2021年5月29日土曜日

週報、説教メッセージ 20210530






 聖書の言葉 

聖書 ヨハネ 3: 1~17 (新167)より

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。


説教「死後でも来世でもなく今」徳弘浩隆師

1. 「三位一体の対応の推進を要請」…

今日は、教会のカレンダーでは「三位一体主日」です。毎年この日には、「ニュースでも最近この三位一体という言葉を聞きますね」と触れますが、今年は日本医師会会長が3月31日の記者会見で発表していた言葉とその報道にもありました。こうあります。

//日本医師会会長は新型コロナとの闘いが重大な局面に立っていると指摘。「『政府・自治体の実効性のある施策』『医療提供体制の整備とワクチン接種の推進』『日常の感染防止対策の徹底』を三位一体として進めることで、新型コロナに立ち向かい、打ち勝つことができる」と強調し、理解を求めた。//

「問題を解決するためには、これら三つの大切な取り組みをどれひとつ欠かすことなく、一致して取り組むことが大切」という意味で使われています。しかし、この訴えはなかなかうまく進まず、まだ抑えられていません。何かが欠けて、何かが滞っているからということになるでしょう。これら三つ、つまり、政府の取組や、医療機関の取組、そして私たち一人一人の取組、どれもそれぞれ、万全ではないようです。また日本医師会長の気がゆるんだりしているようだという事例の報道もあり、気の毒ですが、人間の限界とむつかしさを感じさせられます。

さて、問題を解決するための三位一体の取り組みですが、新型コロナ感染症のことだけではなく、私たち人間の生き方や人類の大きな課題、それを解決するためにはどんな三位一体が必要なのでしょうか?今日の聖書では、ヨハネの福音書から、「神の国に入るためには」という問答から、解決策を探ることになります。

2. 聖書を学びましょう

ファリサイ派に属しユダヤ人たちの議員であったニコデモという人が、夜にイエス様のもとに質問に来ました。ファリサイ派はユダヤ教の教えを厳格に守り一般人とは違うという意味で「分離」という言葉からファリサイ派と呼ばれていました。またユダヤを支配しているローマ帝国の作った傀儡政権の議員でもある人だったのです。イエス様の評判や教えに感銘を受け、神からの人に違いないと信じたのでしょう。

彼の挨拶にイエス様は答えながらこう言われました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と。しかし、彼はイエス様の言われる真意を理解できません。どうしてもう一度生まれることが出来るだろうかと聞き返します。それに対してのイエス様のお答えは、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」というものでした。

自分の立場や今まで築いてきたすべてのものを危険にさらしてでも、イエス様に教えを請いに来た彼は立派です。たとえ人目を忍んで夜に来たとしてもです。私たちも、今までのそれぞれの人生で培ってきた知識や経験があります。なかには大きな財産や名誉があることもあるでしょう。物事の判断には、それらを頼りに、または自信にしてすがりながら生きています。しかし、それをかなぐり捨てて、神様に謙虚に尋ねることをしているでしょうか?

ニコデモは見習うべき人です。しかし、それを理解できたかどうか、それに従うことが出来たかどうかも大切なところです。このまま去ったかどうか伝えられていませんが、ヨハネ福音書の19章39節にはイエス様の葬りの際には立ち会っているようですから、最後まで気になり、従っていったのかもしれません。

3.振り返り

私たちはどうでしょうか?自分の知識や価値観、経験による自信や体面が自分の不完全さを認めることを妨げ、神の声に従う事を妨げているかもしれません。

牧師は教えることに慣れていても、習うことにはもう慣れていないことが多くあります。私も50歳直前でブラジルに行くことになり、急いでいくつかの学校でポルトガル語を学びました。いつもと反対側の生徒の席に若い人に交じって座った時には久しぶりの感覚で、最初は居心地が悪かったのを覚えています。ブラジルでは私が釘で十字架を作ってみるなどという教会の集会で新しいことをしてみると、メンバーの側に座ってい聞いていた同僚牧師がいつの間にか人々の手を取り教える側になっていました。自分も初めてなのでよくわからないのにです。案の定一緒に混乱してしまいました。私は「先生もこのことは初めてなんだから、今日は一人の生徒でいいんだよ」と優しく諫めました。そして、私も自分にもそういうことがあるなと、反省させられました。

