2021年8月15日日曜日

週報・メッセージ 20210815







聖書の言葉  

ヨハネ6:51~58 (新176)

わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。 

イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」


説教「永遠に生きる」 徳弘浩隆師

1. パンとごはんとおにぎりと…

今日は岐阜教会では、召天者記念礼拝です。たくさんの方のお写真が飾られ、先に天に旅立たれた方々を思い出しながら、礼拝をいたしましょう。

さて、オリンピックも新型コロナで賛否両論でしたし、行方不明選手や帰国拒否と難民申請者もあり、考えさせられもしました。しかし、元気をもらったり、心動かされたこともありました。いろんなことがありましたが、海外選手団には「おにぎり」が評判が良くて、きれいに開けることが出来たとか、帰ってもおにぎりが食べたいというSNSでの投稿も多かったそうです。

ブラジルは朝はパンを食べますし、教会の目の前にはパダリアと言って朝から焼いているパン屋さんがあり重宝しました。しかし教会で月に一度のシュラスコ会(ブラジル風バーベキューで教会内外の人を招いた交流会)では、おにぎりが人気でした。作り方を教えてほしいとのことで、日系人のご婦人方にお教えしても、きれいに三角形に握るのは意外とむつかしいらしく、出来上がったものは大小・形も様々で、一緒に笑いながら食べたことも思い出します。

そして、8月中旬の「お盆」の時期には、ブラジル南部の州の日本人の移住地の方々に招かれて、合同慰霊祭をしていました。二か月に一度、東京-熊本くらいの所に飛行機や長距離バスで行き、教会メンバーの家をバスで移動し数か所泊めてていただきながら日本語で礼拝をしていましたが、冬の8月は慰霊祭、真夏の12月はクリスマスと特別な会でした。慰霊祭は日系人団体の主催なので多宗教合同です。仏教、カトリック、プロテスタントの順番で礼拝をしました。同じ会場で、参加者も入替なしで、3部に分かれますが、焼香をしたり賛美歌を歌ったり互いのしきたりを尊重していました。日本国領事も来られて礼拝後は一緒に食事をして、近況を語り合ったりもする大切な場でした。ある年、「牧師さんすみませんが、順番を変えてプロテスタントから始めていただけませんか?」と急に言われたことがあります。快諾しましたが理由を聞くと、「仏飯をたくのを忘れて間に合わないので、ずらしてもらおうかと思ったけれど神父さんはまだ到着していないからです」ということでした。

カトリックは神父さんだけが聖体拝領をするミサでパンを使います。プロテスタントの私たちとしては聖餐式はなくて未信者の方にもわかりやすい聖書のお話をしていましたが、仏教では「ごはん」が炊けていないと読経が始められないと聞いて、大変驚いて興味深く思ったのを覚えています。でもそこはブラジルのこと、女性会の二世のご婦人たちも「炊飯器のスイッチを入れ忘れてすみません」と笑いながらあやまり、「まあ、そんなこともありますよね」と、楽しく過ごしました。

2.聖書を学びましょう

今日の聖書のイエス様のお話には、パンの話が出てきます。先月からずっと、「天からのパン」「まことのパン」というお話が続きます。

パンでもおにぎりでもご飯でも、私たちが生きていく上では大切なものです。しかし、空腹を満たす食べ物としてのパンだけではなく、本当のいのちを与え、永遠に生きるためのパンとして、イエス様は人々に教えを語りました。ユダヤ人は昔、飢饉の時に隣の大国エジプトに身を寄せ、いわば難民のような生活をしていました。しかし時が流れ、ユダヤ人人口も増えエジプト社会では疎まれるようになり奴隷のような生活を強いられるようになり、帰国しようとしますが認められず、モーセに率いられて脱出するという出来事がありました。その出エジプトの出来事がユダヤ教の一つの原体験で、荒野を旅する帰途の途中、自由を得たけれど空腹で死ぬならエジプトの奴隷の方が良かったと不平を言う人々に、祈り奇跡として、水を得、天から降ってきたマナというパン菓子のようなもの、そしてウズラの大群をとらえて生き延びることが出来たのも、彼らの宗教的原体験でした。そしてそれを下敷きにして、本当の救いと永遠の命を与えるために天から降ってきたのがメシアである私だと、イエス様は過去の出来事と重ね合わせながら、分かりやすく説明されているのです。ただ空腹を満たす食べ物ではなくて、神様からのパンを食べなければ本当のいのちはない、と言われました。イエス様をメシア、つまりキリストとして受入れなければという意味なのです。

