聖書の言葉
聖書
ヨブ38: 1~11より (旧826)
主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。
マルコ4:35~41 (新68)
その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
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説教「高ぶる波をここで」徳弘浩隆師
1. 「信仰があれば山でも動く」といいますが…
教会の前に、赤い小山が二つあって、「あまりきれいじゃないが、いつ片付くのだろうか」とお考えの方もおられるかもしれません。雑草対策の作業中で、もう少しお待ちください。何度草刈りをしても、雨が降って日が出ると2週間後にはまた伸びて同じこと。コンクリかアスファルトできれいにしたいところですが、予算もありませんので、こういう作戦です。除草して、その上に防草シートを敷いて、それだけでも見栄えが悪いので、その上に瓦砕石を敷いています。土と違って排水もよく、適度に蓄水して気化熱も奪いヒートアイランド対策にもなり、砂利のように高価でないので評判のようです。法律でも数年前に正式に認められたそうです。しかし妻と二人で少しずつするのは予想以上に時間がかかります。思い出す聖書の言葉はこれです。「信仰があればあの山に向かって動けと言えば動く」とイエス様が言われました。二人であの赤い山を見ながら、「信仰があればねぇ」と苦笑いしながら作業しています。しかし、通りがかりの近隣の方ともあいさつや話も弾み、伝道にもるかなと思っています。コロナで集会が出来ない間、何とかやってしまえば、数年は草刈りから解放されるのではと願っています。
そんな具合に先週は、「信仰があれば山が動く、かぁ」と思いながら、今日の聖書の言葉もかみしめながら過ごしました。聖書を学んでいきましょう。
2. 聖書を学びましょう
先週まで「神の国」とはどういうものか、をイエス様はたとえ話で説明しました。場所はなんと、船の上からでした。4章のはじめでは、「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。」とあったのです。
群衆に船の上から説教をされたイエス様は夕方に、「向こう岸に渡ろう」といわれました。向こう岸というのは、異邦人たちが多く住む地だと考えられます。「神様の国」は場所ではなく、神様の「正しさと愛の」ご支配があるところ、私たちの心にまかれた「信仰」という種が自動的に大きく成長するように、もう始まっているということを群衆も弟子たちも学びました。そして、次は、旧約聖書の神様のことを信じず理解しない外国人の地に向かうのです。きっと難しいことも起こるでしょう。一筋縄ではいかないでしょう。そこへ向かう船は、さっそく大きな試練に会います。湖の上で「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほど」になったのです。
弟子たちは信仰と神様のご支配お話を聞いたばかりです。どう対処したでしょうか?「信仰があれば大丈夫、神様のご支配の中にいるから安心していてもよい」と思ったでしょうか?残念ながらそうではありませんでした。イエス様を起こして苦情を言いました。「私たちがおぼれてもかまわないのですか?」と。「信仰と神様の支配」はどこへ行ったのでしょうか。
イエス様は起き上がって、風を叱り、湖に「黙れ静まれ」といわれると、すっかり凪になりました。この奇跡に目を奪われてはいけません。イエス様は、奇跡を起こすのが目的ではなく、神の支配はこのようなものだと、どんな時にでも神を信頼すべきだということを身をもって教えられたのです。
3.振り返り
私たちの生活はどうでしょうか?先週の日曜日に、「信仰と神の支配」を学んだばかりですが、さっそく起こった身の回りの嵐のような出来事に、慌ててしまっていたということはないでしょうか?
この一週間は良かったかもしれませんが、「神様、どうしてくれるんですか?私が、このままおぼれ死んでもいいのですか?」と、どうにもならない問題のただなかで、イエス様に文句を言いながら祈ったことは、誰にもあることでしょう。
しかし、自分の知恵で、経験で何とかなると過信している心、それを神様は諫めています。今日の旧約聖書のヨブもそうでした。何一つ欠けることがないように、信仰深く生きているのに、突然降りかかるたくさんの問題や悲劇。彼は神を捨てませんでしたが、神に問いました。それに対する神様の答えが今日の旧約聖書の個所でした。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ」と、神様に怒られてしまうのです。私はここがとても好きな聖書の言葉です。優しさや救いの約束よりも、神様に叱られてしまうと、「はい、その通りでした。すみません」と素直になれて、神様の愛を感じます。今日のイエス様も「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」と弟子たちを叱っていますが、同じように愛を感じます。
4、勧め
さあ、ぐずぐず言っていないで、神様に怒られてすっきりしましょう。自分の人生も、家族のことも、他人のことも、ぐずぐず悩んでも、怒っていても仕方ないかもしれません。神様にスッキリ、お任せしてみませんか?その時、嵐はおさまるはずです。心の中の嵐も静かになるでしょう。イエス様と弟子たちが乗った小舟、嵐とそれを鎮めるイエス様の塗り絵がありました。パタパタ折ると、嵐が青空に変わります。こんな具合に生きていきましょう。あなたをお待ちしています。
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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説 「風の門」
聖霊降臨後第4主日の福音書はマルコ4章35~41節「海上の突風」です。マルコはイエスさまの弟子たちのまわりの人に注目します。この時ガリラヤの海に漕ぎ出たのは弟子たちの舟だけではなく他にも数隻ありました。その中で突風が起こったのですが、イエスさまは眠っていました。神の起こす突風で何も失わないと知っていたからです。風を静めたのは助けるためではなく、安心させるためでした。これに対応する第一日課はヨブ記38章1~11節です。不条理な災いの中で神への信頼を捨てずに生きることを教える物語です。ヨブに災難が襲いかかります。体中に皮膚病が出たり、子ども家族を災害で失ったり。しかし最大苦は訪れた友だちの心ない言葉でした。これに頑なになって自らの正当性を主張するヨブに旋風の中から神が呼びかけます。「風の門を見たことがあるのか」と。ヨブはこれに参ってしまい、神に弱さを告白するのでした。神はヨブを許し、元のような幸せを与えるのでした。シャローム!(三木久人)
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牧師からのお手紙・嫌な事ばかり、腹が立つことがあります…
「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」(ヤコブ1.19)
どうしても腹が立ったり、ゆるせないことも人生にはたびたびあります。どうしたらいいでしょうかという相談も受けます。
面白いマンガがありました。ポルトガル語ですが、意味は左から「批判する」「しゃべる」「する」という意味。批判したい人は長い行列、何か言わせてという人も行列、しかし「なにかやろう」というところには誰も並んでいません。さて、自分はいつもどの列に並ぶでしょうかね?
私は腹が立つことが多い職場にいたときに、いつもイライラ不満を言う自分に気付き、もったいないと思いました。腹が立ったら、近所のスーパーで花を買ってみました。見る見るうちに、花がたくさんのきれいな部屋になってしまいました。いきさつを知らない人はそれを見て、「先生の部屋は花がたくさんで素敵ですねぇ」とほめてくれました。私は、ニヤリとしました。不思議に楽しくなりました。
何か違ったアプローチを考えて、楽しむのもいいかもしれません。さて、何をしてみましょうか?(徳弘)
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