2021年5月15日土曜日

週報、説教メッセージ 20210516

 



聖書の言葉 

聖書 ルカ 24:44~53

イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 あなたがたはこれらのことの証人となる。 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。


説教「天を見上げる」徳弘浩隆師

1. リモートワーク?

アメリカのルーテル教会の友人牧師が、イエス様の昇天の絵とともに、「イエス様がリモートワークに」という意味の面白いイラストをFacebookに載せていました。なかなか好評でした。「zoom」の言葉と、「イエス様は家で(家から)働かれます」の言葉。もちろん冗談ですが、面白い切り口だと思いました。確かに、今風に言うとそういうことになるのかもしれません。いったいイエス様の「昇天」とは、どういう出来事で、どう理解したらよいのでしょうか?

2. 聖書を学びましょう

使徒言行録とルカの福音書の記事を見てみましょう。今年はマルコを読んでいますが、マルコの本文(結びの前)には「昇天」の出来事は記録されていません。イエス様の復活に驚く女性たちの姿で幕が降ろされ、その出来事をどうとらえるか、今読んでいる私たちにも問いかける終わり方をしているからです。

聖書によると、イエス様は十字架に架けられ、預言通りに三日目の朝に復活されました。その復活の日から40日目、先週の木曜日が主の昇天の日でした。それは、死んで3日目に復活し、40日目に天に戻るというそれぞれに意味深い数字です。

イエス様はいつもそばに一緒にいたのに、少し遠くに離れていかれた。でも、「仕事を終えられた」のではなく、逆に、「居場所に限定されないもっと広い仕事ができるように」なったのかもしれません。

そして、全く新しいどこかに行かれたのではなく、「天」の神様のみもとという、本来おられるべき場所、「家」から仕事をされる。これも、ある意味正しい理解といえることです。

イエス様の「人生」はこうでした。神の子が、天から降り、人々と暮らしました。権力者や宗教指導者と共にではなく、罪びとや社会から隅に押しやられている人たちと共に生きました。病気をいやし、神様のことを教え、救いを告げ知らしました。何度も群衆が押し寄せ、「王」や「革命者」かとも期待され歓迎もされましたが、裏切られ十字架で殺されました。

天の上から人々の中に、そしてさらに最下層の人々と、その後は犯罪者のように殺されていく姿は、「上から下へ、さらに下へ下へ」の姿です。信仰告白で毎週となえ、確認し、祈っているように、黄泉に下られたのは、「もっとさらに下へ」降られました。

この上から下への構図は、「落ちぶれていく」姿ではなくて、神様がそこまでしている、なりふり構わず人を愛し赦すために歩み寄り駆け寄る「愛の姿」です。

この方が最後に、いわば「すべての謎ときとまとめの教え」をした後に、天に帰っていかれた。それが今日のルカの福音書の所です。

今度は「上へ上へ」帰っていかれる構図です。しかし、「上を」、つまり、天を見上げてばかりいてはいけません。「下へ下へ」来られた神が、「上へ上へ」戻られてお話は終わり、という訳ではないからです。

つまり、「そこで一つのお話が終わって、さあ、自分のいつもの生活に戻る」という、日曜の夜のTVドラマが終わって現実に戻る瞬間とは違います。

3.振り返り

私たちはそれをどうとらえ、どんな生き方をしているか、振り返らねばなりません。

イエス様は弟子たちに「証人」となることを宣言され、「高いところからの力」つまり「聖霊」を受ける準備をするようにと命令されたのです。(それは来週のお楽しみです)

そして、手をあげ祝福し、そのまま天にあげられました。手をあげて祝福するのは、むかしモーセが紅海の水を割る時に持った杖とともに手を上げ、神の奇跡をおこなったことを思い起こさせます。その海の中に出来た道を通って、エジプトの奴隷から解放され約束の地へと帰り自由にされていきました。

こんどは、イエス様のあげられた手をもって「新しい道」が開かれ、その道を通っていくなら、弟子たちも、そして私たちも、すべての罪や問題から解放されて、約束された天の国に「帰って」いけるのです。その道を歩いているでしょうか?

