明日も、FacebookとYouTubeから礼拝中継も致します。
二つの方法がありますのは、機材やネット環境などでどちらかに不調があるときに、他方を選びなおすことができるようにという「保険」でもあります。音声や映像に不調があるときは、切り替えてくださるとよいかと思います。
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聖書の言葉 マルコ12:38~44 (新88)
12:38イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、 39会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、 40また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
41イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。 42ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 43イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。 44皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
説教「何もありませんが、どうぞ」 徳弘師
1. 何もないなら、食べられません!
お客さんをお呼びした時の食事で、わたしたちが良く言う言葉はこうです。「なんにもありませんが、どうぞ召し上がってください」。これは通訳泣かせの言葉ですね。なぜなら、そのまま英語やポルトガル語に訳したら、びっくりされるからです。
一つには、「何もないならば食べられないでしょ」という論理的な矛盾があるからです。でもこれは文字通りではなくて、「口の肥えたあなたからしたら珍しいおいしいものは、何にもありません。お恥ずかしい質素な食卓ですが…」という文章が気持ちの中で隠れています。その気持ちを知っているので、そういう風に、「言われていない言葉も補って」通訳することになります。言われた文章をそのまま通訳したら意味が通じないし誤解されると例だと思います。もう一つビックリされる理由は文化的な違いです。彼らならこういうことが多いでしょう。「あなたのために一番おいしいものを準備したから、さあ、食べてください」と謙遜ではなくて、相手を歓迎するために精一杯の準備をしたとアピールすることをはばからず、それが礼儀という風習もあるです。
プレゼントをもらってもみんなの前で開いてよいか悪いかも違いがあります。ブラジルでは「ここはブラジルだから、これ今開けてもいいんですよねぇ?」とわざとみんなの前で確認して、みんなで笑いながら開いて、「少し大げさに喜ぶ」のも礼儀でした。
神様との関係ではどうでしょうか?今日は、献金をした二人の人のたとえ話をイエス様が話されました。何がその二人の違いだったのでしょうか。聖書の言葉を聞きながら、神様の言葉を聞いていきましょう。
2.聖書を学びましょう
先週もイエス様と律法学者との問答でした。珍しくその律法学者はイエス様に評価してもらいました。しかし、「あなたは神の国から遠くない」とも言われたのです。十分ではないとも取れる言葉です。今日の話は、その流れの続きで、律法学者全般に対してのイエス様の厳しい言葉が語られます。それに対して、イエス様が最高に評価されたのは今日のたとえの登場人物の「やもめ」です。しかし気を付けないといけないことは、対比される相手は、「たくさん献金していた律法学者」ではなく、「大勢の金持ちがたくさん入れていた」という話です。献金の額の大小の比較対象は、「律法学者vs貧しいやもめ」ではなくて、「大勢の金持ちvs貧しいやもめ」です。では、律法学者はどこにいるのでしょうか?彼らは、「律法」という神様の掟を学び、解釈し、人々に説明する係でしたが、それを自ら行うというよりも人々に強制するような描かれ方かもしれません。そして、「長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。」と説明されます。だから、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と結論付けておられるのです。
イエス様は、「大勢の金持ちがこれ見よがしに献金しているから」と批判しているのではなくて、彼らに対しての評価は何もありません。そうではなくて、この対比には登場しない「神のことばを守るように説くだけで、自分はやもめの家を食い物にし、自分が尊敬されることだけを求めている律法学者」を批判しているのです。
3.振り返り
私たちは、これら登場人物のうちのどこにいるでしょうか?それぞれの立場に身を置いて、セリフを考えてみると理解が深まります。律法学者、たくさんの献金をするお金持ち、わずかな額だけれど思い切って全部を賽銭箱に献金したやもめ、それぞれの言い訳や祈りの言葉を考えてみるといいかもしれません。
今日のお金持ちは悪者として描かれていませんが、金額を誇ったかもしれません。金額ではなくて、割合が大切です。分子ではなくて分母ともいえるかもしれません。パーセントともいえます。パーセントという言葉は、ポルトガル語を学んで気が付いたことの一つですが、「百に対して」という意味です。セントは「100」ですし、パーは「~に対して」という意味を持ちます。レプトン銅貨二枚でも、100%だったこの女性は、人生のすべてを神様にお任せした、思い切った信仰を持ち行動したというところが大切なのです。「乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」このやもめを評価されました。お金や人にではなくて、神様に全てをお任せする姿勢が、私たちの持つべき信仰の姿勢であるからです。お金のある所に心もあるからです。
そんな風に私たちも生きることができるでしょうか?でも、これも、律法学者が説明し命じ、傍から見ているように、「義務感からやるべきもの」ではありません。そんな信仰を持ちたいと思い、祈りながら生きていきましょう。そして、そんな生き方をした方を私たちは知っていますから、その方に、従って生きていくことが大切です。失敗し、転びながらでも、です。
4. 勧め
なぜなら、私たちは今日のたとえ話から、イエス様ご自身をも見つめることができるからです。
富める方が、自らを低くし、謙虚になり、死にいたるまでみ旨に従われた。神ご自身が人となりこの世に降り、富める方が一番貧しくなり、貧しい者がささげる全てと同様、「いのちそのもの」を捧げていかれる直前の出来事、たとえ話が今日の話でした。この後、13章からはイエス様は神殿の崩壊、大きな受難と終末への預言をし、十字架の受難の道へと進んでいかれます。
そして、教会の今年のカレンダーでは、今日のこの話を読んで、来週は一年の最後の日になっていきます。自分たちの今年一年を振り返り、人生の終点をも見つめ、イエス様の十字架の死がもたらしてくれたものも見上げ、一年を終えていきます。そんな季節でもあります。
一年の締めくくりを前に、心に刻み、生きていきましょう。神様の祝福がありますように。
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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説 「寡婦のささげもの」
聖霊降臨後第24主日の福音書は、律法学者の祈りと寡婦の献金です。最小単位の金額でどこまで生活できるのか?寡婦について言えば、それができました。会堂の共同体、それが崩れた後にはキリスト教会が替わって担っていったので、神が養って下さるという信頼は裏切られることがありませんでした。
第1日課は、シドンの近くサレプタの寡婦です。エリヤが預言した飢饉によって粉も油も底が付き、死を覚悟して最後のパンを準備していたら「それをよこせ」と乗り込んで来た人がいた。それがエリヤでしたが、彼は「粉も尽きず油も切れることはない」と預言した。果たしてその通りになりました。神殿の寡婦とサレプタの寡婦両者に共通するのは「神が養って下さるという揺るぎない信頼」です。それが根拠のないものならただの盲信ですが、はっきりとした根拠がありました。「神からの約束」です。サレプタの寡婦には神の人エリヤを通して。神殿の寡婦には神さまであるイエスさまの言葉を通してです。シャローム!(三木久人)
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