2021年11月20日土曜日

週報20211121

 今週の週報はPDFで以下のリンクからダウンロードできます。

出張先からですから、画像がなくすみません。

https://1drv.ms/b/s!AiBbhZedIrv7mZ5GtZguV4xDfFNy4w


メッセージは以下のとおりです。

今週の聖書の言葉 ヨハネ18:33~37 (新205)

18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。

34イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」 35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」 37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

説教「この世に属さない国の王」 徳弘師

1. 王様って日本にはいないし…?

聖書には、「王様」やローマ「皇帝」が登場します。

日本で聖書を読むと、王様というと金色の王冠をかぶっているイメージ。これらは外国の話で、「日本には皇帝や王様っていないし、そんな人が宗教を迫害したこともないしなぁ」と多くの人が思います。そして、キリスト教というものを、良い意味でも悪い意味でも「遠い外国起源の宗教」と思い、しかもヨーロッパやアメリカ起源と勘違いもし、憧れたり、逆に距離を感じたりします。しかしこれは大きな誤りです。

私は外国語や比較文化が好きでしたから、それぞれの言葉や文化をいわば「翻訳」して、自分の世界や現代の世界に置き換えて考えることが好きです。

その方法で考えると、いや、そうではなくても外国語での表記では、日本にも「王様」がいましたし「皇帝」は今でもいます。日本の殿様は王様でもありました。それら殿様の上にいる天皇は、王たちが治めるいくつかの王国の上にいる「王の王」である皇帝と同じです。外国語では日本の天皇のことをエンペラーといいますし、「日王」と表現する国もあります。また、信長やのちの幕府の時代にも、キリスト教弾圧もありましたが、それら「王様」による仏教などの弾圧もありました。このようにして、自分の言葉や文化のなかでも頭の中で置き換えて比較しながら聖書を読んでみると、遠い国の話ではなく、自分のいる国の歴史や、今起こっている現代の出来事とも、聖書は密接であり、同じような歴史を繰り返しているとも言えます。やりすぎない程度にではありますが、「そんな目」でも、聖書を読んでみると楽しくもあります。

2.聖書を学びましょう

今日は教会のカレンダーの中では一年の最後の日曜日です。来週から、新しい年の初めとしてのクリスマスを迎える準備をしながらの別の年が始まります。それぞれの一年は、こうなっています。マタイ、マルコ、ルカの福音書を一つずつ毎年読みながらクリスマスを迎える準備、そして神が人となってこの世に降ってこられたクリスマス、その後のイエス様のご生涯をその教えや出来事ともに過ごし、十字架から復活、聖霊降臨と読んでいきます。三位一体主日の後は、上記期間の中で読み切れなかったイエス様の教えを読んでいき、一年の終わりには、この世の終わり「終末」の預言と私たち自身の人生の終わりや天国を望み見ながら一年が終わっていくという流れです。その最後の日曜日は「王であるキリストの日」とされ、上記の不思議な出来事で私たちの罪を赦し新しい永遠の命をくださった「王であり大祭司である」キリストを見上げ、神様の救いの出来事の完成を見つめるときでもあります。

そういうわけで、今日はヨハネの福音書からピラトとイエス様の「王」に関する問答が選ばれています。ピラトはローマ皇帝から支配をする属国ユダの国に送られた「総督」です。ユダの国にもその国で選ばれたヘロデのような「王様」はいましたが、傀儡政権のようでもあり、中に入って調整したり私腹を肥やしたりという面もあったようです。そこに、ユダヤ教の律法学者や祭司、大祭司たちが宗教指導者として力を持っていた、複雑な関係であり、ユダヤの民は苦しんでいました。そこで、聖書(旧約聖書)に予言されていた救世主・メシア(キリスト)を待ち望んでいたのです。

人々からそのメシアではないかと期待されたイエス様でしたが、彼らの期待通りに力強い王様となって国を支配し、異教の国ローマ帝国から解放してくれるかと思えばそうではなく、逮捕され裁判にかけられているというのが今日の舞台です。ピラトはイエス様を呼び出して問います。「お前がユダヤ人の王なのか」と。それに対して、イエス様は不思議な質問で返事をされます。「それは、あなたがそう思うのか?それとも誰から言っているからそう聞くのですか?」と。その返答と問答はややこしくなりますが、イエス様は自分では結局宣言をされませんでした。つまり、王様でありメシアであるとは自分では言われかったのです。そのうえで、「私の国はこの世には属していない」と言われます。この世の国や王様という概念やありかたとは違う王国なのだ、ということです。

ピラトはじれったくなったのでしょう、こう質問して畳みかけます。「それでは、やはり王なのか」と。それに対するイエス様の返事は、「それはあなたが言っていることだ」ですが、「その通り、あなたの言う通りだ」とも受け取れる微妙な返事でした。

これは、自分を「王」として公式に肯定すれば政治的な「反逆罪」として殺されていくことになるので聞く人に判断を任せるような言い回しだったと説明されます。しかし、それは不思議にも、私たちにも問いかけます。それをどうとらえ、どのように判断するのかが、私たちが生涯をかけて問い、生きる姿勢でもあるからです。

3.振り返り

私たちも問いかけ、また問われています。「イエス様をどのようにとらえているか」と。イエス様をメシアと思っていても、「自分で思ったからか、みんながそう言っているからなのか」と。そして「あなたがメシアなのですか?」と問うと、「その通りだ」もしくは「それはあなたが言う言葉だ、あなたが考えなさい」と返事をもらっているのです。

世界中には、国はたくさんありますし、王様や皇帝はたくさんいました。日本にはないと思っていても、実は外国から見たら王様も皇帝もいました。それらがどのような争いをし、国づくりをし、治めてきたかも知っています。最近は日本の皇室の結婚話で持ちきりでした。うれしい話や、眉を顰める話もありました。しかし、救い主キリストが王というのは、これらとは違うレベルでの話です。そしてその常識もまるで違う王国です。

どう違うのでしょうか?キリストがもたらした神の国は、力で征服し、力で屈服させるのではなくて、「悔い改め」で人々の心を征服し、「愛」で屈服させるものでした。そのために、そのキリストという王は、みんなから大歓迎されて持ち上げられるのではなくて、疎まれ裏切られ捨てられました。しかし、それでもなお、本当の神様の愛をもって、祈りゆるした方でした。それゆえに、人々は悔い改めと愛で征服されたのです。

4. 勧め

 今日は、神様のご計画でこの方を通して成し遂げられた神様の救いを見届けて、一年を終えていく日です。どんな一年でしたか?私の人生の中にも、それは成し遂げられたでしょうか?まだ一週間あります。振り返り、悔い改めと感謝の日々を過ごしましょう。

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