2021年5月23日日曜日

週報、説教メッセージ 20210523

 



聖書の言葉 

聖書 使徒言行録 2: 1~21 (新214)より

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。--- 彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。---


説教「心は燃えても」徳弘浩隆師

1. 異例の早い梅雨委入りと豪雨で…

今年は梅雨入りが異例の早さだったそうですね。空を見上げると、真っ黒な黒い雲。先週も朝にゴミ出しをするときは激しい雨で大変でした。各地の水害も心配です。しかし、教会に植えてみたアサガオや牧師館のトマトやゴーヤーは水やりをしなくてもいいので楽です。駐車場にも屋根がないので車はすぐに汚れますが、激しい雨の後は車もきれいに光っています。あまり激しいと被害も出て困りますが、雨という天から降ってくるもので、私たちは恵まれ養われています。

今日の聖書は、天から聖霊が降ってきた話です。突風でも、大雨でもない、神様の霊が降ってきて、何が起こったのでしょうか?今の私たちとどんな関係があるのでしょうか?

2. 聖書を学びましょう

ヨハネの福音書ではイエス様が十字架にかかる前に弟子たちに話された言葉を読みました。聖霊降臨の出来事を予告しておられた所です。使徒言行録では、その予告通りに天から聖霊が降ってきたときの話が読まれました。それらを合わせて学んでいきましょう。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」と使徒言行録は始まります。この五旬祭は、つまりペンテコステはユダヤ教の大切なお祭りでした。春の麦の収穫とともに、ユダヤ人たちがモーセを通してシナイ山で神から十戒を授かったことを祝うお祭りです。イエス様の弟子たちもユダヤ人としてその日を大切にしていたでしょう。集まっていると、そこに天から聖霊が降ってきたというのです。そして、彼らは人々の前で聖霊が語らせるままに異国の言葉で語りだしました。見ていた人たちは驚きました。お酒に酔っているのかという人もいたそうです。ペトロは人々に、預言者ヨエルが言っていたことが実現したと説明しながら、イエス様の証しと説教をしました。今日の聖書の続きでは、それを聞いて多くの人が悔い改めて、イエス様がキリストであったと信じ洗礼を受け、3千人が仲間に加わったということです。

ユダヤ教の大切なお祭りは、「過越祭」、「五旬祭」、「仮庵の祭」の三つがあります。エジプトからモーセに連れられ脱出するときのことを記念する「過ぎ越しの祭り」、紅海を渡って脱出した50 日後にシナイ山で神から十戒を授かったことを記念した「五旬祭」、その後の荒野の天幕暮らしの生活をしのぶために今でも家の庭に仮庵を作り過ごす「仮庵の祭り」です。

不思議な出来事を見て、ペトロの説明と説教を聞いたユダヤの人たちは分かったはずです。モーセを通して神様が解放してくれた「過ぎ越しの祭り」の時に十字架で殺されたイエス様がメシア・キリストであったということ、そして「五旬祭の日」に聖霊が天から降ったのはモーセを通して神の律法が与えられたのに匹敵する新しい神様の約束だと。

五旬祭はユダヤ教ではヘブライ語でシャブオット(שבועות)といい、ギリシャ語では50日目という意味から「ペンテコステ」といわれていました。そこに、神様はイエス・キリストを通して新しい救いの出来事をもたらし、新しい意味付けをされたのです。

さて、聖霊はそれまで現れなかったのでしょうか?そうではありません。神の霊はそれまでも現れ、人を動かし助けていました。イエス様が誕生する際にも、洗礼を受けられた際にも聖書に登場しますし、弟子たちが力を与えられて遣わされたマルコの6章7節の時にも聖霊の働きがあったと考えられています。ではなぜ今聖霊降臨を祝うのでしょうか?それは、それまではいつも彼らと一緒だったというわけではなかったのです。イエス様の十字架と復活、昇天の後、約束された聖霊が降り、「完全な形でいつも一緒にいてくださる働き」となってくださったのです。

