2023年6月18日日曜日

説教メッセージ 20230618


聖書の言葉 マタイ 9:35~10: 8 (新17)

9: 35イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。 36また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。 37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

10: 1イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。 2十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、 3フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、 4熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

5イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。 7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。 8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

説教 「ビワの木と西洋芝の種」徳弘浩隆牧師

1, 収穫は多いが、働き手が少ない…

「収穫は多いが」という言葉を聞いて、思い出すのは、高蔵寺教会の牧師館の菜園のゴーヤの実と、実が鈴なりになって放置されているビワの木とです。真夏の日差しを避けるために、また、電気代を節約し環境配慮をするために、ゴーヤカーテンを作っていますが、最初はうれしいのに、途中から飽きてしまうのが、次から次になるゴーヤの実でした。収穫も多いし、働き手もいるんだけれど、食べる人が少ないというぜいたくな悩みでした。今年も、順調にカーテンができ始めています。

今年はそれに加えて思い出すのが、高蔵寺教会の道を挟んだ土手のビワの実でした。教会員の方が教えてくれて、少しいっしょにいただいたりもしましたが、鈴なりで、もったいないなぁと思うのでした。

今日の聖書の話は、もちろん農業の収穫のことを言っているのではありません。どんな神様の話でしょうか?一緒に聞いていきましょう。

2,聖書

 まず、イエス様の働きが今日の冒頭で書かれています。「教え、福音を宣べ伝え、癒された」という三つの働きは、キリスト教会の宣教の三つの分野として理解され、今では「教育と、伝道と、社会福祉」という形で私たちも取り組んでいます。「大きな意味での教会の働き」は、宗教法人と学校法人、そして社会福祉法人という事になり、ルーテル教会もそれらを持っています。世界ではLWFはいわゆる伝道だけではなくて、地域の開発援助や教育、災害や難民支援にもつながっています。町や村を残らず回ってこれらに取り組まれてキリストの働きを、その手足となり、継続していることになります。

 そして聖書では、「収穫は多いが、働き手が少ない」と続き、働き手を送ってくださるよう、主に願いなさいと言われます。そのうえで、12人の弟子たちを呼びよせ、派遣するという事になっていきます。

  ここで、二つの疑問がわきます。

1) 収穫が多いとはどういうことか

2) 働き手を送ってもらうよう祈れと言いながら、どこかから送られるのではなく、弟子たちにそれを託したのはどういうことか, という事です。

 それは、「立派な実がたくさん実って、すぐに収穫できる状態」という事ではなく、「収穫すべき時」だという事かもしれません。「収穫」というのは、先週の旧約聖書の朗読でもあったホセア書では、神がこの世に介入して「刈り入れるとき」、つまり、裁きの時であり、救いの時でもある、と理解できるでしょう。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果てて打ちひしがれているのをご覧になって」と言われてイエス様の言葉ですから、つじつまが合います。そして、「『天の国は近づいた』と宣べ伝えよ」と派遣する弟子たちに命じられた言葉につながっていくのです。

 また先週のホセア書の6章15節も思い出しましょう。「わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。

彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め 苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで。」と神様は独り言を言われます。人が、苦しみの中で人間の限界や罪を見つめて、神様に立ち返るまで、口出しをしないでしばらく待っていることにしよう、と見ておられるのです。そして、十分苦しみ、悔い改めの準備ができた、神に立ち返る準備ができたときに、神は介入し、悔い改める人々を招き迎え入れるという事になるのです。

3,振り返り 

人生全て準備万端。たくさんの収穫が期待される、実がたくさん鈴なりになっていて、だれか早く収穫しなければという訳ではありません。

病人を招くために来られた主は、自分が病人でもうどうしようもないと気付いた人たちを放ってはおかないで、招かれました。自分は病人ではないと思う人には、その限界を知らせ、時には責め、罪深さを思い知らされることもされました。順調に実がなったから褒められるのが収穫とは限りません。自分の力ではもう、どうにもならず、助けを求めるとき、それが、神様から見たら、収穫の時でもあります。

高蔵寺教会の旧園庭の駐車場も思い出します。土のままでしたから、大雨の跡はぬかるみになって車だけではなくて、その車が走った近所の道路も汚してしまいます。予算は急にはないので、西洋芝の種をまいて、多少の土留めになればとやってみました。だいぶん芽を出し伸びてきました。しかし、まだまばらで、足りないようです。「じっと待っていてもうまくいかない。このままではだめだ」と気付くとき、ただ待つのではなくて、介入しなければと思わされます。種をもう少し買って蒔いて、上から砂場の砂も蒔いて、もう少し整った芝になるよう整えようと思っています。

私たちの人生でも、実がたくさんできて喜ぶ収穫の時だけではなくて、このままじゃダメみたいだからここで何かしようと思うとき、それも神様の介入される刈り入れの時なのです。

4,勧め 

 あなたはいま、どんな生き方をしていますか?順調ですか?それとも、「いや、これは少し、軌道修正したり、やり直しをしてみるタイミングかな?」と思わされる時ですか? だったら、良かった!その時こそ、神様ともう一度で会うときかもしれません。

 そして、もう一つ大切なこと。働き手を祈り求めながら、送り出されるのは誰かほかの人ではなくて、この自分でもあるという事。それも忘れずに心に留めましょう。あなたがまず気付き、そしてあなたが出会う誰か、助けることができる誰かが、そこにいるのに気づいていないかもしれません。遠慮して手が出せていないのかもしれません。

私は先週、夜中に教会の前の角で自動車をぶつけた人、暑い夕刻スーパーの前で倒れて寝込んでいる人に会いました。誰かほかの人ではなくて、自分で駆け寄って、声をかけ、話を聞き、助けてあげました。救急車が来るまで、道に座って話し込んであげました。義務感でもなく、逆に恥ずかしいと躊躇するのでもなく、自然と、そうさせられました。神様が押し出したのだと思います。必要な人が、目の前に急に現れるかもしれませんね。神様に、たずねながら、神様と、教会の家族と、一緒に生きていきましょう。

 

牧師コラム ルーテル教会の三つの働き… 

宗教・教育・福祉 https://lutherans.jp/






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