2023年6月11日日曜日

説教メッセージ 20230611

聖書の言葉 マタイ9:9-13,18-26 

9イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 10イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 11ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 13『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

18イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」 19そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。 20すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。 21「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。/中略/ 26このうわさはその地方一帯に広まった。

説教 「神が喜ぶのは犠牲ではなく愛」徳弘浩隆牧師

1, デンマーク牧場福祉会20周年…

昨日は、デンマーク牧場福祉会の設立20周年記念の感謝会に行ってきました。開会礼拝で説教を担当しました。その後、市長さんをはじめ来賓のあいさつ、そして福祉施設の各部署の働きや将来ビジョンについての説明を聞きました。

苦労もあり、紆余曲折もあった60年の歴史と、20年の歴史を振り返りました。最初にデンマーク人の宣教師が伝道と酪農学園設立をしてからの60年。紆余曲折しながら、こどもの家から福祉村構想をもっての社会福祉法人設立をしてからの20年の歴史を振り返り感謝しました。

わたしは、マタイによる福音書18章の「迷い出た羊」の個所を与えられ、牧場に建てられたこの施設は、一匹の迷い出た羊のために命を懸けて探しだす牧者の愛の姿を、設立の精神として説明しました。しかしそれは、草原で羊を抱きしめる牧者のステンドグラスだけを見る、田園風景ののどかな姿だけではないことも説明しました。マタイの18章のこのたとえには、イエス様の話の流れから、前段があるからです。

それは、18章の1節に弟子たちが、「天の国でだれが一番偉いか」という質問をイエス様にしたことから始まっていることを見逃してはいけないからです。イエス様に従う弟子たちの関心ごとは、神の言葉でもなく、集まる群衆を不憫に思うことでもなく、自分たちでだれが一番偉いかという、いかにも人間臭い、あきれるほど罪深いものだったのです。弟子たちの傲慢さや虚栄心・競争心、それをたしなめ罪に陥らないようにと教え、しかし、そんなものでも、無条件に愛するのが神様なのだという、3段目の話が、このステンドグラスに描かれた、羊を抱きしめる牧者・つまりイエス様の姿なのです。

神の愛を教えた教えですが、それは、驚くほどの積み深い人間の浅ましさ、不完全さに全く逆行する、大きな神の愛でした。そんな、人間の不完全さも知りながら、神の愛に動かされて、人を愛し奉仕するのが、デンマーク牧場の愛の精神なのだと、説明しました。

2,聖書

 今日の聖書も、イエス様の愛の姿を、「真空の状態の中」で説明したものではありません。人間の罪深さがうごめく中で、際立ったイエス様の姿を伝えています。それを見逃してはなりません。どんな風にイエス様は罪びとに出会い、接されたのでしょうか。聖書を学んでいきましょう。

 マタイという徴税人のところへやってきたイエスさまでした。徴税人は、ユダヤの民を支配するローマ帝国の手先にもなり、自分たちの宗教や文化を抑圧する人の側で、税金を取り立てる「悪の手先」でもありました。イエス様は、そんな人のところへやってきて、何をされたのでしょうか。その罪状を暴き、人々の前で見せしめにするかのように叱り付け、罰を与えるのではなくて、ただこう言われたのです。「私に従いなさい」と。すると彼はなんと、立ち上がってイエス様に従っていったのでした。そこまでは良いとしても、次には、彼の家で食事を一緒にしていたというのです。

これは、ファリサイ派の人たちには理解できず、我慢できないことでした。それで、弟子たちを攻め立てたのでした。それに対するイエス様の言葉が、有名なこの言葉でした。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

ファリサイ派の人は、聖書の掟を学び、厳格に守る人たちでした。それができないいい加減な一般人を軽蔑すらして、彼らと交流しないのが宗教的なプライドですらありました。みんなと離れ、分離しているから、「ファリサイ派」と呼ばれたといわれています。「離れたもの、分離したもの」という意味合いがあったそうです。

それに対して、聖書の言葉を守れない、いい加減な一般人の中に入り込み、彼らの声をかけ、従うものの家で一緒に食事をされたイエス様の姿は、いかにもファリサイ派の生き方と対照的でした。

この話は、ファリサイ派のような生き方をしていないけれども、素朴な信仰をもつものが、癒され死から生き返るという奇蹟的な方法で神の恵みを受ける奇蹟物語に続いていくのでした。

3,振り返り 

 私たちの生き方を振り返らねばなりません。どんな生き方をしているでしょうか。

 なんの良いところもないのに、キリストに声をかけられた、そんな一人かもしれません。「私に従いなさい」と。努力をして修行をしてきたわけでも、聖書の通り一生懸命生きていたのでもありません。そんな私たちをどのように、神様は見つけ、声をかけられるのでしょうか。

 それは、罪の社会の中で生き、苦しみ、救いを求め、自分の限界に気が付いていたからかもしれません。そんなときには、神様の呼びかけが心に響きます。「医者を必要とするのは病人」だからです。自分が健康で医者は必要ないと思う病人こそ、厄介なものです。ファリサイ派はそんな人たちだったのかもしれません。

 4,勧め 

 私も先週久しぶりに眼科の病院に行きました。「少し時間が空きましたね。目薬は足りていましたか?」と聞かれました。「はい、忙しくて来られませんでした。目薬はなんとか足りました。時々さし忘れたりもしましたし」というと、「そうですか。正直なのは素晴らしいけれど、ちゃんと目薬を差してくださいね」と笑いながら言われてしまいました。 私が病院へ行かねばと、ようやく言ったのは、健康だったからではなくて、そろそろ薬がなくなるという限界と、調子がまた悪いという限界からでした。

 今日の旧約聖書を読んで、苦笑いをしてしまいました。神様は、人間が自分の罪の生き方で、限界になるまで、身を隠して、自分に立ち返るようになるのを待っていると、ホセア書にある言葉です。「わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで」と。

そして、人が悔い改めて、つまり「立ち返ること」を願い、待っておられるのです。そこで、今日イエス様が引用された言葉に続きます。「神が求めるのは、犠牲ではなくて愛なのだ」と。犠牲ばかりを強いるファリサイ派のようにではなく、自分の限界・罪に気づき、神に立ち返ること、そのために、試練もお与えになる神様の愛を、見上げることができますように。そして、罪びとを裁くだけではなく、温かい愛のまなざしで、接してくださるキリストの愛で、私たちは招かれているのだと、確認していきましょう。

 そして、その招きに信頼してついていけるようになりましょう。それが、「信仰」なのです。それで、私たちは、癒され、問題も解決されるでしょう。

 一緒に信仰を持って生きていきましょう。

 

牧師コラム 

デンマーク牧場福祉会20周年… 

デンマーク牧場福祉会の20周年感謝会。礼拝で説教を担当しました。

袋井市・市長さんや県の担当者、近隣大学の先生たちもお祝いに駆けつけてくれました。そして、キリスト教精神にのっとった、働きの紹介を聞きました。

8月に高蔵寺教会の講演会にお呼びする武井ドクターの報告もありました。ありがとう。またお会いしましょう。


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