今週の聖書の言葉 ルカ10:25~37 (新126)
10: 25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
説教「隣人であると、隣人になるの違い」 徳弘浩隆牧師
1.シェマ・イスラエル
今私たちの教会の聖書研究会では、聖書やその難しい言葉ばかりでなくて、YouTubeやVideoドラマも少し見ながら学んでいます。聖書やその言語の解説も大切で、それがあってこその聖書理解が深まるわけですが、私は全体像や周辺の歴史や今の生き方につながる学びが好きで、ここ数年そのように進めています。映像の力も借りてイメージを膨らませて、イスラエルの今のホームドラマを見てユダヤ人やユダヤ教の生活やあり方をもっと身近に垣間見ることもできますし、それが私たちの今の信仰を見つめる良い機会にもなると思っています。
そんななか、Six13というアメリカのユダヤ教青年たちの歌やビデオも見てみました。きれいな歌声ととともに、面白くわかりやすく替え歌を作り、こどもも分かるようなビデオクリップを作ってユダヤ教を学ぶこともできて、とても印象深いグループです。このSix13というグループ名も、613という事ですから、聖書の律法が613あるといわれますので、そんな意味も込めているのでしょう。先日聞いた歌は「シェマ・イスラエル」という歌でした。申命記6章4節のユダヤ人が暗唱し、私たちクリスチャンで言えば、主の祈りや使徒信条のようなもので、朝夕の祈りの時に唱える大切な言葉です。礼拝では一緒に聞いてみようと思いますが、Youtubeでは次のところや右のQRコードから聴くことができます。https://youtu.be/F9y2jmH9DtI
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という言葉です。これが今日の聖書朗読では、その繰り返しともいえる申命記30章に、そして福音書での問答にも出てきました。イエス様と律法の専門家の問答から私たちがどう生きるべきかを、一緒に聞いていきましょう。
2.聖書
今日の出来事は、先週の続きの場所です。弟子の72人を二人の組にして派遣し、帰ってきて報告を聞きます。先々週と違って今回はイエス様の名を出すだけで悪霊たちが屈服したと、弟子たちは喜んで帰ってきました。イエス様は、自分たちの力だと思いあがって喜ばないようにと諭し、神様の力によるものだし、救われて天に名前が記されていることを喜ぶように、教えられました。
その続きで、イエス様は律法の専門家からいじわるで難しい質問を受けます。律法をよく知っている彼らからすれば、イエス様の弟子たちは元・漁師や徴税人、政治活動家などで「何も知らない」人たちです。「律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った」とあります。
難しい質問はこうでした。「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」 。弟子たちの名が天に記されている」という事を聞いて、「どうしたらそれを得ることができるか?」という質問ととることができます。それに対してイエス様は聞き返します。「律法には何と書いてあるか」と。律法の専門家なら、知っているはずだがあなたの考えはどうか?と聞き返されたのです。すると、彼は律法から2つの個所を引用して、模範解答をします。
一つは先ほどのシェマ・イスラエルの祈りの言葉。申命記6章4節でした。そして、それだけではなく、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉も忘れずに付け加えています。これは、レビ記の19章18節からです。この言葉です。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」
「神を敬い愛し、人を愛すること」を持ち出した模範回答でした。それに対してイエス様は、「正しい答えだ。それを実行しなさい」と言われますが、そんなことはしていますとばかりに、隣人の定義についてイエス様に切り返して質問します。それに対しての説明でたとえ話をされたのが、今日の「よきサマリア人のたとえ」でした。
これは、わかりやすいたとえ話で、その通りです。一人の強盗に襲われて道に倒れる人と、通りかかった3人のそれぞれの対応についてです。3人とは、祭司、レビ人、そしてサマリア人でした。祭司は宗教指導者で私たちでは神父や牧師といえるでしょう。レビ人はユダヤ教では祭司職になれる家柄として選ばれた家系の人です。彼らはそれぞれもっともらしい理由があり、無視して通り過ぎました。しかし、3人目のサマリア人は手厚い看護をしたというのです。
イエス様は、律法に詳しい彼に問いました。「この3人の中で誰が隣人になったと思うか?」と。彼は答えます。「助けた人です」と。それに対して「いって、あなたも同じようにしなさい」とイエス様はお答えになり問答は終わりました。
3.振り返り
有名な「よきサマリヤ人のたとえ」ですし、いまでもその名前を付けた福祉施設が世界中にたくさんあります。イエス様の教えをその通りに生きようとしているのです。しかし、文化の違う私たちが見落としてはならないことがあります。「サマリヤ人は宗教的に良い人ではない」という前提があったという事です。イスラエルが南北に分裂して北イスラエルはエルサレムとは別に神殿を勝手に建て、その後はアッシリアに占領され民族も宗教も混合していました。ユダヤ教の「亜流」で、軽蔑されていたのです。宗教的にはさげすまれ、悪い人たちと思われていたのがサマリア人。だから、「良き」サマリア人という言葉に、大きな矛盾が含まれているのです。「人助けをした殺人犯」とか「お金をあげた泥棒」とでもいえる、相反する2つのものが同居している言葉であり、そこにこそ、予想外であり、また律法を知り守っていると傲慢になっていた律法の専門家の鼻をくじき、悔い改めさせるたとえ話だったのです。
4.勧め
隣人であるという事と、隣人になる、という事は違います。隣人であるというのは、隣にいる、近所の人という物理的な関係かもしれません。しかし、イエス様の問われた「誰が隣人になったと思うか?」は、物理的なことでも、知的なことでもなく、理解とそれに基づく行動が問われています。
さて、私はどうでしょうか?誰の助けになっているだろうか?誰に助けてもらっただろうかを、考えましょう。
聖書を読み、どう生きるか、それが大切です。病気や戦争、悲しい殺人事件、頭も心も追いつかないことがたくさん起こる社会ですが、変わらないイエスの愛と教えを、心において生きていきましょう。そこから、平和と愛の人生、社会、世界が始まるのです。祝福を祈ります。
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ルーテル教会のイベント紹介
教会は聖書を学んで祈るところですが、社会のための奉仕や文化活動なども行っています。むつかしいことの多い世の中、安心して集まって、おしゃべりできるところでもあります。ふたつの教会のイベントを紹介します。
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