2021年10月23日土曜日

週報・説教メッセージ 20211024

 

聖書の言葉 マルコ10:46~52 (新83)

10:46一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。 47ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。 48多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。 49イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」 50盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。 51イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。 52そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。


説教「何をしてほしいのか」徳弘師

1. 見たいものは何?

最近のスマホは性能が良くて驚くことが多いですね。カメラもレンズがたくさんついていて、いろんな機能があります。ものによっては短焦点、望遠、広角、中には、深度カメラなどがついています。買い物中に老眼鏡を忘れたときにスマホが虫眼鏡代わりにもなります。深度カメラは、あとからピントを合わせ直すことができます。写真を撮った後から、手前にピントを合わせて後ろをぼかしたり、元に戻したりもできて、シャッターチャンスを失っても、時を逆戻りできるような感覚で、驚きました。また、安い防犯カメラでも、暗くなると赤外線カメラになって、暗闇でも白黒の映像ですが、くっきりと見ることができるようになりました。

Star Treckという私も子供のころから好きなSF宇宙ドラマシリーズがありますが、初代のシリーズでこの宇宙船の船長を演じていたアメリカの俳優が、今月、90歳で本当の宇宙旅行をしたということで話題になりました。ドラマや映画では、合成映像で宇宙を旅していましたが、今回本当に宇宙空間から地球を見て、「言い表せない感動をした」とコメントしていました。

このように、科学の進歩もあり、今まで見えなかった「過去の」出来事や、暗闇でも、そして極小の世界や遠い宇宙の天体でも、見えるようになってきました。

私たちは何を見たいでしょうか?そして、私たちは何を見ていたのでしょうか?

2.聖書を学びましょう

今日の聖書は、目の不自由な人が登場します。そして、イエス様に見えるようにしていただきました。彼は、何が見たかったのか。何を見たのか。そして、何を見るようになったのかが、今日の聖書のカギであり、私たちへの神様からのメッセージでもあります。聖書を見ていきましょう。

イエス様が最後にエルサレムに入るために通られたエリコで起こった出来事でした。ルカによる福音書ではザアカイが登場し、今日のマルコによる福音書ではこのバルティマイとの出来事が伝えられています。

過越しの祭りのためにエルサレムに上っていこうとする大勢の群衆と一緒に、イエス様の一行はエリコを通られました。そこで、道端に座っていたバルティマイがいました。彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。多くの人がしかりつけても、黙らせようとしても、黙ることはせず、むしろ「叫び続けた」と書かれています。イエス様は心を止め、「あの男を呼んできなさい」と言われます。

呼び止めた彼の心には、期待と不安があったでしょう。「自分の声に足を止め、呼び出してくれた」。あるいは「何を言っているのか!」と怒られるかもしれない。そんな彼に弟子は「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と取り次いでくれ、イエス様は声をかけ、聞かれました。「何をしてほしいのか」と。

彼は「目が見えるようになりたいのです」と伝え、イエス様は何の問答もなく、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と伝えます。彼は、すぐに見えるようになりました。

先週も同じセリフ「何がしてほしいのか」とイエス様は言われたのを学んできました。弟子たちの自分勝手な願い事を知り、「人の上に立ちたいものは人に仕えるものになりなさい」とたしなめ、教えられました。そしてそれは、ご自分も「人に仕え、救いのために命を与える」ために来たのだ。キリストにしたがうものも、そのように生きなさい、というメッセージでした。

今日のバルティマイとのやり取りでは、そんなやり取りはありません。彼の願いは虚栄心とか競争とかではなく、純粋な願いであったし、イエス様をメシアとして信じて「ダビデの子イエスよ」と人の目もはばからず叫び続けた彼の信仰と行動を認められたのでしょう。そして、他の聖書の出来事にいくつかあるように、誰かが運んできたり連れてきて願ったものでもなくて、彼は誰の助けもない、道端に座っている孤独な人でした。そんな彼の境遇にもかかわらず、信仰と行動を起こしたのは、「あなたの信仰があなたを救った。」とイエス様に言われるにはふさわしいことだったのかもしれません。

3.振り返り

「誰もわかってくれない。誰も自分を助けてくれない。自分は一人、道端に座り込んでみじめだ。仕事もできない、目が見えないから」そんな彼の境遇は、時折、私たちの人生にも訪れることかもしれません。「あーあ。結局人間は一人ぽっちだ」とつぶやいたことがない人はいないかもしれません。失敗したり、孤独になったり、仮に助けの手があっても受け入れられずに、1人座り込むことがあるかもしれません。私は時々そんな気持ちを味わいながら生きてきました。

そんなときの助けはどこにあるでしょうか。そんなときの希望はどこにあるでしょうか。

それは、礼拝の最後に歌ってきた賛美歌にもあることを思い出しましょう。希望はどこにあるのか?それへの答えがあの賛美歌でした。「だから、今日希望がある」その「だから」は何でしょうか?しばらく歌ってきましたから、そろそろ次の歌を探しているところです。もう一度味わいながら考えましょう。

それは、今日のバルティマイの人生をたどってもわかります。彼は、目が見るようになることを願い、かなえてもらいました。彼が見たものは何だったでしょうか?美しい風景、おいしいもの、人々の笑顔。しかし、それだけではありませんでした。怪訝な顔、争う姿、疑い、裏切っていく姿も見ることになります。彼は、「なお道を進まれるイエスに従った」と書かれているからです。聖書の伝統的な研究では、この癒された男の名前まで語り継がれているということは、マルコの知る教会の人々には親しい名前だったからに違いないといいます。彼はイエス様に従い、その方の十字架も見ることになり、やがて弟子たちのグループに残ったか知られる人になったのかもしれません。

4. 勧め 

彼がエルサレムの途上でイエス様に出会い、目が開かれたのは、その後の出来事をしっかりと見るためでもあり、それゆえに、希望があり救いがあるということの証言者の一人になるためだったのかもしれません。私たちの目は、そこまで見通すことができているでしょうか?見えていても、素晴らしいことと、醜い人間の現実と、それを救うために苦しい十字架にかかった下さった方をしっかりと見ているでしょうか?見逃していませんか?「そこに希望がある」のにです。

心の目を開いて、生きていきましょう。「だから、そこに希望があるのですから。


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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説

「エレミヤの潮目」 

聖霊降臨後第22主日の福音書は盲者バルテマイの癒しです。盲者の癒しはマルコでは2度目です。1度目は信仰告白の前、その癒される様子はその時の弟子たちの状況を反映しています。最初はうすらぼんやりからやがてはっきりと、ここではたちどころに見えるようになっています。復活の後までは「福音のはじめ」の範囲外ですが、直ちにイエスさまが本当にわかったことが伺えます。

そして第一日課はエレミヤ31章7~9節。31章で怒りと破滅の預言者エレミヤの潮目が変わります。贖いと救いの預言者に。勿論エレミヤの語る意識が変わったのではありません。神さまから託された言葉が変わったのです。それまでは破滅の言葉に反発し、神と喧嘩しながらの預言でした。王に嫌われ、つけ狙われ、王に宛てた手紙が読まれるなり燃やされるなど。それが、主の民を贖い、捕らえ移された者が帰って来る。だから捕らえ移される前に土地を購入するなどのことをしました。イスラエルが生きるも死ぬも神が全て進路を握っているのです。シャローム!(三木久人)


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