暑い日、そして雨と肌寒さを感じる日。いろいろ繰り返しますね。体調を壊された方も多いと思います。私も風邪気味でしたが、薬を飲んで、時間を見つけては横になり、何とか仕事をこなしました。日よけを作ろうと、ゴーヤやトウモロコシ、トマトにキュウリを植えました。太陽と雨の恵み、暑さと収穫の喜びを期待しています。さっそく、ツルが支柱やネットをつかみ始めました。天まで昇れ!と応援しています。今日は名古屋の復活教会で礼拝をします。高蔵寺は代読で礼拝が持たれます。YouTubeで中継しFacebookでもご案内します。教会か、ネットでお会いしましょう。今日は、昇天主日。天に上るか、地に降るか、傲慢か愛か、そんなことを考えます。日本にはいろんな国の首脳が来ていますね。ブラジルからも。どうぞ、平和を作り出すことができますように。お待ちしています。
聖書の言葉 ルカ 24:44~53
44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 48あなたがたはこれらのことの証人となる。 49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
説教 「天に上るキリスト」徳弘浩隆牧師
1,天と地…
「天にも昇る嬉しさ」という表現があります。天に昇るのは、この上もない喜びということを表しています。「天と地の違いがある」という言い方もあります。天は素晴らしく、地は素晴らしくないもの。「評判が地に落ちる」という言葉もあり、それは、まさにこれより下はないという最下位の状態を表しています。このように、「天と地」という言葉を私たちはよく使います。高層ビルもない時代、地面から見上げる高い建物や山は、手が届かない、神々(こうごう)しい方のおられるところでした。
聖書で言う「天」という表現も、高度何千メートルより上とか、大気圏のさらに上とか、そういう意味ではなくて、人知を超えた神様の、聖なる領域というように考えてよいでしょう。
先週末ニュースで見た映像は、世界各国から広島に国の指導者たちが降り立ち、世界平和と協調について話し合うためで、突如ウクライナからも大統領が来ることになり、この上もない平和を模索し作り出す機会にもなればと期待されるところでしょう。
しかし、その広島には、昔、争いのために飛行機が飛び交い、ついには、歴史上最悪の核兵器が天から降ってきて、多くの命が奪われたところでもあります。
人間は、神の言葉を破り、エデンを追放されました。善と悪を自分で決め、生きるようになったので、その自己中心のそれぞれの基準や利害が衝突するときに、いさかいや争い、戦争が起こるようになり、まだ、解決できない歴史を続けています。
もはや、この人類にとっては、天という神様の聖なる神々しい領域はなくなってしまったのでしょうか。
しかし、クリスマスには「どうぞ、天から降(くだ)ってください」と神の助けを祈ったわたしたちです。そしてそのように神でありながら人間としても生き、人々に教え、癒し、寄り添ったイエス・キリストが、この地上でのお役目を終えて、天に昇って行かれました。そんな日を、私たちは記念しながら、今日の礼拝で聖書を読んでいます。
2,聖書
今日の聖書はこうです。十字架と復活の後、いよいよイエス様との最後のお別れで、今までのこととこれからのことを説明されます。旧約聖書の預言に従って、メシアは苦しみを受け、三日目に復活することになっていたこと。そして、それによって、罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によって、ここエルサレムからあらゆる国々の人に延べ伝えられる、と神様のご計画を説明されたのです。
そして、あなた方はこれらのことの証人になるということ、高いところからの力に覆われるまでは、都エルサレムにとどまっていなさい、と命令されました。
ベタニアのあたりまで弟子たちを連れてゆき、手を挙げて祝福され、そのまま天に上げられた、という出来事が伝えられています。
今日の聖書の日課の使徒言行録の問答も注意深く読まなければなりません。使徒言行録は、今日の朗読の冒頭にもあったように、テオフィロという人に対してイエスキリストの出来事を整理して書き記して献呈しています。それは、ルカによる福音書の続編として書かれていると理解されています。