4、勧め 

神の国に入るには、子どもがそうであるように生まれ変わって謙虚に聞きしたがうこと。そしてそれは、「生まれ変わった気持ちで」というだけではなく、「罪を悔い改めて、父と子と聖霊の名によって洗礼を受けること」です。そこから始まるキリスト者としての人生は、もうすでに神の国に入っているのです。死後の世界でも、来世でもありません。聖書の言葉をもっと学んでみませんか?今の人生が変わるのです。

 

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2021年度「献身者を求める祈り」(5月30日) 全てを統べ治めたもう神様。わたしたちをあなたの働き人としてください。私たちの無関心を打ち払い、この世にあって悩み苦しむ者たちの声に耳を傾け、欠け多き私たちに与えられたあなたからの賜物を、あなたの知恵によって用いることができますように助けてください。特に私たちの教会から伝道者、牧会者として生涯を捧げる者が一人でも多く興され、それらの者たちが、あなたからの召しに応えていくことができますように聖霊の働きにより力づけてください。そしてこの世で起こる不条理にも、人の知恵ではなく、あなたの愛をもって応える者として備えさせてください。この祈りをわたしたちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。

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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説 「新しく生まれた者の派遣」 三位一体主日の福音書の日課はヨハネ福音書3章、ニコデモからの相談です。口語訳では15節までがイエスさまの言葉で16節からは他の文でしたが、共同訳は最後の21節までがイエスさまの言葉です。神の国の働きをする者は、新しく生まれた者です。イエスさまは「新しくもう一度、水と霊から生まれる者が神の国を見る」と言っておられますが、これらはアラム語では同じ言葉です。三位一体の神によって新しく造られて、もう一度生まれ、水と霊で洗われて救いに入り、神の国の働きへと遣わされていきます。第一日課は宮廷のイザヤの召命記事です。われわれに替わって誰を遣わすべきかと相談していて、そこに三位一体が絡むと考える向きもありますが、この「われわれ」はむしろ尊厳複数。三位一体との関連はないと思います。むしろ天使が火挟みで持って来た焼けた炭で洗われてから、神の国の働きの中へと派遣されました。私たちもまた、三位一体の神の救いと守りと派遣の中で生かされているのです。シャローム!(三木久人)


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牧師からのお手紙

・牧師になりませんか? 

「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」(イザヤ書6章8節)

 

「牧師って何?神父さんとどう違うの?」とよく聞かれます。牧師は聖書にある「羊飼い」から来ていて、カトリックの国のラテン系の言葉では「羊飼い」も「牧師さん」もPastorと言って同じ言葉です。神父さんは日本語独特の呼称で、英語の国ではFather、上記国々ではPadreといい「お父さん」と同じ言葉。修道士もブラザー、シスターと呼び、上記国々でも兄弟、姉妹という呼び方。女性修道院長をマザー・テレサのようにMotherと呼びますがこれも「お母さん」「母上」と呼ぶ感じですね。意外と「身近な」呼称なのです。

牧師になるというと、「いいえ、私など俗世間のものにはとても…」という方が多いですが、カトリックのように聖職者ではなく、プロテスタント教会では聖俗の区別をなくし教職者と呼びます。聖書の言葉を正しく理解し伝え、教会や社会の様々な仕事にあたるために、基本的な勉強や教会全般の実践訓練や人間関係の訓練を受けますが、牧師も一人の信徒・神の民です。神学にも聖書学や聖書語学、教義学、歴史神学、倫理、典礼学、キリスト教教育…など全般を学びますが、同じ牧師でも卒論などで専門的に取り組んだ分野が違い特色もあります。自分が昔悩んだり苦しんだりし、聖書やキリストに出会って救われ、自分と同じような人の役に立ちたいと思った人が多いでしょう。ですから、取り組む関心事項も違うこともあります。「どんな聖人にも過去があり、どんな罪人にも未来がある」といわれるように、人生での失敗や挫折もあるかもしれません。人生の完璧な指導者ではなく、罪びとの弱さを正直に自覚した人ともいえます。

でも、神様のため、人々のために「誰か代わりに行ってくれる者はいないか?」という神様の呼びかけに、「私がここにおります」と応えた一人一人です。あなたにも、あなたのお子さんやご家族にも、そんな神様からの呼びかけがあるかもしれません。牧師になる。あるいは信徒のままでもできるだけの神様へのお応えをする、そんなことも考えてみませんか?あなたが苦しんだ、あなたが体験した出来事と救われたあなた自身が、誰かの苦しみを理解し救いになることがあるはずです。(徳弘) 


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