2021年6月12日土曜日

週報 礼拝メッセージ 20210613

 


聖書の言葉 

聖書 マルコ4:26~34 (新68)

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 32蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。


説教「神の言葉という種」徳弘浩隆師

1. 食べようと思ったら芽!

 今年も5月になったら、福岡の実家から小さな箱が送られてきました。開けてみると中には一杯のえんどう豆。少し塩味を利かせた豆ごはんにすると、見栄えも味も良くて、久しぶりの日本の味で、楽しみにしていました。豆をさやから出して、少しざるにでも開けておきたいのですが、忙しくて数日放置していました。そして、時間が出来たときに、さやを二つに開いて、中の豆を取り出します。きれいな緑色の豆が几帳面に並んでいて、驚きます。上手に割ると、豆は交互に右側と左側のさやについていて、神様の創造の秩序正しさに目を奪われてしまいました。しかし、今年はもう一つ驚いたことがありました。さやの中できれいに並んだ豆から、窮屈そうに芽が出ているものもあったのです。父の収穫が少し遅かったのと、輸送して開けるのに少し日にちが経っていたからかもしれません。色鮮やかな緑色の豆を食べようと思っていたら、その豆から芽が出てきていたのは、当たり前のことですが、普段の生活にはない驚きでした。生活が分業化され、自分の仕事や関心のことしか見なくなっています。「食べる豆は、芽が出る種でもある」ということを忘れていたのです。種の話、今日はイエス様のたとえ話で登場します。でも、生物や農業の話ではなくて、「神の国」の話です。聖書を学んでいきましょう。

2. 聖書を学びましょう

「神の国」をイエス様は分かりやすいように、たとえ話で説明しました。「神の国」「天国」?仏教でも極楽浄土の説明や説話があります。わかりやすく描かれた、地獄と極楽の絵もあります。こどものころ祖母に連れられて行ったお寺の地獄の絵が怖かったのを覚えています。うそをついたら閻魔帳にメモされていて、地獄で舌を抜かれる、そんな絵でした。極楽は蓮の花が咲く綺麗なところ。子ども心に目と心に焼き付いて、「悪いことをしたらいけない」と思っていましたから、十分な宗教的・教育的効果があったものと思います。

イエス様はどのように説明されたでしょうか?聖書でも、「永遠の炎の刑罰」や、裁きの炎で水を求める人たとえ話もあります。実らないブドウの枝は切り取られて捨てられ、蒔きにされてしまうという話も。

それに対して「神の国」が今日のテーマです。気を付けなければいけないことは、「神の国」という言葉は、「神の支配」という言い回しの言葉です。神様が支配される正しい世界。それは、どこかに場所としてあるというものではなくて、神さまが支配されるところはどこでも神の国であり、私たちの中にも気が付かない間に始まっているのだということです。それは、人間の努力によるものではなくて、神様からの一方的に託されていたこと。自動的に芽が出て育ち、大きくなるものだという、神様の恵みの大きさを説明されました。そしてそれはどんなに小さなものに見えても、成長してどんな野菜よりも大きくなるというのです。

3.振り返り

私たちの身の回りはどうでしょうか?それはもう始まっていますか?私たちの心の中に、その種は目を出して、ぐんぐん伸びていますか?種をまく前から、もうすでに、さやの中で芽を出し始めていたえんどう豆のように、強いいのちの力を持っているのが神様の言葉です。それを、どう扱っているでしょうか?

「連作障害」という言葉を去年学びました。こういう説明です。「毎年、同じ場所に同じ野菜を栽培することを連作といいます。 そうすると、その野菜を冒す病原菌や有害線虫が多くなったり、土壌の中の養分が不足したりして、野菜の生育が悪くなります。 これを連作障害といいます」。土の通気性や排水性、肥料の偏り、土中の微生物の偏りの三つが大きな原因とされています。これを解消するには、どうしたらよいでしょう。作物を変えること、土壌消毒や改良をすること、そして、もう一つは接木だそうです。わたしも去年ゴーヤーを植えて困るほどたくさん採れましたが、今年も同じ狭いところに植えました。グリーンカーテンにしてエアコン利用を減らし、雑草対策と環境問題を考えようとも思いました。そして、今年苗を買いに行って見つけたのは、「接木苗」でした。連作障害に強い台木の上においしい品種の穂木を継いである苗です。一つ買って植えてみました。

