2021年5月9日日曜日

週報、礼拝メッセージ 20210509



聖書の言葉 

聖書 ヨハネ 15: 9~17 (新198)

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。


説教「主われを愛す」徳弘浩隆師

1. 命令!?

今日の聖書のイエス様の言葉は、救いや慰めの言葉ではなく、珍しく、予想外に「命令」です。「キリスト教は、今まで自分が知っていた他の宗教のように決まり事や強制的な掟がたくさんある訳ではないから、安心できた」という方もおられます。しかし、今日はイエス・キリストの明確な命令です。心して聞かねばなりません。どういうことでしょうか?

2. 聖書を学びましょう

今日の聖書でイエス様はこういわれています。「互いに愛し合いなさい」です。しかし、それがなかなかできないのが、私たちの姿です。やさしくなろうとしても、ゆるそうとしても、努力してそれが出来れば苦労しません。正しく生きること。愛せない人を愛すること。それも難しいことです。聖書の他の個所では、イエス様は「敵を愛せよ」と言われていますが、そもそも、「愛せないから敵」なのです。つまり、私のいたブラジルのポルトガル語では、友はAmigo、敵はEnemigoといいます。英語のEnemyともつながる語源の言葉です。Ememigoというのは、Amigoの前に、それを否定する言葉を付けてEmemigoとなっています。つまり、「友でないもの=敵」なのですから、論理的にこの言葉からいくと「敵を愛すること」は矛盾していて、できないことなのです。

では、どうしたら、敵を愛することが出来るのでしょうか?それは今日のイエス様の言葉がヒントです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉です。

イエス様は、それを言うだけではなくて、実行されました。人々に裏切られ、敵に捨てられ攻め立てられました。しかし、一番苦しいのは、友に裏切られることです。敵に裏切られ責められても当然のことかもしれません。しかし、信頼している友に裏切られ、その友のために自分の命を捨てられたのがイエス様でした。今日の聖書の話では、それを預言し、それを前提に話をされています。それを聞いていた、弟子であった彼らは、弟子以上に、友とさえ思ってくれていたイエス様の気持ちをまだ理解していませんでした。

それを理解した時に、彼らは変えられていきます。自分は弟子ではなく、友のように扱ってくれたイエス様。しかし、敵が裏切り責めるのならまだしも、この自分が裏切ってしまい、そのために、十字架で死んでいった方がこのイエス様だと、気が付いた。

その時に、覚悟や決意ではなく、努力でもなく、全身から力が抜けて、大きな衝撃を受けるときに、少しずつ、変えられていくのです。私たちの中にも、聖書の学びや、祈りや、教会の人間関係の出来事で、それを思い知らされることが起こります。その時、変えられていきます。

3.振り返り

私は先日、貴重な体験をさせていただきました。垂井礼拝所のための教会用具を、島田礼拝所から譲り受けてきました。資金不足の中節約するためと、長い歴史の教会の祈りを受け継いでいくためです。

私は、梯子を立てて、大きな聖壇の十字架に向かって登りました。「大きくて外せないでしょう」「無理だったら、グラインダーで切り取るか、壁を壊すしかないですよ」という声をよそに、私は「もしや」と思っていました。上りながら十字架を抱き上げるように抱えてみると、「スッ」とそれは持ち上がりました。二本の留め具は簡単に外れて、引き上げ、そして、梯子から降ろすことが出来ました。島田教会の伊藤牧師はびっくりして、それを受け取り助けてくれました。

実はその二週間前に、島田礼拝堂の最終礼拝にも教区長として出席しました。説教では、伊藤先生はその日の日課から、キレネ人シモンのお話をされました。たまたま通りかかったシモンは、イエス様が十字架に向かう時に無理やり、十字架を背負わされることになったのです。思いがけない出来事と、キリストとの出会い、そして彼の中に起こった変化。信仰を持ち、初代教会で名前が知られた主に仕える家族となっていった可能性にも思いをはせ、神様のなさることの不思議さを思わされました。そしてこの島田礼拝堂の十字架も、一時、他の方が引き取られるとの話もあったそうですが、設置場所などの事情で辞退され、私が外し、運び出し、引き取らせていただくことになりました。聖書の話と重ね合わせて不思議な出来事として印象深い出来事になりました。

