2022年7月17日日曜日

説教メッセージ20220717

 聖書の言葉 

ルカ10:38~42 (新127)

10: 38一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 40マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

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説教「難しい世の中、ただ一つ必要なこと」 徳弘浩隆牧師

1.ああ!やることがいっぱい!

やるべきことが山ほどあって、何から手を付けていいかわからない時があります。締め切りに追われ、目の前の行事の準備もしないといけない。それは、私だけではなくて、誰にもあることでしょう。サラリーマンも、主婦も、学生も、こどもだって、忙しい世の中です。

忙しい中仕事を片付けないといけない時、まず机の上を片付けないと取り掛かれないので、机の上の片づけからとりかかり、ついでにもっときれいにしようと部屋の片づけを始めてしまう友人がいます。「ずいぶんきれいに片付いたと満足するときはもう時間がたってしまい、肝心の締め切り前の仕事がもっと遅くなった」とぼやいています。一番大切なものはわかっているのに、心のどこかで逃げていたのかもしれませんね。

やるべきことがいっぱいある今の世の中、いやそれに加えて、病気や戦争や悲しい事件が続き、心乱れることが多い世の中です。何が今一番大切か、今まで以上に考えないといけない時代になりました。聖書に聞いていきましょう。

2.聖書

今日の出来事は、先週の「良きサマリヤ人のたとえ」に続いて聖書にしるされています。何が大切な教えかという質問と、「神を愛し隣人を愛する」という模範解答を出した律法の専門家でしたが、知っているだけで何もしていないということと、「隣人」をえり好みしていたということを悔い改めさせられました。律法の専門家とサマリア人が対照的でした。

今日はマルタと、イエス様の足元に座り込んで教えを聞いているマリアの対照的な姿があります。

つまり、神の言葉を学んでいるけれど何もしない律法の専門家と旅人のもてなしをせず座って学んでいるだけのマリア、宗教的には亜流で正しい教えを知らないとされるけれど善い行いをしたサマリア人とイエス様を甲斐甲斐しくもてなし食事の準備をするマルタは似たもののように見えます。イエス様は今日のところでは、よく奉仕し働く側ではなくて、何もせずに学んでいる人を褒めたように見えます。それでは、先週褒めた人と、今週褒める人が真逆だということになりかねません。イエス様の真意はどこにあったのでしょうか?

困っている人を助ける奉仕の働きと、旅人をもてなすということは相通じる大切な教えでした。それを実行していたマルタでした。ですから、それは問題がなく、称賛されるべきことだったのです。しかし、そこに、今何が一番大切か、その行動をする心の中心に何があったかということを考えてみましょう。

「せわしく立ち働いていた」と訳されている言葉が初めのヒントでしょう。これは、「まわりを掘り返す」という言葉から来ているそうです。そこから比喩で「注意をそらす」「本来の中心から引き離されて、気が散っている」という状態を表します。つまり、たいせつな働き、旅人をもてなし、人に奉仕する行動をしていても、愛の行動ではなくて、周辺的なことで気が散っているということかもしれません。それでは、意味がないということになります。

そんな状態であり、「マリアに何とか言ってやってくださいよ」とイエス様に申し立ててくるマルタに、親しげに二度もその名を呼び掛けて「たしなめる」のがイエス様でした。そして指摘されます。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と。そのうえで、「必要なことはただ一つであり、マリアはそれを選んだのだから、取り上げてはならない」と、言われたのです。

み言葉を大切に学ぶ姿勢と、それに基づいて人に奉仕をする姿勢、その両方が大切であり、片方が抜け落ちていたり形式的であったなら、それはいけないと、イエス様の声を聴くことができます。

ある意味、良きサマリア人のたとえの後にこの話が出てくるルカによる福音書は、バランスを取り、その両方が大切と私たちに教え、問いかけているのです。

3.振り返り

私たちそれぞれの生き方はどうでしょうか?家庭や社会、そして教会での生き方はどうでしょうか?