天から降ってきたパンとしてのキリスト、その肉を食べ血を飲むなら、その人はキリストのうちにあり、キリストはその人のうちにある、と言われました。ミサの中でパンとぶどう酒を分けていただく聖餐式としてもこれは続けられています。これを通して、知識として聖書を学んで信じるという表面の出来事だけではなく、食べて飲むということ、つまり生きるということの中にキリストとともにあるということを私たちは続けています。

3.振り返り

私たちの毎日はどうでしょうか? キリストがわたしのうちに生きているでしょうか?私はキリストのうちに生きているでしょうか?ただ空腹を満たすために食べて生きているということと、聖書を読み神様を知って生きているというのは違います。そして、知っているだけではなくて、キリストのような愛をもって生きているかと違いも大切です。そんな生き方をしていきましょう。しかし逆に、聖書のすべてを理解して知っていなくても、キリストが自分の中に生き、自分がキリストの中に生きることはできます。神の愛を知り、謙虚さをもって神様と人に接するときに、それは実現するはずです。それは、一生懸命に修行をして、供え物をしたらできることではないのです。キリストの教えに謙虚にしたがうこと、それだけです。

4. 勧め 

仏飯が準備できないと読経が始められないという話でしたが、それを笑うことはできません。私たちもパンを準備し忘れたら、聖餐式が出来ずに困り、買ってくる必要があるからです。しかし、大切なのは、何のためにそれをするかでしょう。仏壇に線香や花や明かりお水とともにご飯をお供えすることも尊いことでしょう。しかし、私たちのキリストは、お供物を受け取る方ではなくて、自ら供え物として命を十字架に投げ出された方だということを思い出しましょう。受けることよりも与えることが、神様の愛です。この方とともに生きるということは、そういう愛を教えられ、そのように自然体で生きることです。今までの自分はどうしても、妬みや偽りや批判という罪とともに生きています。しかし、自分が持っているその罪のために、身代わりに十字架で死んでくれた方を見上げるときに、力を抜いて、自然に従って生きることが出来るようになります。

今までの罪深い自分は、自分で何とかしようとしても無駄な努力です。そういう相談を受けることが良くあります。しかし、なんとかしようと思っても何ともならない自分に絶望して、神様にお任せするときに、神様のゆるしと愛が入ってくるのです。キリストにつながって、一緒に信仰を持ち、歩みましょう。

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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説

「まことのからだ」

聖霊降臨後第12主日の福音書の日課はヨハネ6章51~58節です。この一連のイエスさまの教えはパンの奇跡から続くものでした。それが今回「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」といつの間にか飲む血が加わっています。これは聖餐式の教えを含んでいるからです。

これに対する第一日課は箴言9章1~6節です。箴言の箴は竹製の針で、これでチクチク体を刺す言葉という意味で、諺集のような書です。今回の箴言は諺というより賛です。知恵が擬人化され、食卓を整えて知の弱い人を招くという内容です。神の知恵が受肉し、人の世に現れたのがイエスさまですからイエスさまを賛っています。イエスさまが私たちを招き、食卓を整え、イエスさまの肉と血が私たちを生かし、永遠のいのちへと導くものです。それでイエスさまの肉の血は「まことのからだ」ラテン語で「ベルムコルプス」アベアベ(めでたし、めでたし=最敬礼)シャローム!(三木久人)

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牧師のお手紙 思い出の写真
説教の欄に書きましたが、ブラジルでは異国で苦労も乗り越えて身を寄せ合って生きている日系人の方々と出会いました。こどものころ移住して日本語もおぼつかないと自信がなく、ポルトガル語の国で生き抜き、また子育てをしたりもし、素朴な信仰とともにたくましく生きておられる方が多くおられました。破産して苦労したことがあるなどの失敗も笑いながら語り合い、いいところを見せるのではなくて、ボロも見せあう自然体の信仰を教えてもらいました。
合同慰霊祭にはブラジル人で日本にも留学していたお坊さんやアメリカから移住したお坊さん、ブラジル人や日本でも働かれた日系人の神父さんと順番に式をし、共に食事をし、皆さんと交流しました。自分の信仰を大切にしながらも他者の信仰やしきたりも尊重する寛容さ
が好きでした。(徳弘浩隆)

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