2022年7月31日日曜日

説教メッセージ 20220731

聖書の言葉 ルカ12:13~21 (新131)

12: 13群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 14イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 15そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」 16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 17金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 18やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 21自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」


説教「本当の豊かさ、財産か神の前にか」徳弘牧師

1.蝉の声で目が覚めて

週に何度かは高蔵寺教会の牧師館で寝泊まりをして、集会の準備や牧師館の修理などをしていますが、この時期、近隣の大木から響いてくる蝉の声で目が覚めます。「今日も暑いぞー」と言わんばかりに、たたき起こされるという感じで、夏を感じます。

そしてその蝉の声を聞きながら思い出すのが、「アリとキリギリス」の物語です。アリとキリギリスは有名なイソップの寓話ですが、「蝉は出てこないのにどうして?」と思われるかもしれません。実は、「アリとキリギリス」の物語は、オリジナルのイソップ寓話集では「キリギリス」ではなくて「蝉」だったという話をブラジルで聞いて驚いたのを覚えているからです。紀元前6世紀の歴史家ヘロドトスの書物に紹介されているアイソーポスという人の寓話集が現在のイソップ寓話集として伝えられてきたもので、メソポタミヤや小アジアの民話も含まれているそうです。そして、このアリとキリギリスはアリとセミだったけれど、蝉は熱帯・亜熱帯、そしてギリシャにはいたのですが、ヨーロッパ北部に伝えられる際になじみがない生き物なので、キリギリスに置き換えて翻訳し、それが世界や日本にも広がっているそうです。実際英語の国では「ありとバッタ」ですが、ブラジルでは「アリとセミ」だったので驚いたのを覚えています。

さて、雑学はそのくらいにして、この寓話が教えるのは、「夏の間せっせと働いて食料を蓄えていたアリと、歌ってばかりいたセミの生き方の対比」でした。もともとは「セミが冬に食べ物が無くてアリに分けてくれるよう頼むのですが、断れられて死んでしまう」というちょっと残酷なものでした。それが伝えられる中で改変されて、もっと憐みの心をもってアリが食べ物を分けてあげたとか、キリギリス(セミ)がお礼に演奏をしたとか、そういう話もあるという事です。

今日の聖書は、やはり、食糧を備蓄した人の話ですが、その人の生き方は、神様の目から見てどうだったのでしょうか?聖書に聞いていきましょう。

2.聖書

今日の聖書の話は、群衆の一人から遺産分けのトラブルを解決してもらおうと、イエス様にお願いに来た人への答えから話が発展して、この世の財産に執着する生き方をする私たちへのイエス様のたとえ話での教えです。

まずイエス様は、神様の話ではなくて、遺産分けのトラブルの仲裁を頼まれたことに驚き、あきれられるのですが、実はユダヤ教の教師にはこの世の問題の調停も仕事の一つでしたから、イエス様がそのように人々に尊敬され期待されていたという風に見ることもできるでしょう。

しかしイエス様は、その願いに応じずに、この言葉をきっかけにして、人間の貪欲そのものについて諭されました。「むさぼり」の罪は十戒でも戒められており、お金や財産を神様以上に求め心を置くことは偶像礼拝と同じであると戒められているので、そのように指摘されます。

それからさらにたとえ話をされました。畑が豊作になったお金持ちの、悩みと、解決策、そして希望と絶望です。これはたとえ話を呼んでその通りです。

どれほどこの世で財産を蓄えても、それは何の安心と助けにもならず、人の命はそれで伸ばすこともできない。自分のために富を積まず、神の前に豊かになることが大切だ、と教えられました。

3.振り返り

さて、どうでしょう。私たちは、何の計画もなく、その日暮らしをすることが良いという簡単な結論を得てはいけません。

事実、旧約聖書では、神様の恵みで王の夢を解いたヨセフは、豊作と飢饉の将来を知り、蔵に蓄えて多くの人々を救いました。飢饉に苦しむ他国の民をも救うことになり、現代風に言えば「食糧難民」としてエジプトに流入した自分の兄弟と再会し、ユダヤ民族を助け、のちの歴史を作ることにもなったのです。

