2020年7月17日金曜日

20200719 週報・説教





聖書の学び
今週の聖書の言葉
イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
(新約聖書 マタイ 13:24~30 (新25)

説教(解説) 「種まきと草刈り」 徳弘浩隆師
1. 導入
イエス様が話された種まきに関するたとえ話が続いています。イエス様は羊飼いのたとえもされましたが、これは私たち日本で生活するものには少し縁が遠いもので分かりにくいところがあります。しかし、種まきなら身近に感じます。牧畜よりも農耕の方が身近にあることですし家庭でもできることだからです。そして、先週もお話ししたように、今年は新型コロナの影響もあって、私も草刈りをしたり、種まきをして野菜を少し育ててみたりしていますから、聖書の言葉がより身近に感じられます。今日は、「麦の良い種をまいたのに、敵がやってきて毒麦をまいていった」という話です。さてどうなるのでしょうか。一緒にイエス様のメッセージを聞いていきましょう。
2. 聖書
人々が眠っている間に、敵がやってきて麦の畑に毒麦をまいていったというのです。芽が出て、実りが付き始めてそれがわかりました。「敵の仕業だ」とわかるわけですが、「言って抜き集めておきましょう」という僕たちの言葉に主人は「刈り入れまでそのままにしておきなさ」というのです。その理由は、「毒麦を集める時に、麦まで一緒に抜くかもしれない」から、というものでした。そして、刈り入れの時に、毒麦を先に集めて焼いてしまい、麦は集めて蔵に入れるというお話です。
後半の部分では、イエス様がこのたとえ話を説明されます。神様が世界に信仰深い人をまいたのに、悪魔が悪いものを混ぜてしまった。だから天使たちが世の終わりに悪いものを集めて火で焼き滅ぼし、歯ぎしりをすることになる。しかし、正しい人々は天の国で太陽のように輝く、というのです。
今日のたとえも説明がついています。わかりやすい説明で、悪いものへの裁きと、よいものへの報いが示されています。これを聞いて、「私たちは正しいものであらねばならない。そうでなければ、集められて焼き滅ぼされてしまうから」と恐ろしくなり、心を引き締められます。
「自分はよい種と悪い種、どちらだったんだろうか?」「悪い種だったら、どれだけ頑張っても救われず滅ぼされるのだろうか?」「そう考えると、努力しなくてもうまくいく人もいれば、自分なんか、どれだけ頑張っても報われない人生だし」と思うかもしれません。悪い畑なら耕したり水をまいたりして、改良することができるかもしれませんが、もともと悪い種だったらどうしようもないかと、心配になります。今日のメッセージは厳しい裁きの言葉なのでしょうか?
今日の聖書を注意深く読んでみましょう。「今すぐにでも毒麦を抜きに行きましょうか?」という僕の言葉に対して主人はこういいました。「刈り入れまでそのままにしておきなさい」と。ここが大切です。
3. 振り返り
「即断即決」という言葉があります。ダラダラしていないですぐに決めることです。確か、千葉県の市役所には「すぐやる課」という課があって有名になったことがあります。「お役所仕事は、たらいまわしになって、挙句になかなか対処してくれない」という苦情に対応したものでした。私たちの人生にも、「改めるのには遅すぎるということはない」「思い立ったが吉日」という考えや言葉もあります。
しかし、神様は、必ずしもそうではないようです。特に、悪に対するさばきに対しては。神様が即断即決していたら、もう私たちの人生は、何度やり直そうと思っても、それができません。麦と毒麦は根が絡まってしまって、途中で抜こうと思っても、麦の方の根も一緒に引き抜いてしまうこともある厄介なものだそうです。私も芝生を刈って、教会の庭や牧師館の小さな家庭菜園の雑草も抜きました。芝刈りは機械で楽になりました。しかし、フェンス際の雑草が手作業になり、大変でした。もっと大変なのは、生かしたい植木や野菜の根元に生えている雑草でした。確かに、一緒に野菜を抜いてしまったこともあります。
4. 勧め
私たちの心は、神様がよいものとして作られましたが、罪が入ってきて、分けようがないような混ざり合った心になってしまいました。片方をとれば片方も殺してしまうような、複雑な心です。根の絡まった麦と毒麦のように、厄介な存在が私たちの姿です。
神様は、悪や罪がゆるせない裁きの神ですが、それだけではなくて、時が来るまでじっと待っていてくれる忍耐と愛の神でもあると、今日のメッセージは語っているように聞こえてきます。しかし、期限は無制限ではありません。私たちの命も期限があります。生きている間に、どのように生きるか、締切もあります。この世の終わりも、いつかあります。「その時」まで、神様は愛と忍耐で、私たちの悔い改めと生まれ変わりを待って下さているのです。この世にはいつか終わりの時が来るのでしょう。それは平等で同じときでしょう。しかし、一人一人には定められた時があります。地上の命の長さも、人生の山や谷もそれぞれにあり、それは違います。
神様の目から見たらできるだけ先まで待ってくれるのですが、私たちの目から見れば、即断即決がよいのかもしれません。「耳のあるものは聞きなさい」と今日もイエス様は言われます。あの時聞いていたのに、聞く耳を持っていなかったからと、後悔することがないように、キリストに従って生きていきましょう。そうすれば、歯ぎしりするのではなく、天の国で太陽のように輝くことになるでしょう。

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