2021年5月1日土曜日

週報、説教メッセージ 20210502





 

聖書の言葉 

聖書 ヨハネ 15: 1~ 8 (新198)

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。


説教「オンライン、オフライン」徳弘浩隆師

1. 新しい携帯電話がつながらない!?

去年から節約のために携帯電話の会社を変更しました。政府の肝いりで?価格が下がってきましたし、競争も激しくなりました。業者の関係の方には気の毒な気もしますが、私たちにはありがたい話です。

コロナ禍でリモート礼拝参加やZoomでの会議にと新しくスマートフォンを始める方や外国人の方からも、「安くてわかりやすいのはどれですか?」と聞かれ、お勧めしています。私のは一年間無料ですし、その後も最低ランクの価格で、スマートフォンも実質無料でした。しかし、うまい話には問題もつきものです。まだこの新参の会社はアンテナも少なく、政府から割り当てられた電波も少ないので、「つながりにくい」のです。でも大きな資本提携も報じられ、増強していくでしょう。応援するつもりもあり、利用しています。「通話」以外で使うことの方が多く、「通話」もいろんな無料サービスで補うこともできます。

とはいえ、気になるもので、ネット上で見つけた地図や電波状況をチェックするソフトで見てみました。去年からするとアンテナも増え、岐阜も大垣も垂井の方もカバーしています。地図でどこにアンテナがあって今どれにつながっているかもわかります。実際に見に行ってみました。そして、妻に地図を見てもらいながら、買い物ついでに近隣地域を回ってみました。普段気にしない電柱も実は、上から高圧電線、通常電線、ケーブルテレビや光ファイバー、そして電話線の順で線がありそれぞれの家に引き込まれています。携帯電話のアンテナは、それから分かれ、電柱や専用電柱、マンションの屋上などに設置されています。いつもつながっている携帯のアンテナを見つけ、しみじみと見つめました。生活をしていても、電気や電話線がどこから繋がっているかほとんどだれも気にしていないでしょう。まして、目に見えない携帯電話の電波はどのアンテナにつながっているかなんて、知らない人ばかりだと思わされたのです。

こんな現実の別の話で聖書を別の意味に理解するのではなく、聖書を読みながら、身の回りの現実の出来事から聖書の話を味わい、振り返ることもできます。

2. 聖書を学びましょう

今日の聖書でイエス様はこういわれています。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」と。

私たちの人生は、電気製品や電話が電線や電話線につながっていなければ何の意味もないものになってしまうのと同じです。イエス様が今の時代にこの話をされたのなら、「ブドウの木のたとえ話」ではなくて、「電線や電話線のたとえ話」をされたに違いないと思ってしまいます。ブドウの収穫より電気や電話の方が都市で密集生活している私たちには死活問題だからです。

今日の聖書のたとえ話は分かりやすく、読んだその通りですね。イエス様がブドウの木、そして私たちはその枝です。枝は木につながっていなければ、何もできません。何のみも生み出さないばかりか、枝そのものも細々と痩せてしまい、やがて枯れていくのです。そして、つながっているというのは、一度繋がったら安心ということではありません。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」とイエス様は続けられます。私たちの心の中に、イエス様の言葉はいつもあるでしょうか?そうでなければ、祈りは聞かれず、豊かな実は実らないと教えられます。

3.振り返り

私たちの人生はどうでしょうか?「教会に行っているから大丈夫」「昔洗礼受けて神様につながったからもう大丈夫」でしょうか?確かにそうかもしれません。しかし、洗礼を受けた後の生活も大切です。イエス様の言葉が心にあって、いつもそれを生きているかということが大切でしょう。「教会にはまだ行ったことがないけれど、世のため人のためにも役立つことを少しはしているから大丈夫なはず」という方もおられるでしょう。たしかに、教会に行かなくても正しく良い生き方をしている方も多いです。しかし、「本当の愛」とは何でしょうか?それを生きているでしょうか?

それ次第で、豊かな実を結ぶか、「外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」のかの運命が分かれていくのです。もう一度イエス様の言葉をよく学び、それを生きるものになりましょう。まだ教会に縁が遠い方は、勇気を出して訪ねてください。歓迎します。一緒にわかりやすく聖書を学ぶ教材も作っています。ラジオ番組用に録音もしています。教会が敷居が高ければ、教会メンバーのお宅でお茶を飲みながら牧師抜きで勉強したり話し合ったりできるよう、そんな機会も作ろうとしています。週報を渡したお知り合いにお尋ねください。

4、勧め 

最後に、もう一度携帯のアンテナの話で申し訳ありませんが、こんな仕組みもあります。新しい携帯会社のアンテナがまだ増やせなくて整わない間は、ほかの携帯会社のアンテナを利用させてもらって、サービスエリアを広げるということがあります。独自のアンテナを増やせるまでの一時しのぎで、会社は一時的に他の会社に利用料を払ってでも全国サービスを開始したいのです。そんなせいで、私の携帯も時々競合他社のアンテナにつながり利用できます。しかしその時は、無制限ではなくて月ごとに一定の量を利用すると、顧客も多少ですが別途超過分を払わなくてはなりません。ですから、できるだけ「自分が契約している会社の本当のアンテナ」につながった方が節約になるので、気になるところでもあります。

さて、私たちも、今までの人生と区切りをつけてイエス様につながったはずですが、時々、昔の別のアンテナにつながっていることはありませんか?信仰をもってクリスチャンとして生きているはずなのに、風習や縁起を気にしたり、他の教えを気にして頼りにすることはありませんか?それは自分の都合のいいように、アンテナを切り替えているようなものです。

いつも、キリストというブドウの木につながっていましょう。私たちがつながることが出来るようになるために、実はこの方は、命を捨てて、この方自身が切り取られもしたのですから。それが十字架です。

聖書を読みながら、あるいは、携帯電話のアンテナ表示を見ながら、自分はイエス様とちゃんとつながっているか、考えて過ごすのもいいかもしれませんね。徳弘浩隆

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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説 「キリストにつながる」

福音書はぶどうの木の譬えから続く「互いに愛し合いなさい」と言うイエスさまの掟、むしろ命令です。これは最もすばらしい主の賜物です。パウロもコリント教会に宛てた手紙の中で最高の道と記しています。これに対応する第一日課は、使徒言行録8章のフィリポがエチオピアの宦官に遣わされた話です。使徒言行録はルカによって書かれましたが、ルカの特徴として「社会で蔑まれている人たちが普通に登場する」ということがあります。」徴税人をはじめ羊飼い、皮なめし職人、サマリア人などです。宦官もその一人です。大変に位が高いのですが、女王に仕えるために去勢させられていました。男子の去勢は律法に禁じられています。宦官を嫌うというのは洋の東西に問わずで、孔子も宦官との車の同席を拒んだそうです。このようにルカが社会的に蔑まれた人を登場させていたのは、ルカもその一人だったからでしょう。「医者なのに」と思うかもしれません。しかし医者だからです。日本では「医術は仁術」と尊敬されますが、西洋ではコッホの前までは「医術は魔の術」で悪魔の仲間とされています。聖霊はそのような人に洗礼を授けるために人を遣わしたのでした。「どんな人もキリストにつながっているなら愛し合うように」とイエスさまは言われています。シャローム!(三木久人)


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