いておられるのです。

3. 振り返り
でもこれは、昔の「彼ら」の話ではありません。私たちも、自分に対して、また他者に対して、このように思い、反省させられることが多いと思います。
人間関係ではくよくよしたり、腹を立てたりします。神様との関係では、願いを聞いてくれない神様に文句を言ったり、自分だけ不幸な星のもとに生まれたと恨み言を言ったりします。神様に願いを聞いてもらおうと思えば、もっと良い事をしたり、一生懸命に祈ったり、もっとたくさん献金をしたりしなければならないと思いがちです。そうすると、教会は、宗教は、人を救い楽にするのではなくて、逆に人に重荷をもっと負わせ、苦しめることになっています。そんな出口のないトンネルで息苦しく面倒に思うことはありませんか? どうしたらよいのでしょうか?
イエス様はこう続けます。「神様は、知恵ある物には隠して、幼子のようなものに、神様の計画をお示しんあった」と。知恵や賢さが邪魔をしています。幼子のように、親や大人に頼らないと生きていけない、そんな弱さ、そこからくる素直に聞く姿の大切さを言われているのです。そして、「'疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と結論付け、呼びかけています。
自分の考えや知識、経験や今までの常識に振り回されて、人を判断していませんか?そして神様さえ、自分の知識や経験という物差しで見ていませんか?その時には、人間関係は重く面倒なことになり、神様は救いではなくて信じられないものや、逆に罰を与えてる怖い方のままかもしれません。
教会はそういうところではありません。素直に神様の言葉を聞いてみましょう。全部わかるまで信じないぞというのは無理があります。どうせ私たち人間に神様のことや聖書の不思議なところを全部理解して納得することは、おそらくできないでしょう。無駄な努力をやめて、心に響くことがあれば、その生き方を受け入れてみること、そうすると、重たい肩の荷が下りて楽になるのに、とイエス様の声が聞こえてきます。

4. 勧め
今日の聖書の話から、挿絵を描いて持て来てくれた居会メンバーがおられます。素敵な絵をありがとうございます。草原にねころがって、両手を広げて天を仰いでいます。草のにおいや、深呼吸している息の音が聞こえてきそうですね。色んな人の言葉に振り回されながらロバを連れて歩いている親子の絵とずいぶんと違う、自由で安心した姿です。
どうしたらこうなれるでしょう?それは、今日のイエス様の言葉が答えです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」といわれるイエス様のところに行くだけです。悔い改めて(今までの生き方を反省して)、感謝して、お願いして、あとは神様にお任せしてみましょう。神様の祝福がありますように。


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