4、勧め 

「イエス様が作られた新しいこの道」、それはどこにあるのでしょうか。聖書では昇天の出来事は「ベタニヤ」のあたりでした。そこに行けば「タイムトンネル」のような天に通じる道があるでしょうか?

ベタニヤはオリーブ山のふもとでラザロを生き返らせた奇跡の街、反対側のふもとには苦しみ祈り捕らえられていったゲッセマネ、そして谷を降りて反対側にはエルサレムの門です。オリブ山のもう一方にはエルサレム入城のロバを調達したベトファゲ(ベテパゲ)もあります。

しかし、「イエス様が作られた新しい天への道」の入り口はそこにはありません。その道は、「私が今生きている道のりのなか」にあるのです。そこで出会う人、物事です。罪の心から解放され、敵を赦し愛し、寄留者を助け、弱い方とともに生きる神の愛の生き方、それが道です。それが出来ない罪が蔓延しています。社会にも、私の心の中にも。頑張ればできるでしょうか?いいえ、それが出来ればキリストの十字架は不要でした。この方にゆだね従う時に、変えられていく自分を見つけましょう。十字架の釘の傷跡のある手をあげられながら、人々を祝福しながら、天にあげられたイエス様の祝福がありますように。


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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説 「主に連なる者」

今日は昇天主日ですが復活節第7主日でもあります。その福音書の日課はヨハネ福音書17章のイエスさまの祈りです。イエスさま御自身と父なる神の栄光のため、弟子たちのため、そして弟子に連なる全ての人のために祈っておられるので「大祭司の祈り」と呼ばれています。これに対応する第一日課は使徒言行録1章の後半、イスカリオテのユダの末路とユダと交替したマティアを使徒として選ぶという所です。裏切ったユダをイエスさまは決して許さず、末路を歩ませたのかというと決してそうではなく、ユダにとっての悲劇とは「イエスさまの許しを信じられなかった」ということと思います。弟子たちのために祈ったその祈りの中にはユダのために祈る心も含まれていたことでしょう。更にイエスさまは未だ見ぬ弟子たちに連なる人たちのために祈っておられます。マティアを選ぶその形式は「くじ」でした。神のみこころが働くということで大事な場面ではよく用いられます。出エジプトのカナン途上でアイに大敗した原因を探してアカンの不正を見出したのも「くじ」でした。イスラエルの最初の王サウルを選んだのも聖霊が働く道具として選ばれているのです。 シャローム!(三木久人)

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牧師からのお手紙「弱音を吐くのは不信仰?」 「悩みの日にわたしを呼べ」(詩編50編15節)

お元気ですか?新型コロナ感染拡大のニュースは、毎日不安や怒りも呼び起こしますね。それでなくても、いろいろと難しいことのある人生。「信仰があればすべてうまくいく」「必ず物事は成功し、人生は変わる」と教会で聞きます。確かにそうです。それを信じます。しかし「いつでも」そうだというわけでもありません。悩みや苦しみの末にそれをしみじみと実感することはありますが、そこに到達するまでは絶望や砂をかむような気持を通過するものです。自分が「できる」、「ゆるせる」、「愛せる」ことがあるでしょうが、「今度ばかりはそうはいかない」ことが時にあります。その時が大切な時です。聖書には「悩みの日に私を呼べ」とあります。人が悩むのは神様も知っているのです。悩むうちはまだ自分を過信してるのかもしれません。私は、弱音を吐いても不信仰とは思いません。つい怒ったり、ぶつかったりもあるでしょう。しかし、そのあとが大切。私はじっくり自己嫌悪を味わいます。そして本当に神様にお任せして、そんな自分とお別れできます。神様に頼り、教会の心許せる仲間や牧師に頼るのも大切です。変えられていく自分を見つけるでしょう。そういう人こそ、愛情の深い、人を赦し、愛せる人になれると思います。何かあれば教会や牧師までご相談ください。(徳弘)


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