2021年10月2日土曜日

週報・説教メッセージ 20211003

 

聖書の言葉 マルコ10:2~16 (新81)

10:2ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。 3イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。 4彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。 5イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。 6しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。 7それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、 8二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。 9従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 10家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。 11イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。 12夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

13イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 14しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 15はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 16そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。


説教「人間の勝手、神の願い」徳弘師

1. 家族は一番ありがたい、けれど…

ご希望者の声を聴いて、教会でパソコン・タブレット講座を始めました。教会メンバー以外の方も来られて良い出会いの場にもなりました。コロナ禍の中で人と人とのつながりや教会とのつながりが薄れがちになりますが、それを補う便利な道具としてもパソコンやタブレットなどは有効です。でもまだ、スイッチを押せばすぐに使えるというほど進化していないので、人間は使いこなすのではなくて、使われている面があり、ある程度教えてもらわなければむつかしいものです。

思い出せば、神学生でインターンをしていたころも願われて「ワープロ教室」をやっていました。京都で保育園の事務をされる方にお教えしていました。東京の大森教会にいたころはルーテルの大学のパソコンの先生に頼まれて非常勤の助手でパソコンの授業を毎週手伝っていました。サンパウロ教会でも遠く日本に住む家族とTV電話をしたいからという移民の方々に頼まれてやっていました。

そして、どこででも大概聞く言葉はこうでした。「家族や子どもに聞いても、なかなかうまくいかない。」「同じことを何度も聞くと、怒られてしまって聞けなくなる。」「孫に聞くとすぐに解決してくれるけれど、ササっと一人でいじって解決してくれるので、私には何が起こったのかちっともわからない」などの言葉です。

家族が一番大切でありがたいものですが、一番厄介なのはなぜでしょうか。それは良くも悪くも「遠慮がないからだ」と私は思います。遠慮がないくらいの心の距離だから、とってもありがたいのですが、厳しい言葉は傷つけやすくもなるからです。近いからこそ、「わがまま勝手」が出てしまうからです。

私はいつも言います。「家族に聞くとむつかしくなることもあるので、ある程度の信頼とともに距離感があり、遠慮もする関係のパソコン教室の先生と生徒の方がお互いやりやすいですよ」と。

2.聖書を学びましょう

今日の聖書は、結婚に関する問答があり、そのすぐ後で子どもたちが登場する出来事が載っているところでした。それは、考えてみれば、家族の出来事です。

一番わがまま勝手が出やすい家族の出来事と、神様の願いは、どこに解決策やポイントがあるのでしょうか。今日の聖書を学びましょう。

家族のことでの相談でこの問答が始まったのではありません。イエス様を試そうとしてファリサイ派の人たちがした難しい質問から始まりました。まずここが大切なことです。聖書の掟からすると、どう答えても難しいような巧妙な質問であるということです。「離縁することは、律法に適っているかどうか」を問いました。それに対してイエス様は、困って相談に来た人にではないので、心に歩み寄って愛情をもって答えるだけではなく、聖書の記述から判定するだけではなく、神様の願いという視点でお答えになりました。

離縁が良い悪いというお答えではなくて、人間が心が頑固なので、離縁することも許されるような掟ができたのだといわれました。そして、天地創造の出来事を思い出させながら、神がふさわしい助け手として作られた男女はお互いを尊重し合いながら、離れることなく生きていくことが「神の願いだ」と会話の次元を高めていかれました。

これら律法の説明では、研究者によると、離縁がきちんとした手続きにより認められているのは、当時の男性中心の社会で女性の立場を守るためでもあったといわれています。また、それは身勝手ないい加減な理由で離縁を実行できないようにも機能していたといわれます。

その後、イエス様に触れていただくために子供たちを連れてきた人たちが弟子たちに叱られているのを見て、イエス様は憤りました。「私のもとに来させなさい」と。こどもの幸せを願い祝福してもらおうとした親の気持ちを、失礼とかうるさいからと退けるのではなく、受け入れられたのです。そして「子供の様に神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と抱き上げて祝福されたのです。

