教会での公開の礼拝が5月24日から再開します。しかし、Web礼拝中継も継続します。どうぞ、ご利用ください。
引き続き、礼拝は3つの方法で
(1) 週報と式文を読みながらの家庭礼拝、
(2) Facebookで徳弘師のアカウント、
(3) 鈴木兄のご奉仕でYoutubeから、
以下からどうぞ。
家庭礼拝のために
聖書 福音書 ルカ 24: 44~53(新161)
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 あなたがたはこれらのことの証人となる。 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
説教 「裁き主、弁護者、証人」徳弘浩隆師
1. 導入
今日は、昇天主日です。この前一緒に教会で礼拝をしたのは4月12日のイースターでした。イエス様が復活されて、復活後のしばらくの日曜日を一気に飛ばして、イエス様が天に昇って行かれた日を、今日は迎えました。
イエス様を十字架で失い、自分たちの頼るべき方を失った彼らは、自分を責め、失望し、恐れ、色々な気持ちで家に引きこもっていました。復活のイエス様に出会い、喜び勇気づけられましたが、半信半疑でもありました。しかし、一緒に食事をし、教えをもう一度聞き、心が燃え、目が開ける思いをして過ごしていました。
私たちも、この期間、新型コロナウイルスの感染症の影響で、だんだんと心配になり、岐阜に住んでいる私たちの街でも感染者が急に増え始め、他人ごとではなくなり、毎日ニュースを聞いて恐ろしくなってきました。一緒に集まることができず、週報を読んで、またインターネットやCDを通して礼拝に参加し、共に祈ってきました。
そして、今日は昇天主日です。イエス様があらかじめ説明されてはいましたが、いよいよ、お別れの時が来たのです。しかしそれは、何かの終わりではなくて、新しい出来事の始まりでした。
そんな私たちに神様は、何を語りかけておられるのでしょうか。聞いていきましょう。
そして、私たちも今日、久しぶりに礼拝のために教会に集まっていますが、新しい出来事の始まりになります。まだ、体調が悪かったり、ご家族のことが心配で礼拝をお休みの方もおられます。でも一緒に、今日、新しい出来事の始まりといたしましょう。
2. 聖書
今日の聖書では、イエス様が弟子たちと別れる前に、短く「最後のまとめ」ともいえる短いお話をしました。
・それは、「メシアに関する預言が必ず実現すること」つまり、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」こと。
・また、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」、「あなた方はこれらのことの証人となる」
・そして「父が約束されたものをあなた方に送る」
という3点でした。ここで、旧約聖書からの神様のご計画をメシアの中に整理実現し、すべての人に救いが宣べ伝えられることになるが弟子たち自身がその証人となること、それを助けるために聖霊を送るということ、この3点を最後に説明されたのです。
それを語り終えてから、弟子たちをベタニアのあたりまで連れていきました。それは、最後に十字架に向かうためにエルサレムに入城するときにベタニアのそばのオリブ山からエルサレムへ最後の出発をされたことを思い出させます。いまや、新しい段階の最後の出発の時となっているのです。あの日、この場所からエルサレムに入り、すべてが実現したことを、彼らは思いだしたでしょう。そして、今、同じようにここに立ち、イエス様との新しい出発になっていくのです。
今回は、十字架にかかるためにエルサレムに入るのではなくて、イエス様は手を挙げて祝福しながら、彼らを離れ、天に上げられていったのです。
このようにして、イエス様は天に上げられ、弟子たちも新しい出発となりました。
3. 振り返り
さて、この数週間の聖書を読みながら今日まで、頭の中に残ったいくつかの言葉、それが今日の説教題になっています。「裁き主」「弁護者」「証人」という言葉でした。
これらはまるで、裁判の時のいくつかの言葉だなと思わされました。裁判官、検事、弁護人、そしてそこに呼び出される証人です。
そんなことを考えている間に、ちょうど、検事の定年延長の法律改正案が問題になりました。「時の権力者に有利になる法律改正ではないか」と人々は反対の声をあげました。そして次は、注目の検事が不祥事が暴かれて辞任していくという出来事が目の前で起こっていきました。
「政府が司法をコントロールしようとしていて、これでは三権分立ではなくなる」と不安を感じることでした。しかし、不祥事が暴かれるという形でそれは消えていくことになりました。
権力の乱用を抑止するために、立法、行政、司法の三権がそれぞれ独立して互いを牽制し合うことによって、独裁や間違った方向に突き進むことがない国が実現するということを思い出します。裁判の中でも、検事と弁護人と裁判官がそれぞれの役割を果たすことによって、適正な判断ができるようになるでしょう。つまり、罪を暴く人、容疑者を弁護する人、そしてそれを客観的に審理して判断する人、という具合です。
さて、神様と私たちはどうなのだろう、と素人ながら考えさせられました。
人間をつくり、滅ぼし、救うのも、神様の一人芝居なのか?ということです。人間は神のロボットなのか。それともすべてが予定されていて決まっているのか?私たちもよく考えるでしょう。
苦しみや試練に出会ったときに。どうしたら救われるのか?神様はどうしてこんな目に合わせるのか。神様はどうして、手を貸してくれないのか。神様は罪びとを滅ぼす裁き主で高いところから見ているだけなのか。時々預言者に語り掛けるけれど何もしない方なのか。
今日の聖書を聞いて、私たちは答えを知りました。イエス様が聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて説明されました。「予言通り、メシアが苦しみを受け三日目に復活し、すべての人の悔い改めが宣べ伝えられる」と。
「裁き主」である神は罪をゆるせないけれども、同時に「愛である神」は人が滅びるままにしておくことができない苦しみを持っている。神の義・つまり正しさと、神の愛はまるで矛盾した二つの事柄で、それが交差するところに、キリストの十字架を見ることができる、と悟ることができます。
神様は決して高いところで見ている方ではなく、イエス・キリストとして人としてこの世に下り、自らの命をすてることで罪の犠牲となり、私たちが救われる道を開いてくれたのです。そしてそれは、死で終わらず、死に打ち勝ち復活し、天に上げられたのです。
これをわかりやすく説明し西欧の神学者を驚かせたのが、日本人のルター派の神学者北森嘉蔵の「神の痛みの神学」でした。短い時間ですべてを説明も理解もできませんが、簡単な説明にはこうあります:「神の痛み」とは、神が自らの愛に反逆し、神にとって滅ぼすべき対象になった罪人に対して、神がその怒りを自らが負い、なお罪人を愛そうとする神の愛を意味する。さばきの神と赦しの神が同一の神であるとき、罪人に対する愛と赦しは神の矛盾と葛藤すなわち、「痛み」なしにはありえないとされる。
4. 勧め
人が苦しむとき、神も苦しまれるというのは、どんなに慰めの言葉でしょうか。
イエス様は、こうしてこの世の生涯を終え、天に上げられていきました。
いま私たちは、何をすべきでしょうか?
弟子たちの様に、イエス様を伏し拝み、大喜びでエルサレムに帰り、神をほめたたえることです。そして、約束のものが送られたなら、すべてのことの「証人」として神様の愛と希望を、多くの人に伝えることです。
新型コロナウイルスの蔓延のせいで、苦しみや心細い生活がまだ続くでしょう。
しかし、私たちは、苦しく心細い絶望のような生活を味わいましたから、悔い改め、今までと違う、より良い社会を作るために、キリスト者として立ち上がり、伝道と奉仕、そして社会の変革を通して、人々のために生きていく、新しい生活が始まるのです。
手を広げられたイエス様の祝福を一緒に受けましょう。
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