それにしてもあの十字架は、思いのほか「スッ」と外れ、抱えて運び出すことが出来ました。思案してばかりいないで手を伸ばせば、それはそれほどの重荷ではないのかもしれません。その光景から、キリストの十字架降下の聖画やピエタ、そしてキレネ人シモンの話を思い起こしました。

キリストの十字架は思いのほか、「担いやすい」ものかもしれません。「さあ、軽いから取って降ろしなさい」とキリストの声が聞こえるようでした。そして、「確かにあなたに渡したから、これからはあなたが担いでいきなさい。」とも。

4、勧め 

「互いに愛し合いなさい」という「命令」も、実は、思ったよりやさしいことかもしれません。イエス様が、私のためにあの十字架で死んでくださったと、心で理解すれば、そして思案ばかりしていないで手を伸ばしてみればいいのです。重そうな十字架が案外担ぎやすかったように、スッとできることかもしれません。水の上を歩くより、死人が生き返るより、もっと大きな自分に起こる奇跡、それは、人を赦せるようになったこと、人を愛せるようになったことです。

イエス様の愛の命令は、命を捨てたイエス様の愛に裏付けられたものです。十字架を見上げ、それを手に取り、それを担いでみるときに、新しい人生が始まります。さあ、一緒に何かを始めましょう。

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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説 「聖霊が前を行く」

福音書でイエスさまは「聖霊の働きが起る時、弟子たちは神の業を行う。それは主の業よりも大いなる業を行う」と言われました。それが使徒言行録10章で語られている、無割礼の者に洗礼を授ける。すなわち異邦人伝道です。イエスさまご自身の働きをイスラエルの失われた民への働きと自ら限定しておられました。そして洗礼を受けた者が聖霊の賜物を受けることでその解禁を示されたのでした。異邦人の伝道というとパウロの専売特許の様に思えますが、ペトロもまたずっと小アジアで伝道を続けていました。だからネロによって迫害され、逆さ十字架の刑に処されたのです。もちろん、それが当初からのイエスさまのご計画でした。ペトロによって異邦人伝道を始めて、異邦人の教会であるシリアのアンテオケ教会をバルナバたちによって育て、その働きをパウロへと引き継いでいったのでした。それがまた皮なめし職人シモンの家でペトロが見た「夢からはじまる」というのがルカらしいなと思います。もちろんこれは小説ではなく、記録です。そこにも聖霊が働いておられます。シャローム!(三木久人)

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牧師からのご挨拶「あなたは一人ではありません。わたしも。」

「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、

健康であるようにと祈っています。」(聖書:3ヨハネ1章2節)

皆様お元気ですか?心も体も?連日、大変な時代に生きていることを実感しますね。仕事や住まい、生活が変わった方もおられます。私も3年前まで住んでいたブラジルの話ですが、知り合いがたくさん入院し、幾人か亡くなりました。友人のいるインドも心配。そして最近は岐阜県でも足元にも迫ってきている感じですね。社会のたくさんも問題も見せつけられます。自分の常識も疑い、また意見の異なる方とも一緒に生きていくことのむつかしさも、その大切さも考えさせられます。

こういう時こそ大切なのは、愛、相互理解、助け合い…。教会では集会がしにくくなりました。でも、手紙や電話、メイルやメッセージでも声をかけあい、互いを気にして祈りあう、「もう一つの家族」がいることは、慰められることですね。わたしも、助けるだけでなく助けられ、ゆるされ、生きています。何かあれば教会や牧師までご相談ください。


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