聖書の言葉
聖書 マルコ5:21~43 (新70) より
さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 ---- イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。 --- そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。
説教「起きなさない、行きなさい」徳弘浩隆師
1. 「時間が止まってほしい」と思うことが…
木曜日は一日仕事部屋にこもって仕事をすると決めていました。「今週は説教を書いて週報を少し早く仕上げてしまわなければならない」と思っていたからです。メイルやメッセージもありましたが、順調に進みもう少しで完成という時、急に妻が「早くいかないともうお店が閉まるかもしれない」と言い出しました。それでもう一つの予定を思い出しました。ペットボトルのゴミ出しと、それぞれの両親への贈り物を買いにいくと約束していたのです。忙しくて母の日も父の日も何もできず、反対にそれぞれの実家で採れた野菜などを送ってもらう側になっていました。色々考えましたが良いものがなく、以前喜んでくれた岐阜のお菓子を送ることになり、岐阜駅のお土産屋さんに行くことにしていたのです。しかし、駅構内に出店しているお店は5時に閉まるかもしれないと、焦りだしました。慌てて支度をして車で向かいました。「もし5時に閉まるとしたら後30分しかない。速度違反をするわけにはいかないので、できることなら時間が止まってくれたなら」と時計と前方を両方交互に見ながら急ぎ運転しました。
無事にお店には間に合い、買い物を済ませました。しかし、駐車場に戻る時にまた「時間が止まってくれたら」と祈りました。20分まで無料の所にとめていたけれど、1分だけオーバーしそうだったからです。「ああ、もうだめだなぁ。過ぎてるよ」と言いながら出口に行くと、ゲートの機械は「無料です」と言ってゲートが開きました。200円くらいのことですが、「ああ、神様ありがとう」と帰ってきました。
一刻を争う時、「時間が止まってくれたなら」と思うことは誰にもあるでしょう。今日の聖書もはらはらする話です。神様は何を教えたいのでしょうか。
2. 聖書を学びましょう
二人の女性が出てきます。会堂長が娘が病気だとイエス様に助けを求めてきたのでイエス様たちは向かいました。しかし途中で、もうひとりの長患いの女性が登場します。この女性は今うわさの人、イエス様の衣にでも触れるなら癒されるかもしれないと、一縷の望みを託し、その瞬間に癒されました。問答の後に、イエス様はその信仰を誉めました。
それは良かったのですが、会堂長の方は気が気ではありません。イエス様に早く来ていただきたいのに、とんだ出来事が起こり、足止めされてしまったからです。そして、そこに使いが来ました。「お嬢様は亡くなったのでイエス様においでいただくまでもありません」という知らせをもって。会堂長の落胆は計り知れないものだったはず。そして思ったに違いありません。「こんな邪魔者が現れなかったら、うちの大切な娘は死なずに済んだのに」と。しかし会堂長というくらいですから、ユダヤ教のなかでは教会の責任者ともいえる宗教指導者の側の人でした。人の幸せと救いを願い、そこに奉仕もする側の人です。しかし、天秤にかけてはいけないことですが、自分の大切な娘も一刻を争う状態なのです。「時間が止まってくれたなら。もう少し持ちこたえてくれたなら」と祈り、知らせを聞いた時は「時すでに遅し」と落胆したに違いありません。
しかしイエス様はそんなことを意に介さないのです。「眠っているだけだから心配ない」といい、失笑を買ってしまうような状況です。そして、人々の疑いや戸惑いをよそに、少女に声を掛けます。するとその通り、彼女は目を覚まし歩き出したのです。
3.振り返り
学ぶべき事は、「奇跡が起こる」ということではありません。それを通して何を学ぶかが大切です。私たちはどうでしょうか?私たちも、人の救いや幸せを願いますが、自分のことと両立しにくい状況なら、どちらを選ぶでしょう?「あの人が救われるために、自分の子は死んだのだ」という状況は苦しいものです。
