2021年10月17日日曜日

週報・説教メッセージ20211017




聖書の言葉 マルコ10:35~45 (新82)

10:35ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 36イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 37二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 39彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 40しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」 41ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。 42そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 43しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」。


説教「何をしてほしいのか」徳弘師

1. 「いらっしゃいませ」の外国語は?

岐阜に来て色々な道を覚えましたが、もっと街を知らねばという気持ちもあり、色々なスーパーを順に回ってみています。あれはここが安い、これはあそこが品ぞろえがいいなど、少しずつ分かってきたと思います。先日、懐かしいお店を見つけて入ってみました。九州にも東京にもあったチェーン店ですが、今では勢いがあまりなく名前だけ残っているものの、アメリカのスーパーの傘下に入っているお店でした。ブラジルにもあったので時々行っていたこともあり、昔行き親しんだ部分と、ブラジルでアメリカ風になっていた部分も思い出し、色々な意味で懐かしい雰囲気でした。そんな中、目が留まり驚いたことがありました。店員さんのベストのようなジャケットの背中に英語が書いてありました。それは「Wow may I help you?」という言葉。文字通り訳すと「私はどのようにしてあなたを助けてあげることができるでしょうか?」となりますが、日本語では「いらっしゃいませ」そして「何をお探しですか?」「困ったことがあったら遠慮なく言ってくださいね」みたいな意味を込めている言い回しでしょう。無理に日本語に訳さずに、同じキャッチフレーズを英語で書いたジャケットを採用して、ある程度意味を分かってもらいながら、アメリカ式の雰囲気も醸し出せるのかもしれません。

なにしろ、うまい翻訳が無かったり、よく調べないで訳して失敗することが最近の社会はよくあります。インターネットで無料で翻訳してくれるページもありますが、日本語はまだ正確に翻訳してくれないからです。ブラジルで日系人街/東洋人街にあったブラジルの銀行が「今日は、何を手伝ってあげられますか?」という不思議な翻訳の看板を出して、日本人の失笑を買っていたのを思い出します。隣に韓国語と中国語もありましたが、うまく訳せているのか心配にもなりました。

私も通訳をしたり外国メンバーのお手伝いをしながら、気を使いながら努力をしているところです。

さて、今日の聖書では、「何をしてほしいのか」とイエス様の言葉が出てきました。イエス様との会話は、何が話題だったのでしょうか?

2.聖書を学びましょう

今日の聖書は、イエス様の弟子のヤコブとヨハネのイエス様へのお願いに端を発しています。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」という言葉です。それに対してイエス様が「何をしてほしいのか」と尋ねました。それに対する二人の答え、つまり願い事と、神様のお気持ちの間のずれを思い知らされ、私たちは、どのように生きなければいけないかを、教えられるところです。

人々を教え、癒し、助け、正し、導いてこられて当時の社会の注目を集めたイエス様でした。その弟子たちは苦労もしながらその方に従い、やりがいや達成感もあったかもしれません。そしてイエス様にお願いをしました。「栄光をお受けになる時、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と。

しかし、イエス様は「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と嘆かれ、自分が受ける「盃」や「洗礼」を受けることができるのか?と正します。弟子たちは何もわからないまま「できます」と言い張る訳ですが、イエス様は「そうだ、結果的に受けることになるが」といわれました。

それは、何のことだったのでしょうか?「素晴らしい栄誉」と思っていた弟子たちは、あとで思い知ることになります。なぜなら、イエス様が受ける「栄光」も「盃」も「洗礼」と例えられたものも、「素晴らしいご褒美」ではなくて、「これほどまでに何もわからない人間たちを救うために、自ら苦しみを受け、捨てられ、十字架にかけられていくという出来事」を指していたからです。そしてこの問答は、皮肉にも弟子たちも続いて迫害され、殉教していくことを指してもいたのです。

3.振り返り

私たちを振り返らねばなりません。教会に、聖書に何を求めているでしょうか?もちろん、問題の解決や、心の平安、救い、癒し、などいろいろあるでしょう。しかし、いわゆる「御利益(ごりやく)」を求めて、信仰を持てば問題が全部解決して、商売も成功してと、人間関係も何も問題がなくなる、すべてうまくいくと思ってばかりいたら、間違えかもしれません。神様は助け、解決し、癒し、導いてくれますが、難しいこともあります。それは、私たちが依然として弟子たちのように身勝手な「罪人」だからです。罪をゆるされてはいるけれども、罪を認め、ゆるしを願い、キリストを受け入れ、洗礼を受け、赦しをいただいたものの集まりにすぎないし、そんな人のそれぞれの人生だからです。

「教会は完璧な人びとの集まりではなく、自分が罪びとであることを知り、ゆるしを求める人の集まり。キリスト教徒の生活は、謙遜を学ぶための学校です。」というフランシスコ教皇の日めくりに書かれた言葉を、私はちょうど今週読み、考えさせられました。

4. 勧め 

私たちは、「何をしてほしいのでしょうか?」イエスキリストは「Wow may I help you?」というジャケットは来ておられませんでしたが、違う意味でそういう方でした。自分勝手な人たち、私たちのために、「何でもしてくれた」からです。命すら捨ててくれたのです。究極の謙遜です。「何をして欲しいのか?」と聞かれたキリストは「この人たちの為なら、何でもする」愛と覚悟を持たれて生きられました。

私たちも、人を押しのけてでも「いいことにあずかろう」という自己中心の心を捨てて、キリストの苦しみを少し受け持ち、苦しんでいる人に「何をしてあげましょうか?」と言える気持ちで生きることが願われています。それが、不完全ながら、キリスト者の生きる道なのです。そんなそばから、回心や生まれ変わりが起こり、自分や社会がよりよく変わっていくでしょう。そんな風に生きていきませんか?


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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説

「主の苦い杯」 

聖霊降臨後第21主日の福音書はマルコ10章35~45節。ゼベダイの子ヤコブとヨハネの願いです。ペトロの存在が大きかったのでしょう。父ゼベダイはイエスの援助者、主の母マリアはゼベダイの妻サロメの姉妹。その立場から弟子内での地位を確認したかったのでしょう。イエスさまから「私の杯を飲めるか」と問われた時も心安く「できます」と答えました。その杯の内容が第1日課の通りでした。彼らには想像すら出来なかったでしょうけれども。

この苦難の僕は誰か。イスラエルそのもの、ゼデキヤ王などが考えられていました。イザヤ書の統一性、第2イザヤの単独性に拘泥すれば仕方ない事と思います。しかし、第2イザヤに多くの支持者がおり、その一人が第2イザヤの預言を編集しました。一人が4つあるしもべの歌を詠んだとしたら明らかです。第2イザヤの最期を書き表したものでしょう。そして、56章からはじまる第3イザヤもその一人と思われます。そして第2イザヤの死がイエスさまの苦難と贖いの死と重ねられたのでした。シャローム!(三木久人)


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