4、勧め 

聖書によると人は神に背き、罪を犯しました。神を捨て、善悪を勝手に判断して生きてきました。神を信じないだけでなく、人は人を信じれなくなり、諍いや争いをしてきました。代々何千年しても変わらない争いを続けています。世界で、この社会で、友人関係や家庭で。そして自分の心の中でも葛藤という争いは続いています。「罪人の連作障害」ともいえるかもしれません。私たちは、自動的に芽が出て大きく成長するはずの神のことばという種を持っているのにです。それをもう一度活性化させるには、イエスキリストという木に、接木されるしかないのかもしれません。そのために十字架があります。聖書を学び、洗礼を受け、生まれ変わるとはそういうことです。今までを断ち切って、新しいいのちを生きませんか?教会はあなたをお待ちしています。 

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「人生百年に向かって」 自宅で講演会参加!ご覧ください。-講演会(70分)

日本福音ルーテル教会の女性会連盟の総・大会の礼拝と講演会にの講師は潮谷美子氏。ルーテル熊本教会員、社会福祉法人慈愛園の長年の勤務の後、熊本県知事、大学理事長等を経て現慈愛園理事長。老人福祉法がルーテル教会施設から提案され制定されたこと、知事の経験や、高齢化社会やAI社会でのキリスト教会の大切な役割など学ばさせられます。https://youtu.be/iidCMOYHz_Y または左のQRコードをスマホで読み込んでどうぞ。

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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説 「贖いの準備」

聖霊降臨後第3主日の福音書はマルコ4章26~34節「からし種のたとえ」です。イエスさまはよく、たとえの題材に嫌われものを選びます。サマリア人やパン種など。からし種もそうです。砂粒みたいな種から鳥が巣を作るような大きな草木に育つので、畑の栄養分を全部吸い取ってしまいます。他の作物ができないので嫌われものです。

これに対する第1日課は、エゼキエル書17章22~24節のレバノン杉の幻です。高い山とはヘルモン山で2800mの山です。山の高い所では木もなく常に雪を頂いている山です。そのような山の上でも、神が移し植えれば生い茂り、鳥が巣を作るようになるとい幻です。「王国滅亡の憂き目に遭い、捕らえ移されても再生の希望を持ち続けよう、神さまがいるのだから」という預言です。レバノン杉は宮廷や船、皇帝の権威に係る者に使われています。十字架もその一つです。ヘロデ大王の死後、長男のアルケラオがユダヤを治めましたが、残忍で失脚したため、ローマの総督が派遣されました。そしてローマ式の死刑法の十字架が採用されました。シャローム!(三木久人)

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牧師からのお手紙

聖書は好きだけど人間関係が… 

「鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。」(箴言27.17)

 「家で聖書を読んでいて、祈りもしてるから、教会に行かなくてもいいでしょ。だって人間関係が煩わしいから」という相談も受けます。家庭や職場、そして教会でも人間関係はあります。苦手なタイプの人もいるかもしれません。そもそも、教会で出会わなければ、こういうタイプの人、こういう職種の人とはしゃべったり一緒に食事をしたりしなかったかもしれないということもお互いにあるかもしれません。教会も一つのコミュニティです。

嫌な人、嫌なものから逃れて自分だけで生きていけば、心静かでよいかもしれません。しかし、それでは、大切なものを失います。それは、罪の自覚、祈り、共生、和解、成長…という事柄です。苦手な人を見ることは、自分の心の中に嵐が吹き荒れます。しかし、それで初めて、自分の心の中の罪に向き合わされます。そして祈りに導かれます。共生すること、そしていつか和解に導かれ、一回り愛の大きな人間にされます。

教会は、「罪をゆるされた罪人の集まり」です。「聖人の集まり」ではありません。「自分も含めて」です。山で祈っていても自分は変えられず、成長もしません。聖書の言うとおり、「鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される」のです。ブラジルにもことわざがありました。「右手を洗うのは左手だ」と。昨日、水道管の修理をして泥やセメダインで汚れた手を洗いながら思い出しました。右手も左手も、きれいになるためには、互いに必要な存在なのです。(徳弘)

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