私は、この会堂長が気の毒でなりません。しかし、興味深いことに気付きます。この二人の女性はともに、12年間という時間と戦っていたのです。「何をしてもうまくいかない、忘れてしまいたい、終わりにしてしまいたい12年間」。もう一人は「親子一緒に楽しく過ごした、忘れてしまいたくない、終わりにしたくない12年間」。この二人の女性の人生が交差し、一刻を争い、一方をとれば他方が不幸になる、そんな話ですが、イエス様は両方に解決と将来をくれました。一人は強い信仰。しかしもう一人は言われるがままに起き上がり歩いただけです。もちろん父親の会堂長のイエス様に対する信仰はあるでしょう。しかし彼は一度、絶望したかもしれません。これを実現するのは「あの人が救われるために、自分の子は死んだのだ」ということが起こります。キリストの十字架です。その一方的な愛で、私たちは解決をいただくのです。
4、勧め
あなたの忘れてしまいたい、終わりにしたいことは何ですか?あなたの、忘れたくない、終わってほしくないことは何ですか?両方かなわないなら、犠牲にしたくないことは何ですか?ハラハラして、一刻を争い、選択せねばならないとしたら。しかし、イエス・キリストは、両方に救いと将来をくださいました。私たちは、安心していいのです。しかし、安心して座ったままではいけません。イエス様は二人の女性にこう言いました。「安心していきなさい」「さあ、立ちなさい」。私にもこの言葉はかけられています。さて、どこに行って、何をしますか?あなたの新しい人生です。
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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説 「アレクとベスの詩」
聖霊降臨後第5主日の福音書は、イエスさまの業を悪霊の頭ベルゼブルによるとのファリサイ派の難癖とイエスさまの反論、それをナザレを出てイエスさまを取り押さえに行こうとするマリアや兄弟たちの行動で挟んでいる箇所です。こうして両者を結びつける手法はマルコが好んで用いています。これに対応する第一日課は哀歌3章22~23節です。苦しみの中にあってもそれを遥かに勝る神の慈しみがあるという詩です。イエスさまの業は悪霊由来ではなく神の慈しみの顕れです。哀歌は歴代誌下35章25節にヨシア王を悼んでエレミヤが哀歌を作ったという記事からエレミヤ哀歌と呼ばれ、預言書の列に入れられました。しかし内容がかけ離れているので、今は歴代誌の記事とは無関係とされています。哀歌の詩はアルファベットの詩と書かれていますが、章内の各節の頭文字がアルファベットの順になっているからです。アルファベットという言葉はヘブライ語のアルファベットの最初の2文字「アレクとベス」が語源です。シャローム!シャローム!(三木久人)※上写真:ヘブライ語の哀歌 文字は右から左に読みます
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牧師からのお手紙・サンデークリスチャン?
今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め…(申命記6.4-9)
「日曜日はいいけど、ウイークデイは聖書を忘れてしまって、つい怒ったりして駄目な自分なんです」と相談があります。日曜日だけクリスチャンというのを自嘲気味にサンデークリスチャンといいます。毎日教会で集会がたくさんあれば良いかもしれませんが、仕事や生活もありますから、それが出来る人ばかりではありません。そもそもユダヤ教では7日目の安息日でしたが、キリスト教では主が復活された週の最初の日に礼拝をします。週日でも、各自、朝夕の祈りと聖書を読む時間を持ちたいですね。
旧約聖書にはこんな言葉があります。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」。ユダヤ教の人は玄関横のメズーザーという小さな印を触って祈って入ります。ホテルにもあります。掟を実践しているのですね。
私達も家の玄関の壁に十字架をかけたりするのも良いかもしれません。拝むためではなく、都度神様を思い出して祈るためにです。私は絶望した時に見上げたら、ちょうどそこに見える所に、フランチェスコの十字架をかけています。(徳弘)
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