学びに集中すること、活動に出かけること両方あるでしょう。神を愛することと、人を愛することは旧約聖書から教えられていました。その両方が大切であり、バランスも大切でした。’「神の言葉を大切に学ぶことと、人のためにと行動をすること」も、「神を愛することと、人を愛すること」の両面につながる事柄でしょう。

自分の生き方はどうでしょうか?どちらでしょうか?自分はその二つの中で、こちら側に重きを置いているというそれぞれの立場や、ありようがあるかもしれません。教会では、それぞれ両方の立場に互いに尊敬を払い、バランスをとることも大切でしょう。そして自分自身の中でも、それらの二つの側面のバランスをとることが大切でしょう。そして何よりも、神を愛してみ言葉を学ぶだけや、社会や人のために奉仕や活動をするけれど正義感や怒りだけでやるようになって、大切な愛の心を見失ってはいけません。

4.勧め

さて、今日の週報でも案内していますが、8月には教区の青年会の集まりがあります。昔よりメンバーが減ってきて寂しいところですが、後輩の牧師先生が地道に集まりを続けてきてくれています。私がお世話している日本に住む外国人メンバーも教会に通い、Zoomの青年会にも参加してくれています。8月の集会のポスターを作るのは私の係でした。前作ったポスターが素敵だったとほめられ、うまい具合に?私に依頼されたのです。ようやく金曜日に作って教区内の教会にお届けしました。コロナもあり、ワークキャンプでどこかの教会のペンキ塗りとか草刈とかいう奉仕も、その後のバーベキューもあきらめ、サンドイッチ・パーティーとなったそうです。ポスターを作る構想を練りながら思いました。「人生もサンドイッチか?」と。いろいろなものの板挟みで疲れてしまう事があるからです。仕事、人間づきあい、家族、感染症対策、戦争のニュース、そして教会の行事に奉仕…、時には疲れて倒れるときもあるかもしれません。でも、見方を変えると、自分の人生は、神様とこの社会を結ぶその真ん中にはさまれていて、いい意味でのサンドイッチになればいいんじゃないかなと。片方の手を神様に、そしてもう片方を誰かに繋いでいるなら、ジレンマではなくて、ミッションになります。神様とだけ繋いでもいけませんし、人とだけ繋いでいてもいけません。サンドイッチを作っていただきながら、そんなことを伝えようと、思いました。

さて、私たちも今日の聖書の話で、マリアかマルタかと迷ったりするのではなくて、「神様のサンドイッチ」の生き方始めましょう。心騒がせ、心を痛めることがたくさんある世の中ですが、神様と共にいきましょう。祝福を祈ります。

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教会と社会の未来のために

 教会は日曜の礼拝以外にも、いくつかの集会があります。世代も老若男女様々です。お互いに、自分の仕事や地域の付き合いだけでは会わないような方にも出会い、学びや刺激もあります。戦後若者が教会に殺到し、大きな山はそのまま現在ご高齢の方が多い傾向はあります。

どの世代も大切ですが、子供や若者は将来の教会だけではなく、社会や世界を考えてもそのケアや育成は大切です。

 教会では子供へのメッセージや教会学校、青年会などもあります。全国の教会でもTNG(The Next Generations)プロジェクトという次世代育成の教材や企画があります。教区や全国での小学校高学年のこどもキャンプ、中高生のTeens Camp、メルマガ、青年会、青年の海外でのボランティア・ワークキャンプはアメリカやインド、カンボジアでやってきました。実は徳弘牧師夫妻はこのTNG立ち上げや海外ワークキャンプ企画作りも参加してきました。そして今は日本在住の外国人労働者への企画もしていますし、そこでのボランティアもあります。ルーテル教会は世界にチャンネルがありますし、国内には教会に加えて、保育園・幼稚園から学校、養護施設、老人施設や墓地もあり、まさに「ゆりかごから墓場まで」(いや、天国まで)人生のすべてを支え、応援するのが教会ともいえます。どうぞ、ご活用ください。教区の夏の青年会のDay Campも8月です。お声掛けください。



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