荷物置き場で、「荷物」を置くとき「お荷物」と言ってちょっと変でお互いに笑ったという経験があります。「僕がお荷物ということですか?」と冗談で返されたことがあります。「荷物」と「お荷物」でずいぶん意味が変わることがありますね。キリストが言われる「私の荷は軽い」とは、どんな意味でしょうか?一緒に聖書を読んでみましょう。今日は高蔵寺教会で礼拝担当します。外国メンバも来てくれる日です。YoutubeでFacebookでもお知らせする礼拝中継もあります。おまちしています。
聖書の言葉
マタイ 11:16~19 & 25~30
11:16今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。17『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』
18ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、 19人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
説教 「荷物とお荷物の違い」徳弘浩隆牧師
1,荷物置き場
今日の聖書は、「重荷を負うものは、私のところに来なさい」というキリストの言葉があります。聖書を読んで、先日のこんなことを思い出しました。
5月に全国総会がありましたが、東京教会での最終日。それぞれ、最終日はホテルでチェックアウトをして、荷物を持って集まりました。大き目のカバンをみんな2階にもって上がろうとすると、「荷物は1階の集会室においてください」との案内放送。重たい荷物を持ちあがらないでよいようにと、荷物置き場を作ってくれたのでしょう。もう一度荷物を持って下に降りて、出会う人たちと、「荷物置き場はここですねぇ」と声を掛け合いながら、入りました。
わたしは「お荷物置き場はここですね?」と後輩置牧師に聞くと、「はい、そうですよ。僕も、教会のお荷物かもしれませんね」と笑いながら答えてくれました。私のとっさの日本語が変で、「お荷物」と言ってしまったので、ユーモアで答えてくれ、みんな笑って楽しい時でした。さて、「荷物」と「お荷物」の違いは何でしょう?キリストの言われる、重荷とは、何のことでしょう?一緒に聖書の話を聞きましょう。
2,聖書
今日の聖書の直前は、洗礼者ヨハネがイエスのところに使いをやって質問をした話の次です。洗礼者ヨハネは、キリストが来るのを人々に伝え、その準備のために、洗礼を受けさせていました。罪を悔い改めるためです。イエスにも会い、願われるままに洗礼も授けました。しかし、この人は自分より尊い方だと、そう感じ、そんな話もしました。しかし、その彼が、迷っていたのです。そんなことに、そして、各地で宣教をして回った後で、イエスは今日の言葉を語りました。
そこには、人々の不信仰と、心の鈍さを嘆くキリストの心がにじみ出ています。
当時の子供たちの遊びの中の歌だと考えられていますが、「(結婚式のお祝いで)笛を吹いたのに踊ってくれない。葬式ごっこをしたのに悲しんでくれない」という状況と同じだ、と嘆いているのです。
そして、ヨハネや自分に対する人々の気持ちも、嘆きます。「ヨハネが断食をすると悪霊につかれているといい、イエスが人々と食事を共にするのを大切にすると大食漢で大酒飲みだと批判する」というのです。
どんなことを語り、行い、人々に寄り添っても、人々は良い方には取らず、神様の本当の言葉や、自分たちが待っていたキリストは誰かとわからずに、自分の知識だけで判断していると、嘆いておられるのです。
だから、「知恵あるものや賢いもの」には逆にわからず、知恵や力がなくて親にすべて頼っている幼子のようなものの方が、神様の御心を知り従ってくるのだと、いわれます。
だから、沢山の重荷を持って生きている人々、大人や能力のあるもの、律法を知り沢山の知識や信仰があると思っている人に、それを下ろしなさい、と告げているのです。
3,振り返り
私たちは、どんな生き方をしているでしょうか?
なまじっかある自分の知識や、経験。そして、信仰と思っている、聖書に知識やそこにある様々な掟。それを守るよう勧める律法学者やそのように生きていると自信たっぷりのファリサイ派。彼らには苦しめられていやだけれど、自分の知識や好き嫌いで神の人を判断し、イエスの本当の価値もわからずに右往左往する姿、それが当時の人々でした。
それをみて、「重荷を持っているものは、私のところに来たらいい。休ませてあげるのに。」と招くのがイエスでした。
さて、私たちは、何を持っているでしょうか?自分の知識や経験、そして聖書の知識や信仰、確かにそれぞれそれなりに持っています。でもそれが逆に、見えなくしている、苦しくしていることがあるかもしれません。私が持っている重荷は「お荷物」だからです。それは、大切なものと思い必死に抱えているけれど、実は邪魔なものかもしれません。キリストのもとにきて、安心して休ませていただきましょう。その時本当に「父を知ることができる」、つまり神様に出会うことができるのです。
では、キリストに出会うと、まったく何も持たなくてよい、身軽な自由奔放な人生になるのでしょうか?そうではありません。「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽い」とキリストは言います。牛が荷車を引くときに肩に背負うのがくびきです。それは多きすぐもなく小さすぎもなく、ちょうどその人に合っているから負いやすい。そして、荷車の荷は軽いのです。全くないのではないけれども、神様がその人なら背負える、その人が成長するためにその時々に合った、背負える荷物なのでしょう。それは、不要な「お荷物」ではなくて、大切な本当の宝である「荷物」。それが、「お荷物」と「荷物」の違いだと、考えさせられています。
4,勧め
人生の、信仰の「お荷物整理」が大切なようです。そして、本当に神様からいただいた、大切な「荷物」を選んで生きていきましょう。
それは重たいだけで苦しめる「お荷物」ではなく自分を成長もさせ、自分のためだけではなくて、同じ苦しみを負う人々に出会ったときに、役にも立つものです。今週も、キリストは招いておられます。自分のお荷物を確認しながら、キリストのもとに行きましょう。いちど、先入観や自分の判断を捨ててみて、キリストの言葉を聞いてみましょう。そして、大切な荷物をいただいて、生きていきましょう。皆様に神様からの祝福がありますように。
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