2021年9月4日土曜日

週報・説教メッセージ20210905

 




聖書の言葉  

マルコ7:24~37 (新75) 

イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」


説教「エファタ、魔法の言葉?」 徳弘浩隆師

1. テクマクマヤコン、アブラカダブラ…

願い事をかなえたいとき、聞いてもらいたいとき、特別な言葉があったらいいなと、だれもが思ったことがあるでしょう。魔法の言葉とでもいうでしょうか。おなじみの言葉は、昭和の時代の子どもたちでは「テクマクマヤコン」という言葉が懐かしいでしょう。コンパクトの鏡を見ながら魔法の言葉を言う少女アニメが人気でした。もっと一般的な言葉では、「アブラカダブラ」という言葉が有名でしょう。

前にどこかで紹介したことがあるかと思いますが、私が旅行中に聞いた魔法の言葉もあります。スペインのホテルで、朝食の時にレストランのお兄さんが、ちょっと困ったこどもに教えていました。「特別の魔法の言葉を教えてあげようか?」と。そのこは「教えて、教えて!」とせがみました。私も朝食をとりながらその会話に聞き入りました。どんな言葉だろう?と。そのお兄さんが言った言葉は、「ありがとう、ごめんなさい、おねがいします」の三つの言葉でした。この言葉が言えずに、私たちはどんなに苦労したり、嫌な思いをすることが多いことでしょう。

さて今日の聖書でも、イエス様が話された「エファッタ」という言葉が残されています。魔法の呪文でしょうか?一緒に、神様の働きを見て、私たちの生活を考えましょう。

2.聖書を学びましょう

今日の聖書では、イエス様がずいぶんと広範囲に移動しながら、癒しをされていたことが分かります。ガリラヤ湖のこちら側、あちら側。そしてティルス、シドン、デカポリス(異邦人の街々)を通り、ガリラヤ湖に戻ってきました。

ティルスではギリシャ人でシリア・フェニキアの女性をいやしました。ユダヤ教の民ではない外国人ですから、ユダヤ教の教えも掟も知らず守らず、神様の計画からすれば今は救いの対象ではないとのことでしたが、その謙虚で熱心な願いをうけてイエス様は悪霊を追い出してあげました。そして、遠くを回り戻ってきたガリラヤ湖そばでは、連れてこられた一人の人をいやしました。

これら二人は対照的です。ひとりは、外国人でしたが謙虚で熱心に願った女性でした。そして、このもう一人の人はおそらく男性で、自分でやってきたのではなく連れてこられ、自分で熱心に願ったのでもありません。なにしろ、耳が聞こえず話ができないひとでした。

私たちは聖書を読み、信仰について考えるときに、一生懸命に聖書を学び、一生懸命に祈り、頑張ることを考えがちです。もちろんそれも大切で尊いことです。しかし、今日の聖書個所が教えていることは、そんな人のことだけではなく、そのすぐ次に、全く別の人を登場させています。イエス様はそんな人も癒され、神のわざをなさったのです。

救われる条件は、必ずしも、謙虚さでも熱心さでもないことが分かります。何も聞けない、何も語れない、いわば無力な人をイエス様は心にかけ、癒してくださったのです。ここで、イエス様は不思議な行動をされます。「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、「開け」という意味である」と書かれています。聖書を読み、ここに不思議な儀式、呪文の秘密があると思うかもしれません。どういう意味でしょうか。

これは、その耳が聞こえず話ができない人に対して、両耳に触れ、舌に触れて、具体的にコンタクトを取ってくれたということでしょう。そして「エファッタ」と呼びかけました。これも、その人に語り掛け、心や信仰を開かせる語り掛けではありませんでした。魔法の呪文の言葉を言って、それを聞いた人が奇跡的に癒されたのではありません。なぜなら、その人は耳が聞こえないのです。

今日教えられることはこうです。一つは、救われる資格がないかのような者でも、謙虚に、熱心に祈り願うと聞かれるということ。もう一つは、そんな努力や能力がないものでさえ、神様は顧み、彼にわかる形で触れ、その心の底の願いを聞かれるということです。

3.振り返り

私たちはどうでしょうか?自分はダメだと思う時どうしたらいいでしょうか?

今の自分はダメだから、一生懸命祈り続けること。それは大切です。そしてもう一つ、今の自分はダメだけれどあきらめていないで、自己嫌悪や劣等感で生きるのではなくて、神様は働いてくださるということを知ることです。救われる条件は、罪びとの私たちの側にではなく、その能力にでもなく、神様の圧倒的な愛の中にあるということを知りましょう。

4. 勧め 

私たちは、今週どんな人に出会うでしょう。また、どんな状態の自分に出会うでしょうか。今日のイエス様の、対照的な二人との出会いを忘れずに、神様とともに生きていきましょう。自己嫌悪でも人間不信でもない、自信過剰でも自己否定でもない、神様に愛された一人の人として、自由に生きていきましょう。

「エファッタ」「開け」という言葉はこの耳に聞こえなくても、それを理解しなくても、神様は自分に奇跡を起こしてくださいます。

今週も元気に生きていきましょう。神様の祝福をお祈りいたします。

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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説
「救いの到来」
聖霊降臨後第15主日の福音書の日課はマルコ7章24~37節で、ティルス、シドンから異邦の地デカポリスを経てガリラヤに帰って来たイエスさまが、耳の聞こえない人を癒す話です。
これに対応する第一日課はイザヤ書35章4~7節です。宮廷のイザヤの事実上の終章です。第一イザヤは39章まであるのですが、37~39章は編集者である申命記史家による列王記の記述がそのまま使われており、列王記の中のイザヤが登場する最後で、エレミヤ書も同様の終わり方をしています。前の章までが周辺諸国に対する託宣で、それぞれの民への審きが語られています。そしてこの35章で趣きを転じてユダの民への救いの到来が語られています。主に助け起こされ、目、足、手が利かない人々が癒され、皆が主を讃美すると語られています。救いの到来が告げられるのですが、この「救い」はヘブライ語で「エシュア」ギリシャ語読みで「イエス」です。まさにイエスさまの到来、これが本来のイザヤ書の最後の預言です。シャローム!(三木久人)

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難しい時代、落胆せず、希望を持っていきましょう。教会でお待ちしています。
下のイラストの言葉、「その人は…」とありますが、どんな人でしょう?


これは聖書の詩編冒頭からですが、直前にはこんな言葉があります。「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。」そんな人は、幸せだと言います。
そしてこう続きます。
「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。神に逆らう者は裁きに堪えず 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。」 
流れのほとりで、満たされ、豊かな実
を結ぶ人生をご一緒に。(徳弘浩隆牧師)

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