2021年11月14日日曜日

週報・説教メッセージ20211114


聖書の言葉 マルコ13: 1~ 8 (新88)

13:1イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」 2イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

3イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。 4「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」 5イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 6わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。 7戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 8民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。


説教「石でなく人を、人でなく石を見る」 徳弘師

1.「石ではなく、生きた石を見てほしい」

ベツレヘムのルーテル教会のミトリ牧師と交流や学びをしましたが、全国から120名ほど参加されました。3回の聖書研究会もしましたが、最後はインターネット経由で直接、ベツレヘムの風景を見て、話も聞き、アラビア語の讃美歌も聞き、イエス様がお生まれになった場所からの学びと交流は興味深いものでした。現地の治安や通信環境の制限もあり、道端からの中継は計画していたものの実現せず、今一歩「訪問」という臨場感が出ずに残念でした。しかし、もしわたしも、「ブラジルのリオデジャネイロの街角でビデオカメラやすまーおフォンを使って中継をしてください」といわれると、「いや、治安が悪いからそれはできません」というかもしれません。そんなことで、少々計画通りの企画にはなり切れませんでしたから、お詫びしながらですが、次はもっと調整準備をして、何かコロナ禍の時代でもできる交流や学びができればと思っています。今日の私の十字架はその記念品です。ベツレヘムのオリーブの木で作られ、彼らの支援にもなるお土産です。

さて、このミトリ牧師がYouTubeでいろんな国で講演会をしたビデオがあるので(たいてい英語ですが)誰でも見ることができます。そして、彼が良く言う言葉はこうです。「ベツレヘムは遺跡の宝庫です。聖書にちなんだ石の建物がたくさんあります。しかし、年間何十万人とここを訪れる人たちは、その石を見ていくだけです。石を触り、これがあの時の建物か。この石畳をイエス様も歩いたのか、と感激します。しかし、その石だけを見るのではなくて、今この地に生きている『いける石』の現実を見てほしいのです」と。

今日の聖書の話はまさに、それを思い出す所です。

2.聖書を学びましょう

今日の聖書の個所は、十字架に向かっていく中で、やがて来る神様の審きをイエス様が語るところです。どんなにすばらしいこのユダヤ教の神殿も、崩されてしまう時が来る、と。それに対して、それはいつですか?と弟子達は問いますが、「人に惑わされないように。贋キリストが大勢現れ、戦争の騒ぎや噂を聞く。地震や飢饉がある」と説明されます。

黙示録にあるような、恐ろしい世の終わりについて預言がされているところで、ヨハネの黙示録に対して、イエス様自身のこれらの話は小さな黙示録・「小黙示録」と呼ばれるところです。

今の世の中も、地震や天変地異、大きな戦争や、今回の新しい感染症流行などを見ると、「いよいよ、世の終わりが来たか」と、頭をよぎることはあるかもしれません。ネットや週刊誌等でも騒がれます。

しかし、気を付けて聖書を読まねばなりません。「慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と説明されているからです。そして、これらすべての混乱は、「産みの苦しみのはじまりである」と結論付けられているのです。「終わり」ではなく「始まり」でもあるというのです。

3.振り返り

さて、これらの聖書の言葉を呼んで、どんな神様のメッセージを聞くことが大切でしょうか?産みの苦しみの後に来るものは何でしょうか?それは、新しいいのちの誕生、そして喜びです。世の終わりとして恐れられていることは、裁きの時であり、同時に救いの時であるということです。旧約聖書でも、たびたび現れる言葉、「その日」は、神の裁きが預言されています。しかしそれは罪に対する報いとしての「裁き」とともに、裁きを受けたもの、滅ぼしつくされずに残された者たちが、ゆるされ再び立ち上がっていく「救い」の時でもあるのです。

それは、イエス様の誕生とご生涯、そして十字架と復活によって実現しました。滅ぼしつくされた後の救いは、イエス様がご自身を十字架で我々罪人の人間の代わりに滅ぼされるという形を取り、罪が滅ぼされ、裁きをうけ、それを信じる私たちにも、罪のゆるしと新生がもたらされました。そして天に上られた後の、再び来られるキリストの再臨として、最終的な裁きと新生が預言されているのです。そう読んでいくと、人生や社会の問題に翻弄されて、不安や苦しみで生きていくときが多い私たちに対して、苦しみは、結果的には、私たちをふるいにかけ、謙虚にし、神様により頼み、信仰を持ち新しく生まれ変わるために必要な出来事でもあると、気づかされます。

何もかもいやで、苦しく、絶望して、しまう時に、そこにとどまっていくのか、それが救いのための産みの苦しみと捉えるかで、その後の人生が変わってきます。

4. 勧め 

そしてこの聖書の言葉もよみましょう。「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。(1ペトロ2.1-5)」

ただの石を見るのではなくて、私たちの救いの基礎であるキリストという石を見ること。そして、私たちも生きた石として用いられること。ベツレヘムではそんなクリスチャンも苦しみ迫害もされていますが、ただ通りすがりの観光客としてではなくて、そこで生きている生きた石、彼らの信仰や生きざまを見ることが大切です。そのうえで、今の私に何ができるでしょうか? ベツレヘムの仲間たちのことを思って、支援することもあるかもしれません。しかしそれだけではなくて、私の身の回りで出会った人のために愛をもって生きることも大切と思わされます。

教会のカレンダーでは来週で一年が終わっていきます。裁きによる苦しみと破壊の「終わり」の向こうに、ゆるされ活かされている「救い」が始まります。そんな期間を過ごして自分自身の人生も信仰も「リセット」する準備も致しましょう。産みの苦しみの後は、喜びが待っているはずだからです。


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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説 「審きの時、救いの時」 

マルコ13章は小黙示録と言われています。言わずと知れたヨハネ黙示録に対して小黙示録です。黙示録とは人に語ることも理解することも禁じられている神の啓示を幻や比喩で示したものです。内容は世の終わりの出来事です。イエスさまは世の終わりを語る前にその前兆について語りました。戦争や災害など、私たちが前兆どころか世の終わりの現象と捉えがちですが、前兆にもならない、いつもの事と語られます。世の終わりは神の最後の救いの時なので、ここに人の業の入り込む余地はないのです。この日課の少し後、14節に「荒らす憎むべき者が立ってはならない所に立つ」とありますが、ギリシャ帝国のシリア王セレウコスがエルサレム神殿の祭壇にゼウス王を作ったことです。ユダヤ教の信仰が迫害されたのです。この苦難から天使長ミカエルの勝利により信じる者が救いに入ったと歌います。「苦難と絶望の後の究極の救い」これが黙示録のテーマです。もちろんミカエルは救い主ではなく、神に従って勝利を得た者です。救い主はイエスキリストです。シャローム!(三木久人)


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牧師コラム  今日の一枚の写真 

よく読む詩編の言葉、「たとい我、死の陰の谷をあゆむとも…」ですが、先週のその日の印象は大きく違いました。毎日スマホで読んでいる聖書の言葉のアプリですが、朝からこの言葉が表示されていました。

それは、母が脳梗塞で倒れて病院へ駆けつけた翌日。今まで以上に、リアルな言葉として、語り掛けてきます。前日撮った写真には救急車、病院、嵐、そして虹。この聖書の言葉の重さを忘れないように、その写真と重ねてみました。

詩編の著者が災いを恐れない理由は、「神様が一緒にいてくださるから」です。そしてたくさんの国のたくさんの人からお祈りのメッセージをもらいました。神様が、人々が一緒にいてくれる大切さを感じ感謝しました。(徳弘牧師)


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