2021年9月11日土曜日

週報・説教メッセージ20210912

 


聖書の言葉  

マルコ8:27~38 (新77)

8: 27イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 28弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 29そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 30するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」


説教「たとえ全世界を手に入れても」徳弘師

1. 全土を制圧した。けれども…

国内のニュースを見ても、世界の情勢を見ても、最近特に、政府や国に関して色々と考えさせられます。聖書でも、「神の国」について学んでいますが、これにも考えを及ばせると、もっといろいろと考えさせられます。礼拝の場で、政治的に一つの考え方をお勧めするのは特段の状況でない限り適切ではないでしょうし、そんなつもりはありませんが、聖書の言葉を、より具体的に、現実のこととして考えるために、少し考えてみました。

「全土を掌握した」と発表したアフガニスタンの出来事を私たちは見たと思います。しかし、それで万事順調でめでたしかというと、そうでもありません。たくさんの人が国から逃げ出し、流出を止めるのに精一杯の様子もありました。インフラや空港の運営ができる人たちも脱出してそれを担うことができず、政治信条の近い他国に運営依頼したという報道も見ました。

国家の定義は、一般的にはこうです。「一般に,一定の領土と国民と排他的な統治組織とをもつ政治共同体をいい,また一定の地域 (領土) を基礎に固有の統治権によって統治される継続的な公組織的共同社会ともいうことができる。(ブリタニカ国際大百科事典)」。つまり、領土+国民+主権の3点のセットです。人々の信頼と信任を得ていなければ、全土を制圧して領土を持っても、国民が逃げ出せば国家としては機能せず、その政権は立ち行かなくなるということになります。

特定の国やその背景の宗教を批判しているわけではありません。国が興り、すたれ、滅亡し、入れ替わってきた世界の歴史の中での全ての国に当てはまる教訓でもあります。他の国々や、私たちの住む日本という国、そして私たち自身の生き方さえ、考え直さなければならないことを教えられます。

2.聖書を学びましょう

これらに対して、イエス様が言われる「神の国」は、どういうものでしょうか。聖書で、学ぶことができます。

地図にありますように、ガリラヤの北の方、フィリポ・カイザリヤに行かれた時、イエス様の問いに対してペトロは「あなたはメシアです」と信仰を告白しました。「聖書に預言されていた救世主・キリストだと私は信じています」ということです。先週のZoomでベツレヘムツアーの聖書講座でもちょうどこの街について写真を見ながら学びました。フィリポ・ヘロデ王に「カイザル」、つまりローマ「皇帝」から与えられ、「フィリポ」と「カイザリア」の名が付けられた街。ユダヤ教ではなくローマの神々を祭る神殿あり、ローマ皇帝を最高の神のように崇拝する街です。その場所での、イエス様の問いかけに対してのペトロの答えは意味がありました。

その背景や言わんとする文章の間を補足するなら、さしずめこういうことになるでしょう。「人々が信じる他の神々でもなく、圧政を続け神のようにふるまうローマ皇帝でもない。悔い改めを迫りユダの王の怒りをかって処刑された洗礼者ヨハネでもない、聖書の尊敬される預言者の一人でもない。聖書が預言していた、やがて来てすべてを解決し救ってくれる神から送られた救世・メシアです」という意味の深い言葉になるのです。イエス様の教えを聞き、たくさんの奇跡も見ながら従ってきたペトロは本当の信仰に導かれていました。素晴らしい信仰の告白でした。

しかし、これに続く話では一転してイエス様に叱られ、「サタン」呼ばわりされます。どうしてでしょうか?持ち上げられたり、突き落とされたりしたのはなぜでしょうか?何が間違っていたのでしょうか。

3.振り返り

私たちは大丈夫でしょうか?「立派な信仰」の陥りがちな過ちを見ておかないと、私たちも同じ過ちをしているかもしれません。

ペトロは、イエス様をメシアであるいう信仰の目が開けていたのに、メシアが多くの苦しみを受け排斥され殺される言うことは受け入れられなかったのです。やはり権力志向や、この方と一緒にいれば自分たちにも良いことがあるとか、正しいことは押し付けてでも根づかせ、信じさせなければならないような気持ちがあるかもしれません。自分が苦労するのではなくて、分からない相手が変わるべきだ、という姿勢かもしれません。そんなペトロにイエス様はこういわれました。「たとえ全世界を手に入れても」と。たとえ全世界を手に入れても自分の命を失えばなんにもならない。そしてそれは、神の国も、神様のご支配も、全世界を制圧しても、人々の心が生まれ変わらなければ、それには何の意味もないということを表しています。

4. 勧め 

力による支配、恐怖による統治では国は立ち行きません。神様の国は、そうではありません。神様の正しさと厳しさで人々は悔い改め正しく生きようとしますが、そのためのイエス様の方法は、罰でも強制でも恐怖でもありませんでした。「こんな自分でも赦してくれるんだ」という「驚きをもって実感する神の愛」によってなのです。そのために、メシアは十字架にかかってゆかれるのでした。まさに、驚くべき愛・恵み、Amazing Graceです。

力づくで、脅かしながら進める関係は長持ちしませんし、そこに本当の安心はありません。私たちも生き方を見直さねばなりませんね。今週も、静かに祈り、物事を見直し、生きていきましょう。世界の紛争や人々の叫び、病気のまん延と、なかなかうまくいかない政治?文句を言うだけではなく、まず自分が変わり、自分ができる小さな働きを続けること、そんなことも取り組みましょう。神様の祝福をお祈りいたします。

-----------------

風の谷より・キリスト教ワンポイント解説

「鞭に背中を任せる」

 聖霊降臨後第16主日の福音書の日課はマルコ8章27~38節でペトロの信仰告白の後の十字架と復活の予告とその後です。イエスを主と告白しましたが、それに続く十字架と復活の予告は受け入れられませんでした。その時まで受け入れられませんでした。

これに対応する第一日課はイザヤ書50章4~9節です。第2イザヤの中、4つある「しもべの歌」の3番目です。第2イザヤは捕囚の後、バビロンで活動していた無名の預言者でバビロン預言活動をしていました。便宜上第2イザヤと呼んでいますが、本当にイザヤという名前だったかもしれません。多い名前でしたから。そして彼には弟子というか、後援者も多くいて、後にその預言を編集した者もいました。編集したばかりでなく「しもべの歌」を4つ作り預言書に挿入しました。第2イザヤは迫害され鞭打たれ、多くの拷問も受けました。捕囚民の解放を預言し、その解放者はペルシャ王キュロスと語りました。それはバビロニアの滅亡を意味します。そのために迫害されました。シャローム!(三木久人)

------------------
牧師コラム ゴーヤーは続くよ…
 コロナ禍で考えさせられることの大きなことは、自然環境の保護です。必要以上に開発をし農業生産を上げ富を蓄積する。自然を破壊し都市計画を進め「快適」な生活。しかし、自然はバランスを壊し、山林や獣の生活エリアと都市部の境がなくなり、新型感染症や気候温暖化による異常気象など、しっぺ返しを受けていると思います。神様が創造され喜ばれ祝福された天地万物や人間は、神様の願いから遠く離れています。
 神様を知り、その正しさと愛を知り、人間同士尊重し合い、自然を慈しむ世界にしていきたいですね。
 強い除草薬ではなく草刈りをした後畑を作り、グリーンカーテンのため植えたゴーヤはまだまだまだ実をつけて驚かせ、食卓を豊かにしてくれます。続くゴーヤー料理ですが、いろんな人に教えられバラエティーも増えました。大きな事でなくともできることから始めま
せんか?(徳弘牧師)

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。