聖書の言葉 ヨハネ 14:15~21
15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
説教 「『さようなら』と『Good-bye』の違い」 徳弘浩隆牧師
1,突然のお別れ…
今日の聖書は、先週の聖書箇所に続いて、イエス様がお別れについて話されているところです。人生には出会いと別れがあります。予定していたお別れと、そうではない突然のお別れもあります。
私もそれを先週考えさせられました。
一つは、私の父のことです。一昨年母が倒れて、後遺症が残り家での生活がむつかしくなったので老人施設に入りましたが、一人暮らしが続き父も認知症が進み難しいことが増えてきたので入院しています。先日東京で全国総会の折に病棟から電話が何度もあり、父が吐血したけれど今後どうするかという問い合わせがありました。父の意向と、それを理解した私たちの考えで、認知症もさらに進み老衰に近いくらいに弱くなったらもう、延命措置はしないで送ってあげるよう、書類にサインしていました。そんなこともあったので、他の病院で検査入院したり手術をしたりするかこのまま過ごすかという問い合わせでした。私は戸惑いました。もっと先の話なら無理をさせないようにと思っていましたが、こんなに早くそれを判断する日が来るとは、と思ったのです。まだ、入院したばかりだし、孫の結婚も決まりかけているタイミングで、まだ少し待ってほしいと思いました。それで、吐血後一週間近く絶食して点滴だけでしたが、ようやく検査の予約も取れたので、親族の立ち合いと判断がいるからといわれ、急ぎ行ってきました。一日かけた検査の結果、まだ急を要する状態ではないのでと、元の病院に戻ることができました。
もう一つは、教会メンバーの急なお別れです。私が父のもとに新幹線で向かう途中に電話があり、「母が急に倒れてなくなり増した」ということでした。教会の古くからのメンバーで、元気に教会に通い続け、この日曜日もオルガンを弾いてくれる予定でした。先日も教会の片づけを遅くまで手伝ってくれ、「じゃ、また来週ね」と大きな声であいさつをして、別れたばかりの方。あっという間に旅立ってしまい、私も名古屋へ帰った後、そのままご遺族とお話やお祈りをし、また葬儀の最終の打ち合わせをしました。昨日、告別式をして、お別れしてきたところです。
先週私はこれら二つのことに出会い、お別れについてしみじみと考えさせられました。
今日の聖書は、イエス様がやがて来る十字架と、お別れについて弟子たちに話しているところです。どんなことをイエス様は言い残されたのでしょうか?聖書から一緒に聞いていきましょう。
2,聖書
イエスさまと弟子たちのお別れは、突然のことではなく、前もっていろいろと説明をされていました。しかし、その意味が分かりにくくて、あまりにも彼らの期待とも違っていて、予告されてはいたけれども、戸惑い、理解できないものでもありました。
私たちはもう知っていますが、それは、人々や弟子たちさえも期待していたように、イエス様が国を立て直すために王様のように君臨していくのではなくて、人々から裏切られ、捕らえられ、十字架に掛けられて死んでいくというものでした。
苦難の道をイエス様は何度も予言されていましたが、そうあっては欲しくないという気持ちもあってか、弟子たちはそれを理解していませんでした。
そんな彼らに、イエス様は予告しました。私が行く道をあなた方は知っている。その道によらなければ、あなた方は救われることができないし、神様のもとに行くことができないのだ、と。先週の聖書の個所で、「私は道であり真理であり命である」、と言われたのです。
それに続いて、今日の話では、「お別れになるけれども、決して『みなしご』のようにはしておかない」と、「自分が不在になった後には、神様が聖霊を送ってくださり、いつも守り導いてくれる」と、約束されているのです。
「別の弁護者」、つまり別の助け手を送ることを約束されました。有名なので何度かお聞きになったことがある言葉かもしれませんが、日本語の翻訳は「弁護者」という訳ですが、ギリシャ語はパラクレートスといい、その直訳は「助ける人」という意味です。最近の分かりやすい言葉への翻訳では「助け手」であり、英語では「Helper」とさえになっています。このヘルパーさんは、永遠にあなた方と一緒にいてくれる真理の霊であり、その霊の中にあなたはいるし、あなたの中にこの霊はいてくれるのだ、と約束されました。
3,振り返り
私たちは、お別れの際に、どんな言葉を使うでしょうか?今日の説教題は、「『さようなら』と『Good-bye』の違い」となっていますが、その辺に今日の聖書のメッセージがあると思わされました。
外国語を勉強するときに、英語ではグッドバイだ、と教えられます。しかしその深い意味はあまり考えません。そもそも、日本語で、「さよなら」の意味も、私たちはあまり考えずにもうそれぞれ、数十年使っています。私も外国語をいくつか学び、日本語を外国の方に教えるようになって気づかされることがたくさんあります。
「さようなら」の語源はこうです。古い日本語で、「さよう」という言葉があります。そのようにという言う意味ですね。「さよう・なら」というのは、「そのようなことだったら」という意味です。つまり、「別れたくないのだけれど、どうしても行かないといけない。そのようなことだったら、仕方がない。しばしお別れです。お元気でお過ごしくださいね」というような、名残惜しさを何とか受け入れる意味の言葉でした。
それに対してグッドバイは、いくつかの説があるともいわれますが一番有力で有名な理由はこうです。〔16世紀の終わりに、"God be with you."に当たる"God be with ye."の省略形であるgodbwyeから。〕つまり、神様が一緒にいてくださるように。という言葉でした。
スペイン語やポルトガル語では、AdiósやAdeusといいますが、これは、aという、~へという言葉と、神様という意味のDiosやDeusが一緒になった言葉です。「神様へ」という意味で、「あなたを神様にお任せしましたよ」という神様の守りや運命にお任せする祈りの言葉から来ているそうです。
イエス様の弟子たちへのお別れの言葉は、さようならのように名残惜しさを伝えるだけではなく、神様がいつも一緒にいてくれる、神様にすべてをお任せするよ、という意味、それぞれが含まれているように味わうことができるのです。
4,勧め
私たちもイエス様のその言葉の意味を味わいましょう。そしてそれは、ただ、味わうだけではなくて、そこに込められた意味を生きることが大切です。
どんなことがあっても、神様がともにいてくださる。神様の御心にお任せする。そして、その真理の霊が助けてくれる、つまり、聖霊が送られることをも意味しています。
私たちは、それらを受け入れ、信じて、神様の霊とともに、神を愛し、人を愛する生き方をしていくことを始めました。それが、洗礼を受けて新しくされるということです。そんな生き方を大切にして、教会で一緒に生きていきましょう。
牧師コラム 各国語での別れの言葉は…
ついでにいくつか、それぞれのもともとの意味を調べてみませんか?
英語でグッバイ/GoodBye。スペイン語でアディオス/Adiós、ドイツ語でアウフ・ヴィーダーセーエン/Auf Wiedersehen、フランス語でオゥ・ホゥヴァア/Au revoir、イタリア語でアリヴェデルチ/Arrivederci、中国語(北京語)でツァイジェン/再见、アラビア語でマアッサラーマ/مَعَ ٱلسَّلَامَةِ (「平安とともに」という意)、ギリシャ語でヤーサス/ειά σας(「健康に」という意)、ポルトガル語でチャォウ/Tchau、インドネシア語でスラマッ ティンガル/selamat tinggal
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