杓子定規な律法の解釈で離縁ができるかどうかの問いには、身勝手に生きる人間のために離縁も神様は認めたけれど、神様の願いは互いを助け合って幸せに生きていくことだと、神様を見上げさせます。会話の中に割って入ってきた、こどもの幸せを願う、いわば「場をわきまえない身勝手な」親たちの願いは、退けず受入れてあげたのです。

3.振り返り

神様は、杓子定規に考えるのではなく、人間の家庭の営みにおいて、その幸せを願っておられるということが、強調される出来事でした。では何が良くて、何が悪いのでしょうか。それは、人間の「自分を思う身勝手さ」だと、思い知らされます。相手を思わぬ身勝手なことでは人を傷つけますし、それは神様の願いではありません。しかし、こどもの幸せを願って少々身勝手な行動をする親は諫めず受入れ祝福されました。

相手のために、人の幸せのためになりふり構わない姿は、時として問題も起こしますが、神様はご自身もそれほど人間を愛しておられるということを教えられます。

4. 勧め 

そして、自分の努力や知識でイエス様のもとにやってきたのではなく、連れてこられて何もわからないけれど嫌がりもせずにイエス様に抱きかかえられている子供の姿こそ、すなおに神様を受け入れ、その手の中で抱えられている、本来あるべき人間の姿なのでしょう。努力や知識や競争や妬みや裏切りや裏表とは無縁な、無力な神様に「されるがまま」の子どもこそ、神の国に入れると、イエス様は言われたのです。

諸説ありますが、「勝手」という言葉は、弓を射るときに弓を持つ左手(押手というそうです)ではなく、自由に矢を取り、弓に当てて引く右手を「勝手」といったのが由来だそうです。フリーハンドともいえるかもしれません。人間は創世記の初めから、「自由」の使い方をはき違えて神様を離れ、人と人は争うようになりました。神様からいただいた自由を、「勝手」を、わがまま勝手にしないよう、生きていきましょう。



風の谷より・キリスト教ワンポイント解説

「結婚の奥義」 

聖霊降臨後第19主日の福音書はマルコ10章2~16節。ファリサイ派との離婚についての議論です。彼らは申命記24章を引用し離縁状を出すことを主張しました。みことばに関して自由に語るイエスさまはこの男性本意の規定をモーセが勝手に書いたものと解釈し、結婚の本質を説かれました。その結婚の本質を記しているのが創世記2章18~24節で「人は父母を離れ、二人は一体となる」ということです。そして申命記に優先するのは「神が合わせたものを人が離してはならない」という主の命令です。それだけでなく、人に相応しい助け手をと、いろいろと創造し最後に人の肋骨を取って女を創ったことが記されます。その際、神は人を深く眠らせました。死んだ様に。そこから再創造されて女と結びついたのです。二人は互いのために創造され、お互いの下に遣わされたのです。最後にイエスさまはひっくり返りそうなことを言いました。妻が夫を離縁しても姦淫の罪を犯すことになる。つまり、妻も夫も離縁する権利はあるが、それを行使してはならないということです。全く自由な発想です。シャローム!(三木久人)



牧師コラム 今週の一枚の写真

「食卓の見えざる賓客」

今日の聖書は、結婚に関する問答、そしてこどもたちが登場してイエス様が抱き上げて祝福される話でした。私たちの家庭の在り方を考えさせられますね。男女の役割分担や性別さえ考え方を改めて、すべての人の人権と個性を尊重することを教えられる時代にようやくなってきましたが、結婚してもしなくても、それぞれの家庭は大切なもの。しかし、不完全な愛の持ち主の私たちには、いろんな問題がぶつかる場でもあります。31年前結婚した時に、私たちに洗礼を施してくださった牧師先生からいただいた壁掛けは、今も私たちに静かに語り掛けます。そしてキリストは静かに聞いておられます(徳弘牧師)




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