2020年5月8日金曜日

週報・説教 20200510 復活節第5主日






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20200510 説教 心を騒がせず、神を信じなさい
1.導入
今日の聖書の話は、「心を騒がせるな。神を信じなさい」というイエス様のことばから始まっています。なんと心強いことでしょうか。特に、いま私たちが生きている、新型ウイルスの感染症で大変な生活を強いられていますから、「そうだ、信仰を持っていれば、どんなことになっても大丈夫なんだ。もう心配するのはやめよう」と、安心したいところです。しかし、全部神様にお任せして、あとは今まで通りに生きていてよいでしょうか?それで、全部解決するのでしょうか?なかなかそうはいかないように思います。
では、どうしたらよいのでしょうか?今日は、その答えを、神様に聞いていきましょう。

2.聖書
 今日のイエス様のお話は、確かに、「心を騒がせるな。神を信じなさい」とはじまりました。しかし、それで終わっていないのです。都合の良いところだけつまみ食いのように聖書を読んではいけませんね。どういう状況で言われたて、どういう話につながっていくのでしょうか。
 イエス様は弟子たちに話されました。「一度お別れになるけれど、神様のところに場所を用意して、あなたたちを迎えに来る」「私がどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている」と。すると、トマスが言いました。「私たちにはわかりません。どうして、その道を知ることができるでしょう」と。そこでイエス様はあの有名な言葉、「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われたのです。
この状況のイエス様のお話は、十字架の道を前提にしています。なぜなら、この13章から16章までの長い説教は「告別説教」とも呼ばれるからです。十字架への道に進まれる前の、弟子たちへのお別れの説教でもあるのです。ならば、ここで話題になり、問答となった「私のいく道」というのは、十字架の道を表しているということが分かります。そうなると、「安心していいんだ。イエス様と一緒に道を歩いていけば、神様のところに、天国に行けるんだ。イエス様が安心してよいというから、安心して楽についていこう」と思ったら、大きな間違いになるということです。神様のもとに行くには、イエス様を信じて安心しているだけではなくて、その道のりが大切だということを今日は考えなければならないようです。

3.振り返り
 Facebookで、私の知り合いの大学の英文学の先生がこんな風に書きこみをしていました。「我が家に『どこでもドア』ができた。朝食をして、ドア一つで大学の教室で授業をして、ドア一つでリビングルームに戻ってきた」と。それは、Web授業をすることになって、職場まで移動する必要がなくなり、食卓からドア一つの書斎が学生たちに授業をする場所になってしまったことを、面白おかしく書いていたのでした。私もそれを察して、ドラえもんに出てくるどこでもドアが最近あちこちにできて便利になったなぁ、と思いました。しかし、ドラえもんの別の未来の機械が現れたら大変だと思って、返事を書きました。「『翻訳コンニャク』ができたら、失業してしまいますねぇ」と。「食べると、外国語が分かるようになるというコンニャク」。これがあったら、英文科の先生も失業、せっかく外国語を覚えてきた宣教師も失業、となるからです。
 確かに、旅行は目的地そのものよりも、そこへ行く途中の楽しみも多いと思います。考えてみたら、途中の旅で出会った人との会話や、電車を乗り間違えて大変だった失敗談、そんなものが思い出に残っているものです。わたしも、アッシジの聖フランチェスコの教会に行ったとき、よくわからないイタリアで電車の乗り換えを間違えて一度降りて、動き始めた電車にもう一度飛び乗ったり、ローマで有名な角の生えたモーセの像の教会を探したときに、なかなか見つけられずに歩いているときに、同じように迷って歩き回っていた外国人とあいさつをして笑ったことの方が、モーセ像そのものよりも思い出に残っています。