今日朗読された福音書はルカの最後、そして最初に読まれた第一朗読がその続きとなっています。少し重なりがありますが、この二つをのりしろに沿ってつなげるような気持ちで読んでみなければなりません。
イエス様は、復活後、40日間にわたって、彼らに現れ、神の国ついて話をされました。食事の時にこういわれます。「エルサレムにとどまっていなさい。父の約束されたものを待ちなさい」と。すると、何が起こるのだろうかと思った使徒たちは集まってイエス様に訪ねます。「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」と。
神様から特別な力をいただいて、いよいよ、自分たちの支配者や神の言葉を受け入れない人々に、「目にものを見せてやる」ときでも来ると期待したのかもしれません。しかし、イエス様はそのまま、彼らが見ているうちに天にあげられ、見えなくなってしまったのです。何とも、不思議であっけない、あるいみ期待外れのイエスさまとのお別れになってしまいました。
3,振り返り
死を滅ぼし、復活されたキリスト、そして、天に昇って行かれたキリストは、すべての勝利者だと、私たちはよく教会で聞きます。
しかし、私たちは、勘違いしてはいけません。この言葉を聞いて、私たちはどう思うでしょうか。
わたしたちも、この勝利者キリストに選ばれ、救われたものだから、私たちも価値があるものとされ、天にも上げられる素晴らしいものになったと、そんな風に思うことはないでしょうか。それは、ある意味正しくて、ある意味間違っているともいえるでしょう。
上の絵を見てみてください。子供向けの昇天主日の教材です。塗り絵ができるようになっています。そして、上下二つの絵は、間違い探しにもなっています。
しばらく見てみてください。そこに実は、今日のメッセージの大切なことがあると思うからです。小さな字ですが、「6つの違いがあるよ」と書かれています。一つはイエス様の手首、そしてあと3つは弟子たちの数です。栄光の勝利者で天に上る力にあふれた王様ではなくて、十字架で釘打たれた跡があるかないか。そして弟子の数や小さな子がいるかどうかです。
それは、信仰を持っていけば何もかも成功し、苦労はなくて、自分をいじめる人や、目の前の苦労が全部なくなって、勝ち誇れると思ったら大きな間違いだということ。手にも足にもわき腹にも傷を負い、それは裏切られ捨てられた苦難の跡です。それでも人を愛し赦しておられた方だというところに、神様の愛を見つけ、多くの人を悔い改めに導かれたのです。弟子の数は、小さな子どもがその中にいるかどうかは、見ていたはずの自分が逃げていないか、何もできないちっぽけな自分も、その中にいるかどうかということを、問いかけられているようにも思えるのです。
4,勧め
敵を、自分を苦しめるものを、より大きな力でねじ伏せることではなくて、愛し、許してあげ、自分がボロボロになってでもそれを貫くなら、本当の回心と和解が起こり、平和が実現するはずだというイエス様のメッセージです。
そいう言意味では、「力による勝利者」で、天に上る、上昇志向の教えてはなくて、天から降り、裏切られ、命さえ奪われたけれども、最後まで愛と信仰を捨てなかった、「愛と信仰による勝利者」だったということを、学びましょう。それを受け入れてキリストに従って生きていくということが、洗礼ということです。
わたしたちもその通りに生きることは、現実問題としてはむつかしいこともあります。しかし、天を見上げ、祈り、進んでいきましょう。
牧師コラム
「昇天」と「召天」のちがいは…、あれ「被昇天」もあるけど… 同じ発音なので混同したり、変換ミスもすることがありますね。イエス様が天に昇られたのは「昇天」、私たちが死んで天に召されるのが「召天」と書きますね。カトリック教会ではマリアが天に挙げられたということで、「被昇天」と使い分けますね。教会では、死は、体が滅びても、たましいが神様のもとに帰ると考えます。
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。