2020年5月16日土曜日

週報・説教 20200517 復活節第6主日




家庭礼拝お助けビデオ素材
 前奏、賛美歌伴奏、聖書朗読、献金、賛美歌伴奏、後奏(黙とう)
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テキスト版 説教
説教 別の弁護者
1.   導入
今日の聖書の話は、先週の話に引き続き、イエス様が十字架にかかる前に弟子たちに長い説教をされた、「告別説教」の中での話です。教会のカレンダーでは今は復活の後なので、少し前後しますが、イエス様とのお別れ、そしてその後の神様が聖霊を送ってくださる、というお話を読むことになっています。
それは、来週は昇天主日、その次は聖霊降臨祭へと教会のカレンダーは進んでいくらです。新型コロナウイルスの蔓延の影響でしばらく一緒に教会での礼拝ができていませんでしたが、このペンテコステのころから、再開できるかもしれません。今日は、この聖霊について、一緒にイエス様のことばを聞き、今の私たちの生き方を考えていきましょう。

2.   聖書
 聖書の言葉を借りれば、「みなしご」。この言葉は、とてもデリケートな言葉で今は使いにくくなりました。それは、本人に責任はなく、しかも未成年の立場で、自分は望まずにそういう状況で苦しんだり差別を受けたりしている方々を、そういう立場の人を傷つける言葉、不快用語となりうる言葉だからです。
 私が子供のころはやっていたTVアニメに「みなしごハッチ」というハチの話がありましたが、再放送はされず、最近出たリメイクのアニメは「昆虫物語みつばちハッチ」という名前になっていました。
 別の言い方「孤児」といってもやはりまだ難しいかもしれません。良い代わりの言葉が見つかりにくく、難しいところがあります。
しかし、そこから逆にうかがい知れるように、その立場はとても苦しく寂しいものだということでしょう。
イエス様の弟子たちは、そういう立場に置かれることになったのです。そして、このヨハネの福音書が書かれたころの初期のキリスト教団のメンバーたちは、ユダヤ教からの迫害もあり、イエス様を失った彼らは、そのような頼るべき方を失った立場であったのです。
イエス様の弟子たちは、せっかくここまで一緒に生きてきたのに、イエス様を十字架への道で失おうとしていました。今日の話の後では、実際に十字架にかけられ、彼らは散り散りバラバラになりました。イエス様の復活を知り、集まっても、街の人を恐れて隠れていました。その後は、つかの間のイエス様との再会を過ごした後、イエス様は天に昇っていくのです。また、彼らは置き去りにされ、「みなしご」のようになっていく。そんな道のりを予見しながら、イエス様が弟子たちを安心させようと説明しているのが、今日の個所ということになります。
 イエス様はこういわれました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」と。「決して一人にはしておかないよ」というメッセージです。
 この弁護者という言葉は、今日の週報の聖書開設のコラムにも書いてもらっている通り、色々な解釈や翻訳の言葉があります。どれが間違っていてどれが正しいというよりも、いろんな意味合いで、多様性を持って受け止めてもよいのかもしれません。その言葉はもともとは、「傍らに呼ばれたもの」という意味合いを持っているので、法律上の「弁護者」という言葉以外にも、「慰めを与えるもの」「教えを与えるもの」という可能性もあり「助け手」とか「助けぬし」と呼ばれることもあります。
 いずれにしても、突然の出来事で放り出され、一人ぼっちになった。みな自分たちのことを理解してくれず、救いの手が届かず、苦しい思いをし、寂しく、時には腹も立ち、不安にもなる、そんな立場の弟子たち。顧みられず、分断し、悪者探しをし、何かを批判したくもなる、そんな状況でした。それは、当時のイエス様の弟子たち、初代キリスト教団の信者たち、そして、今の全人類の苦悩と同じものがあったのではないでしょうか。
そこに、イエス様は約束されました。「別の弁護者、別の助け手を送ろう」と。そしてそれは「永遠にあなた方と一緒にいる」と言われたのです。
別の助け手といわれているのは、イエス様ご自身も大いなる助け手であったけれど、それに代わる方が来るという事。イエス様は地上に人間としてお生まれになった神の子でしたから地上で永遠に生きていくことはできませんが、別の助け手は永遠に私たちと一緒にいてくださる、ということです。「この霊はあなた方とともにおり、あなた方の内にいるからである」と安心させてくれます。 

3.   振り返り
 今の社会を生きている私たちに、この言葉はどう聞こえてくるでしょうか?
 今まで以上に、イエス様の弟子たちの、そしてこの福音書が書かれたとされる頃の初期のキリスト教団の信徒たちの気持ちが、よくわかるのではないでしょうか。それは、突然生活が一変してしまったからです。家族のように、それ以上にしていた教会のメンバーとこれほど長い間、一緒に会わないようになったのは初めてのことでしょう。一緒に祈り、歌い、苦楽を共にし、笑ったり泣いたり、食事もともにしたりしてきたもう一つの家族と、一緒に過ごすことができなくなりました。心細く、怒りを覚えることもあったかもしれません。直接会うことではない手段を取らざるを得なくなりました。そして、慣れていた新しい技術ではなく、すこし古いものも慌てて使ったりもしました。インターネットや電話。メッセージに手紙、私も久しぶりに切手を買いに行き、郵便番号を調べ、CDに録音をしたりもしました。
 今こそ、私たちは、イエス様の大切さ、教会の家族のありがたさが分かります。

4.   勧め
聖霊、「その方」は傍らに呼ばれた方。そばにいてくれる方だそうです。自分では気づかないことに気づかせてくれます。教えてくれます。悔い改めさせてもくれます。
外食もできず、たくさんの人との会食もできず、毎日の生活に飽きて来たりもしました。もちろん、色々と工夫をしてくれる妻の食事に感謝していましたが、私は妻と二人の食事で、新しいことを思いつきました。「ちょっと席を代わって食事してみようよ」と。今まで向き合って食事をしていた席を、逆にしてみました。そして次はテーブルの角に90度の角度で互いに座ってみました。すると、今までと違ったものが見えてきます。お茶を入れるポットに近い私が入れていたお茶は今日は妻が入れる番です。「ああ、食事中の景色が違う。カレンダーがここにあって、窓が見えて、妻にはこういう風景が見えていたんだなぁ」と思わされました。
一緒にいるけど、向き合うだけでもなく、傍らにいてくれて、自分のことを見てくれていて、違った角度から教え、諭し、慰めてくれる方、聖霊の存在やその視線を、外から自分を別の視線で見るような、そんな体験を少ししました。
私たちには目に見えない聖霊、そんなことをしてみて、味わうのもいいのかもしれません。この方を迎えていきましょう。この方の助けを借りて、悔い改め、キリストの愛を生きていきましょう。
そして、二週間後に祝う聖霊降臨祭で、もう一度その恵みを受け取っていけるように、今の忍耐の時をかみしめながら生きていきましょう。
神様の祝福がありますように。


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