2021年8月28日土曜日

週報・説教メッセージ 20210829

 

聖書の言葉  

申命記4: 12, 69 (285) より一部

イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。 あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。 // ただひたすら注意してあなた自身に十分気をつけ、目で見たことを忘れず、生涯心から離すことなく、子や孫たちにも語り伝えなさい。

マルコ7: 18, 1415, 2123 (74)より一部

ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

 

説教「ただひたすら」 徳弘浩隆師

1.      下駄箱に下駄は無し、無意識の行動や言葉

先日教会の前をたくさんのパトカーが走り抜けました。牧師館のペンキ塗りをしていましたが、気になってそのまま道に出ました。野次馬というよりも、何か困った人がいたら役に立てたらという思いもあり、近所の人とあいさつや話をしながら現場に向かいました。しばらくして問題は無事に解決したらしく、お巡りさんも会釈をしながら5-6台のパトカーは帰っていきましたが、知り合いになった人たちと話が弾みました。地域のこと、引っ越してきたいきさつなどの話が盛り上がり、良い出会いの時でもありました。「家の建替えで一時的に引っ越しをしてみて、少ない荷物の生活に慣れ、今までの生活を考えさせられた」との話を聞きました。私も「海外で違う文化風習の中で気づかされ、反省させられたことが多い」などを話しました。当たり前の事柄をただひたすら頑張り、一生懸命生きることの大切さと、見直すことの大切もあります。

外国人メンバーに日本語を教えていると、「この言葉の意味は、もともとなんだろう?」と言葉への感覚が敏感になります。もう使わないのに生き延びている言葉などにも気づかされます。教会の玄関で、「どうぞ、下駄箱のスリッパに履き替えてくださいね」と言いながら、「下駄なんて一つも入ってないのにおかしな話だな」と一人笑ったりします。筆箱もそうですね。言葉だけでなくて、しぐさや風習もそうです。手を合わせて「いただきます」と感謝するしぐさは美しく素晴らしいとよく言われますが、しぐさの意味が分からないという指摘もあります。「もう少しください」とか、「あなたのお皿から少し分けてください」とお願いしてると思う人もいるそうでビックリします。

神様との関係ではどうでしょうか?今日の聖書では、食事の前に手を洗う・洗わないが論争になっています。何が問題で、何が大切なのでしょう。

2.聖書を学びましょう

食事の前に手を洗うことはもちろん大切なことで、だれも否定しないでしょう。ウイルス感染症が猛威を振るう中ではますます大切なことですね。しかし、今日の聖書の話では、それ以上の意味がありました。宗教的な規定です。手先だけではなく、腕まで、決まりに則り清めてから食事をすることでした。たくさんの規定がありました。今でもユダヤ教では、家に入る時には玄関わきにある神のことばが書かれたメズーサというものを触り祈り、水を飲むときも、食事をするときも唱える言葉があります。後に生まれたイスラム教でも祈る前には手と腕を左右順にしきたり通りに洗い、絨毯を敷いて決まった方向を向いて膝まづきながら、決まった言葉としぐさで祈ります。アフガニスタンのこともニュースで聞き、教区の伝道セミナーでもパレスチナのベツレヘムのことを学んでいるので、そういう決まりも気になりますね。現代のイスラエルのドラマを見ると、ドラマの流れ以外にも、ユダヤ教やイスラム教の風習も言葉の違いも興味深く見ることができます。

さて、イエス様の弟子たちは手を洗わないで食事をする者がいるのを見たファリサイ派の人たちはイエス様に尋ねます。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」と。それは、質問というよりも、非難でもありました。話題の宗教指導者のグループをわざわざエルサレムから見に来て、教えや業には驚いたけれど、その生活ぶりにつまずき、批判したのでしょう。かれらは、聖書のおきて通りに厳格に生活をすることを大切にしていたユダヤ教の一派だったからです。

それに対してイエス様は、イザヤ書2913節を引用しながら、口先ではなく心で、人間の戒めではなく神様の心を知ることの大切さを、説かれたのでした。そして話を進め、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」と続け、人間の心と、そこから出てくる生き様を問題にされました。

3.振り返り

私たちはどうでしょうか?神様の言葉から遠く離れ、いい加減に生きていてはいませんか?「いいえ、そんなことはしていません。わたしは、神様の言葉を大切にして、一生懸命に聖書の言葉の通り生活しています」という人もいるかもしれません。これら二通りの生き方、それぞれの人たちに、イエス様はの言葉は響きます。私はどちらでしょうか?

神の言葉から離れ、いい加減に生きているなら、神の言葉を大切に生きるように反省せねばなりません。

そして、神様の言葉を大切に一生懸命生きていると思うなら、つまり、今日の聖書のファリサイの人たちがそうだったのでしょう。そんな自分には、掟や形ではなく、神様の心をよく知り、それを大切に生きることを学ばねばなりません。

. 勧め 

先週まで、「イエス様は天から降ってきた生きたパンだ」という話をしばらく学びました。私が神学校にいたころ教義学を教えてくださった尊敬する石居正巳先生は面白いことを言われました。「ファリサイ派の人たちは、こうしたきまりを重視していた。いわば命のパンよりもその容器の方に注意を向ける結果になっていた」と。

神の言葉よりも、その入れ物、外見、やり方に一生懸命になり、ただひたすらそれを大切にしていたのです。料理は器や盛り付けも大切ですが、味付けや、その料理に込めた愛情や配慮、思いを大切に味わうなら、もっとおいしく、また体のためになるでしょう。

形骸化していた当時のユダヤ教を超えて、神様の心、それを大胆に教えたのがイエス様でした。そして、その神様の心のゆえに、その愛のために、身代わりの十字架にかかり私たちのために、命を捨ててくださったのです。私たちは、この方の言葉から、神様の厳しさと愛を知りました。「器だけ立派」ではない生活をいたしましょう。

 

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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説

「デュトロノミィ」

聖霊降臨後第14主日の福音書の日課はマルコ718節他です。イエスさまの弟子たちが手を洗わずに食べる所をファリサイ派の人達が非難する所です。勿論食べる前に手を洗うというのは大切な習慣ですが、彼らが洗うと言っているのは腕でした。衛生意識からではなく、清めの儀式でした。律法よりも儀式を大切にしていたのです。

これに対応する第1日課は申命記419節です。律法の再読という内容ですが、これが「申命記」の言葉の意味です。命を伸ばすという意味ではありません。ヨシア王の時代、神殿から文書が発見され、それがヨシア王による信仰復興の発端となりました。その文書が申命記と言われています。ただこれは昔からあったのではなく、信仰の復興を願う人たちによって書かれ、宝物殿に置かれたものと考えられます。ヨシア王の信仰復興政策を申命記革命と呼んでいますが、その最大の政策がエルサレム神殿への祭儀集中でした。シャローム!(三木久人)

 

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難しい時代、落胆せず、希望を持っていきましょう。

教会でお待ちしています。徳弘浩隆牧師





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