3.振り返り

私たちはどうでしょうか?完全な形で聖霊に動かされているでしょうか?「頭ではわかっていても心が伴わない」「体は人のために動かしていても、信仰や愛が心に伴っているだろうか」と、むつかしさを感じることがあります。信仰が足りないのでしょうか?修行や、知識が足りないのでしょうか?そうではありません。私たちは罪人ですから、ゆるされてはいても愛には限界があります。被造物ですから神様のことや全世界の知識を得ることは限界があります。

ではどうしたらよいのでしょうか?マルコの福音書の14章38節の言葉を最近教えられました。ゲッセマネで祈るイエス様の脇で寝込んでしまっていたペトロにイエス様はこういわれました。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」ここでいう「心」はギリシャ語の聖書では「プネウマ」という言葉で書かれ、それは「霊」のことで、聖霊やこの個所の「霊」にも同じ言葉が使われます。つまり、「人間は自分では強いと思い込んでいるが、限界があるんだよ」と、そして「霊は、聖霊は燃えているのだから、それに頼るしかないんだよ」という風にも読めるし、それが大切な考え方ではないだろうかと、先輩牧師との聖書研究で学びました。

4、勧め 

「自分が何でも知っていて、何でもできる、愛もある、信仰もある」と思っている間はまだ、不十分です。それを投げ出して、神様に委ねついて行くときに神様の霊の導くままに生きるようになるのです。

神様の霊の働きを受けていけるよう、祈りましょう。神様の祝福はそこから始まります。

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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説 「息よ吹き来たれ」

 聖霊降臨日の福音書の日課はヨハネ福音書15章26~27節です。イエスさまが弟子たちに聖霊を弁護者(口語訳では助け主)、真理の御霊と紹介しておられます。この神さまがイエスさまを証しするので、弟子たちもイエスさまを証しするのです。これに対応する第一日課はエゼキエル書37章1~14節で、枯れた骨の谷の幻です。エゼキエルはユダ王国の壊滅からバビロン捕囚までの間活動した預言者で、祭司から預言者へと召し出された人でした。その預言者が幻の中で骨に満ちた谷に連れて来られました。預言者は神に言われた通り、骨に預言し、骨同士くっついて人の形になってから、息に預言します。「息よ、吹き来たれ」と。骨に預言したり、息に預言したりと変に感じるかもしれません。預言は神から預かった言葉です。神から預かった言葉を骨や息に伝えて、その通りになったのです。そして骨は大きな群れとなりました。神を伝える群れです。私たちもイエスさまを伝える群れです。小さくとも大きな群れに囲まれています。シャローム!(三木久人)

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牧師からのお手紙・全部わかるまで信仰を持たない?

「書物はいくら記してもきりがない。」(コヘレト12章12節)

「世の中難しいことばかり。教会へ行ったら、全ての答えがもらえて、すっきりすると思ってました。でも、聖書もむつかしい信じられないことも書かれてあって… 関心はあります。いつか、全部理解出来たら、教会へ行って洗礼も受けて頑張ります」という質問や言葉を聞くことがあります。実は私も、18歳のころ通っていた教会で洗礼を申し込んだ後に質問リストを書いて質問しました。その教会の牧師さんはがっかりした顔をして、「信じれば救われるのに、まだ信仰が足りなかったんですねぇ」と。先輩に聞いてもほぼ同じ答え。それから教会へは行きませんでした。10年近く遠回りして別の教会で聞きました。神学校の著名な先生にも聞きました。今度は「わしもわからん。神様にしかわからんことがある。全てが分かったと思った時に、我々は間違った信仰になる」と。私はそれを聞いて意外にもスッとして安心しました。そこで洗礼を受け、学び、牧師にもさせていただきました。旧約聖書のコヘレトの言葉にこうあります。「わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」と。聖書自身がそう言っているのに驚き、また安心します。もちろん、学ぶ気持ちを失ってはいけません。でも、「神様についてすべて理解できたら」ということは人間には完全にはかないません。それが出来たと言う集団は怪しいものです。人間の理解力や今の科学にも限界があります。心動かされるものが聖書に、教会の人にあるなら、しばらく一緒にその道を歩んでみることもいいかもしれませんよ。まよいも、心配も私はよくわかります。一生涯求道者でしょう。でも一緒に泣き笑い支え合う教会の仲間です。(徳弘)


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