では今日のイエス様の教えはどのように聞くことが正しいのでしょうか。それは、「この金持ちの生き方の中に、神様がいなかった」という事でしょう。

同じ豊作と飢饉でもヨセフの時には神様の計画と導きで人々は救われるという不思議な出来事でした。しかし今日の金持ちは、まず豊作で悩みました。「こんなにたくさんどこに蓄えよう、倉庫は足りないぞ」と。しかし、解決策はありました。今の倉庫を壊して大きなものを作るということでした。これで一安心、これから先何年も生きていける。食べたり飲んだりして楽しもうと、思ったのです。しかしそれはなんと浅はかな計画でした。その命を与え支えてくださる神様のことは、彼の頭にはなかったからです。

 教訓はこれらのことです。

1)「貧乏をしていたらお金が足りないことだけが悩みだけど、お金持ちになったら悩みはお金ではなくなって、悩み事が増える」と先日会いに来てくれたブラジル移民で農業をしてこられた方が言われたのを思い出します。

2)食糧備蓄をして一安心してもよいでしょうが、命を支え守ってくださる神様を何よりも大切にしないと、命が取られたら何にもならないという事。

3)私たちを活かすのは、食糧でも財産でもなく、神様だという事を覚えて、神様とともに生きる豊かさを大切にしましょう。

4.勧め

最後に、少し、アリとセミの話に戻りましょう。実はこの話にはもう一つの、落としどころがあります。わざとかどうかはわかりませんが、考えさせられる事実があるのです。

それは、「そもそも、セミは冬まで生きてはいけない生き物だった」ということです。冬になってセミが、あるいはキリギリスが食料が無くておなかがすいてアリに頼み込むという事が起こる前に、寿命で死ぬものだったという事です。実に衝撃的なことです。

それに気づくときに、私たちが、鳥越苦労をしたり、反対にこれで何十年大丈夫だと安心するのは、命を支配しておられる神様を抜きに考えるならなんと愚かなことかと、考えさせられます。

神様を大切に生き、本当の意味で生かされることをイエス様は教えられます。むなしいものを追いかけたり、むなしいものをため込んで安心するのではなくて、神様を根拠にして安心して生きていきましょう。

人との関係でも悩みや摩擦も多い社会です。しかし、人の評価や人の目ではなくて、神様とともにある自分を生きていきましょう。

私たちが安心して生きていける根拠はどこにあるでしょうか?貯金通帳でしょうか、自分を支持して理解してくれるこの世の友人の数でしょうか?確かにそれらがないと心配で生きていきにくいものです。しかし、もっと大切な、神様と神様の家族の本当の交流を大切にしていきましょう。そのとき、 「生きている」のではなくて、「生かされている」ことに気づかされます。そこに「本当の豊かさ」があるという事です。祝福をお祈りいたします。

 

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教会の風景「十字架のもと」 

先週近所の高校生が研究授業の一環でと、先生たちと復活教会を見学に来られた折に教会内の案内をし、二階の牧師室から十字架の「心柱」をお見せしました。「外から見たあの緑色の十字架の塔のその柱の下に今いるんですよ。ここで仕事をしています」とお話ししながら、「すごいところにいるものだなぁ」と我ながら思いを新たにしました。

ブラジルにも紹介しました。2か月に一度ほど、日本語の礼拝説教をビデオ収録してブラジルの他教派の教会にお送りしています。インターネットのトラブルを避けるために、その日のために彼らのために話しかける説教を収録し、ブラジルでは200人くらいの方が見て一緒に礼拝してくださいます。今回はこの牧師室で収録し、上の柱もご覧に入れました(左写真)。

そんな時、思い出す讃美歌があります。「十字架のもとぞ いとやすけき…」という讃美歌です。十字架こそ、神様の義(正しさ)と愛が交錯するところ。自らを犠牲にして人を赦し愛された、神様を見上げながら、そこで安心して生きていきたいと思わされます。こんな讃美歌です。

1. 十字架のもとぞ いとやすけき、 神の義と愛の あえるところ、 あらしふく時の いわおのかげ、 荒野のなかなる わが隠れ家。

2. 十字架のうえに われはあおぐ、 わがため悩める 神の御子を。 妙にもとうとき かみの愛よ、 底いも知られぬ ひとの罪よ。

3. 十字架のかげに われは立ちて、 み顔のひかりを たえず求めん、 この世のものみな 消ゆるときも、 くすしく輝く そのひかりを。

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