新型コロナ感染の拡大が止まりません。気を付けて過ごしましょう。希望がないように見えるとき、どこに希望がありますか?神様にとどまるか、迷い出ることもあるかもしれません。一緒に考えてみましょう。
聖書の言葉
ヨシュア24: 1~2a, 14~18 (旧376) より一部
「イスラエルの神、主はこう言われた。あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。 もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」民は答えた。「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」
ヨハネ6:56~69 (新176) より一部
このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
説教「行くか残るか」 徳弘浩隆師
1. 川を渡るということ
岐阜教会から大垣教会に通う時、いつも気になるところがあります。それは、長良川沿いの土手を急ぐ時、土手に小さな小屋があって時々おじさんがいるのでスピードを落としながらその看板を読みます。「小紅の渡し」とあります。こんなところで、何をしているんだろうか。今どき、こんなものを利用する人がいるんだろう、と思いながら。
今日の聖書を読んでいて「川を渡る」ということを考えさせられました。調べてみると、川の多い岐阜県では昔は渡し船の渡し場が12か所もあったそうですね。その中の一つの「小紅の渡し」は唯一今でも運行されているとのこと。なんと、県道に接道しているので県の事業として運営されていて職員は公務員、利用料は無料とのことです。今ではたくさん立派な橋が出来ていて、日常的に「橋を渡り」ますが、「川を渡る」という意識が少ないかもしれません。今日は聖書の話から川を渡るということを考え、私たちの生き方、選択、神様との関係を考えていきましょう。
2.聖書を学びましょう
今日の聖書のイエス様のお話にも、パンの話が出てきます。ここ数週間ずっと、「天からのパン」そして「キリストの肉と血」のお話が続きました。「今日もまた似た話が続くのですか?」とか、「さあ、いよいよ終わりそうだ」という感じもします。でも、今日は大切です。なぜなら、これらの話を聞いてきて、「あなたはどうしますか?」と問われるからです。
先週考えたことですが、少し復習しましょう。モーセの出エジプトの時の神の奇跡、つまり水を得、天から降ってきたマナとウズラを食べて生き延びたことは、彼らのユダヤ教の宗教的原体験でした。時を経て、社会の混乱の中、モーセのような預言者を立てるとの神の約束があり人々は待ちました。本当の救いと永遠の命を与えるために天から降ってきたのがメシアである私だと、イエス様は分かりやすく説明されました。ただ空腹を満たす食べ物ではなくて、イエス様をメシアとして受入れること、つまり天から降ってきたパンとしてのキリストの肉を食べ血を飲むなら、その人はキリストのうちにあり、キリストはその人のうちにある、と言われたのです。聖餐式としてもこれは続けられています。
ところが、それを理解できない人たちは、「私の肉を食べ血を飲む」という表面の言葉に驚き、つまずきました。そして群衆は去り、弟子たちの多くは去ったのです。半信半疑の人はたくさんの人が去ったので、一緒に去ったでしょう。残った12人に「あなたたちも離れて行きたいか」とイエス様は尋ねます。それに対して一番弟子といえるペトロはこう答えました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
3.振り返り
私たちはどうでしょうか? たくさんの奇跡や自分に都合の良いことがあるうちは嬉々として信仰を持ちます。しかし、うまくいかない事、なかなか願いがかなわない事などを前にすると、理解できない神の声を受け取れず、信仰の道から去ってしまうことがないでしょうか。今日、私たちにも問われています。
それは今日の旧約聖書の出来事でもありました。モーセの後を継いで約束の地に入っていくことを実現した指導者ヨシュアでしたが、彼も全民族の人々に尋ねたのです。神はユーフラテス川の向こうで他の神々を拝んでいたアブラハムを選びカナンの地に住まわせたこと、イサクの子ヤコブとエサウ(ここにもヤボク川が出てきます)、そしてヤコブの家族のエジプトへの移住、時を経てエジプト脱出をして葦の海とヨルダン川を渡ってカナンの地に入っていく神様との歴史を長い説教で説明し、最後に尋ねます。「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。 もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」と。
壮大な神様との数千年にわたる救いの歴史を振り返り、そのたびに川を渡ってきたことを思い起こさせ、ここに残るか、神を捨てて川を渡って戻るかを迫ります。壮大な神様とのドラマを語ったヨシュア(イエシュア)ですが、後にメシアとして来られたイエス様と同じ名前というのも神様の歴史の支配を感じます。ワクワクしますね。そして、ヨシュアは「私と私の家族は主に仕える」と宣言し民も従いました。福音書では、イエス様に尋ねられたペトロは「主よ、私たちは誰の所に行きましょう」と堅い信仰を告白しました。今日の私たちの、そして私の、答えはどうでしょうか?
4. 勧め
今年の教会の総会での言葉を覚えていますか?「時が良くても悪くても(宣教に励みましょう)」でした。時が良い時は問題ありません。希望が見えず、時が悪い時が、私たちの「正体」があらわにされるときです。
では、希望がなくても、神様のもとにとどまる理由は何でしょうか?それを考え、味わい、苦難の中でも信仰と希望をもって、歌いながら歩むために、今日は新しい賛美歌を紹介します。「だから今日希望がある」というアルゼンチンの讃美歌、演奏次第ではタンゴ調でもあるシンプルな歌です。「だから今日希望がある」、だから今日も神とともに生きると、口ずさみながら過ごしましょう。
希望がないと思えるときでも信仰と希望がある根拠は、イエス・キリストなのです。苦難の時に、または、川を渡るごとに、思い出しましょう。
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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説
「私の家は主に仕える」
聖霊降臨後第13主日の福音書はヨハネ6章56~69節、イエスさまの肉と血を摂るという言葉に集まっていた人々が拒み、弟子たちを含めて皆去ってしまいました。12人の弟子たちは、神の言葉を持っておられるのはあなただけと去ることなく、イエスさまに仕えていました。これに対する第1日課はヨシュア記24章1~2a、14~18節です。モーセの後を引き継いでイスラエルの民をカナンの地に導いたヨシュアでしたが、ヨシュア記の最後の所でイスラエルの民に「仕える神を今決めよ」と迫ります。「私と私の家は主に仕える」と言いながら。彼らが到着したカナンの地やモアブの地にはいろいろな民族が集まり、中にはモアブのように最も大切な捧げものとして自らの子を捧げるという所までありました。時を経てユダ王国のヒゼキアとマナセ王は周辺地域と同盟を結ぶため、その習慣を取り入れ、神の激しい怒りを招き、王国滅亡、バビロン捕囚の原因となりました。最後まで主に仕えることが大切です。 シャローム!(三木久人)
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