2021年12月12日日曜日

週報・説教メッセージ 2021212

 





聖書の言葉 

ルカ3: 7~18 (新105)

3: 7そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 8悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 9斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」 10そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。 11ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。 12徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。 13ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。 14兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。

15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」 18ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。


説教「では、どうすれば?」 徳弘師

1. 現金か、クーポンか、どちらでも?…

日本の総理大臣の名前は外国人にはあまり覚えられていません。それは、短い間に良く変わるからだということもあるでしょう。しかし、私が日本語を教えたり支援をしている外国人メンバーが、例外的によく覚えている総理大臣が一人います。「よく覚えているねぇ、すごいねぇ。どうして覚えているの?」と聞くとその答えに驚き、笑ってしまいます。「あ、あの人は10万円くれましたから」という答えでした。なるほど、そうか。そりゃ覚えられるだろうなぁ、と思いました。

今のニュースはどうでしょうか?似た話がありますが、現金とクーポンが原則だけど、事情によっては現金でも…と歯切れが悪く、地方自治体の困惑が分かります。「いったい、どうすればいいんですか?」という気持ちでしょう。

2.聖書を学びましょう

今日の聖書にも、似た問いが出てきます。「では、私たちはどうすればよいのですか?」と。これは、メシアが来る前に人々に準備をさせるための説教への問いとして、群衆の中から出された問いです。神様から送られる救世主・メシア。しかし、その方に出会う前の準備をする人が現れると、預言の通り、一人の男が現れました。それがヨハネです。「私たちはアブラハムの子孫だから」という自負心を持っていたユダヤ人たちに、彼は厳しく迫りました。「差し迫った神の怒りを免れることはできない。自分たちはアブラハムの子孫で神様に選ばれた民だというような傲慢な考えは捨てよ」というのです。「今の生き方でよいのか。ふさわしくなければすぐにでも裁かれ、滅ぼされてしまうぞ」と人々に迫りました。「では、どうすればよいのですか?」と群衆が彼に尋ねました。その答え、その意味するところを私たちはしっかり聞いて行かねばなりません。

私たちも今、クリスマスの準備をしているからです。つまり、メシア・キリストを迎えようとしているのですが、大丈夫か?と言われているように響くからです。「クリスマス気分で浮かれていてはいけないぞ」という風にも、私たち一人一人に迫ってきます。「今のままじゃいけない。クリスマスに、メシア・キリストが生まれたら、喜ぶ側ではなくて、滅ぼされてしまう側になるかもしれないぞ!」と言われているのと同じです。

「さて、私は、どうしたらいいのでしょうか?」

それに対する洗礼者ヨハネの言葉は、こうでした。「下着を二枚持っているものは一枚も持たないものに、わけれやれ。食べ物も同じだ」と。そして徴税人には「規定以上取り立てないよう」、兵士には「金をゆすり取ったりだましたりせず、自分の給料で満足せよ」と、いかにも具体的な返事でした。

3.振り返り

さて、それを聞いて私たちも思います。「では、その時の群衆でも徴税人でも兵士でもない、今のこの自分はどうしたら良いのでしょうか?」と。

私たちはその具体的な言葉にもですが、その前のヨハネの言葉に耳を傾けねばなりません。それはこうでした。「悔い改めにふさわしい実を結べ」でした。

「悔い改めよ」という言葉を聞いて、「一生懸命に神様にお詫びして、悔いること」と「精神的な事」を考えがちです。しかし、日本語の「悔い改める」という翻訳の言葉は、誤解を招きがちな言葉です。既に聞かれた方も多いでしょうが、「悔い改め」はギリシャ語の聖書では「メタノイア」ということ言葉から訳されています。この意味をもう一度考えましょう。それは、インターネットでも探すことができますが、ある株式会社の名前で、その説明にこうあります。

「メタノイア( meta・noia /μετανοια )」は、古いギリシャ語を起源とする語で、「meta-」は英語の「after(~の後で)」「beyond(~を超えて)」、「-noia」は「nous(知性、理性、精神)」から派生したそうです。つまり「判断の枠組」(nous)を「超える」(meta-)ということで、「視座の転換」を意味する言葉となります。わたしたちは「心のあり方が転換することで、物事の捉え方・見え方が変わり、生き方の方向が転換していくこと。自己変容すること」と捉えています。自己変容・自己変革につながる根本的な認識の転換(メタノイア)のお手伝いを通じて、人と人、組織、社会、自然との関係が、愛情あふれる調和の関係に至るためのお役に立ちたいという願いを込めて社名としました。

なんと明快な説明でしょうか。キリスト教主義の会社ではなく、人材開発や研修、コンサルティングの会社のようです。「視座の転換」それは、見方を変えること。そして生き方が変わり、自己変容・自己改革をすることです。私たちの信仰生活はどうでしょうか?

 「信仰が足りない」「人が許せない」「人が愛せない」「人にひどいことをしてしまった、いつもこうだ」とクヨクヨとし、座り込んで祈り、お詫びするばかりの生活なら、それはお門違いかもしれません。神様はそれだけを願ってはいません。キリストに会う前に、自分を見つめ直し、間違えがあればお詫びはしますが、その後の「ものの見方を変えて、生き方の方向を転換し、自己変容すること」です。このアクションプランともいえる生き方が必要なのです。

4. 勧め 

クヨクヨするのをやめましょう。ついでに考えると、新約聖書のギリシャ語の「罪」というギリシャ語は「まとに当たらない」という意味も持つ言葉から来ています。一生懸命頑張っていても、まとに当たらねば意味がありません。一生懸命お詫びして、自分に絶望するだけではなくて、少し方向を変えてみることでうまくいくかもしれません。まとに当たらなければ、視座を変えて再挑戦するだけで、まとに当たるようになるかもしれません。

 メタノイア、変えるべきものの見方は、神様を真ん中に置いた見方です。自分の物の見方を変え、方向を修正する生活。それに取り組んでいましょう。新しい自分に会えるはずです。そんなクリスマスを迎えましょう。


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