4.学び
 さて聖書に戻りましょう。イエス様の言われる「道」とは、どんな道でしょうか。それは、「イエス様の十字架の道」でした。そのイエス様を通らなければ、神様のもとに行くことができない、ということは何を表しているでしょうか?
 それは、私たちも自動的に救われて、自動的にすべてが解決して、自動的に天国に入れるということではないようです。イエス様の十字架によって私たちは赦され救われましたが、そのままではこの世はまだ問題だらけ、自分の人生も罪や迷いや失敗や苦しみもあるのです。
 それが、精錬されて、生まれ変わらされるためには、必要な苦難や試練、訓練がある。それが、イエス様の十字架の道を私たちも歩む、ということではないでしょうか。
 今、私たちは不便な生活を強いられています。普段仕事で会う人や家族以外の人とはなかなか会えません。一緒に楽しく食事会をすることもできません。「寂しいし、いろいろ面倒だし、もう嫌になってしまう」、と思っています。
 しかし、それを嫌な時期だと、嫌な顔をして過ごしては、ただのつらい期間です。これも、私たちが、何かを学び、感じ、成長し、生まれ変わるための、神様が人類にくれた、「悔い改めと生まれ変わりのためのトレーニングの期間かもしれない」と思って取り組むなら、私たちは、大きく成長させられるのではないでしょうか。
 それが、イエス様に従い、神様に出会っていくために通っていく、「道」なのではないでしょうか。
 何を悔い改めましたか? 何を感じましたか? 何を成長させられましたか?
 世界レベルの困難の中で、命の大切さとはかなさ、人と人のつながりの大切さを感じました。そして、心の衝突や、世の中の矛盾や差別や苦しんでいる人たちの存在を、見せつけられました。無理な開発競争で環境を破壊し、自然は秩序を壊してきていました。工場が止まって空気がきれいになり、人間が出歩かないから、観光地の水が澄み切って、動物も生き生きとしています。私達罪人の人類が、変えなければならないけれど変えられなかったことを、無理やり、体験させられているように思います。

5.勧め
あなたの、変わりたかったけれど、変われなかったことは何ですか? やるべきだとわかっていても、やれなかったことは何ですか?
イエス様を信じてついていけば、毎日「らくちん」で、神様のところに行くと思っていたら、間違いのようです。イエス様ご自身が行かれた、十字架の道を、苦しみの道を私も歩むことを通して、私が絶望し、悔い改め、重い腰を上げ、成長させられるのが、私の十字架の道なのでしょう。
この期間、神様の御心を聞きながら歩みましょう。私が、私の家庭が、私の教会が、私の国が、変わるべきことがあれば、変えていきましょう。それを通して、私たちの世界は、本当の意味で癒されていくのです。
今日も、一緒に祈りましょう。そして一緒に歌いましょう。「必ず乗り越えられる」と。
神様の祝福がありますように。

--報告 ごあいさつ------

夏日になる日もあり、よい気候でしたが、行楽は自粛で残念な思いをされている方も多いと思います。
通常の仕事や生活ができなくなったけれど、部屋の片づけや草刈り、マスクづくりをしているという声も教会メンバーから聞きました。ほかにも、高校はオンライン授業、子供たちとお出掛け、お料理…なども伺い、それぞれ、工夫を凝らしてお過ごしのことと思います。

連休明けの体制が整ったところで、また、連休から10日程経過した時点での感染者数がどのくらいに減少しているかが、今後の日本の社会の活動再開かどうかを決めていくでしょう。
どうぞ、皆様、もうしばらくの辛抱で済むように、祈り、行動しましょう。
「教会に多くの方をお招きし、一緒に礼拝しましょう」という本来の言葉と正反対のことを言わねばならないのは、大きな自己矛盾を感じることですが、仕方のないことでしょう。
今週の週報に、「ペストとルターの宗教改革」について少しふれました。私たちの社会や教会の在り方も、こういう大きな出来事の度に常識が覆され、生まれ変わり、成長してきた面もあると思います。
皆さんおからだをお大事に、そして、これが終わった時に、もっと良い教会と社会になれるよう、今を過ごしましょう。

私は、安定した音響設備や他設備の関係から、毎週の礼拝は岐阜教会でもち、それをいろいろな方法で中継しています。暑さで茂り始めた草刈りや修理に追われている面もありますが、週報と説教を週初めにつくるという今までと違う生活スタイル、教区長としての仕事やメイルのやり取りも増え、落ち着かない日が続いています。
風邪と喘息で体調がすぐれなかったときに、いくつも病院から受診を断られ心細い思いもしましたが、おかげさまで回復しました。

みなさまも、どうぞ、お元気でお過ごしください。
信仰をもって、「きっと乗り越えられる」「We shall overcome」とうたいながら、歩んでいきましょう。
ご心配のことがあれば、どうぞ、お知らせください。

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