2023年12月10日日曜日

説教メッセージ 20231210

 

聖書 マルコ 1: 1~ 8 (新61)

1神の子イエス・キリストの福音の初め。2預言者イザヤの書にこう書いてある。

「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。3荒れ野で叫ぶ者の声がする。

『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

そのとおり、 4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

説教「道を備えよ!年度末の道路工事?」徳弘浩隆牧師

1、道路工事の風景…

待降節も第二週になりました。アドベントクランツには2本目のロウソクに火がともり、クリスマスの訪れを告げています。

昨日は、いち早く教区の青年と外国メンバーのクリスマス会が開かれました。昔のように教区の他教会のメンバーはまだ集まるほどの勢いがなく、もう少し時間がかかるようです。しかし、私たちの2教会の関係で、スタッフやお手伝い、そして青年や外国メンバーが集まり、楽しい集会となりました。会場となった高蔵寺教会の皆さんに感謝します。日本の青年に加え、ブラジルと、インドネシア、ベトナム、ボリビア、ナイジェリアの出身や関係のメンバーが集まりました。3人は初めて来てくれた方々で、少ないながらもうれしい集会でした。来週は子供のクリスマス会、そしてその次は教会でみんなのクリスマスを24日に迎える予定です。

今日の聖書は、マルコによる福音書の最初から読まれました。キリストの到来を預言しているイザヤ書の預言と、その実現としての洗礼者ヨハネの活躍についてのところです。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」ということがば印象的です。

そこでいつも思い出すのが、年度末の道路工事です。最近はずいぶん減ったそうですが、会計年度の終わりに予算を消化しないと次年度予算が取れないとか、年度内に終了するはずの工事がうまくいかなくて3月ころはあちこちで慌てたように道路工事がある、というのも季節の風物詩とさえなっていました。



しかし、こんな写真もブラジルで有名になりました。陥没後たっての二日間で復旧した福岡の道路工事は世界で驚かれたのです。そして、それと並べて、自嘲的な写真がブラジルのSNSで話題にもなりました。「日本はああなのに、ブラジルのボクの地区はこうだ」という具合です。その写真は、福岡の道路陥没と二日後の復旧の写真、それとともに、1991年の写真と2015年のブラジルの道の写真です。25年ほどたつのに、道路の穴は修理されていないよ、という写真でした。


今どきは、写真の加工や合成もできますから、そのまま信用してはいけませんが、みんなどこかで納得し、苦笑いをする写真でした。その国の良くある課題を表していたからです。

さて、今日の聖書は、私たちに何を呼び掛け、問いかけているのでしょうか?クリスマスの準備、キリストを迎える準備はどのように、いつ、するべきでしょうか?一緒に神様の声を聞いていきましょう。

2,聖書 

今年はマルコによる福音書を読む都市が始まりましたから、今日はその最初の部分が読まれました。そしてそれは、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉から始まり、まずその予言と、その実現として起こった出来事を伝えています。

教会の新しい一年が、キリストの誕生、つまりクリスマスから始まるわけですが、その日からではなくて、その準備から始まることを意味しています。そして、その預言のとおり「準備をする人」が登場します。それが、洗礼者ヨハネという人だったという具合です。

 預言は、等jの彼らの聖書、つまり旧約聖書のイザヤ書とマラキ書から引用されています。イザヤ書では訳された方が来る前に、「先に使者」がつかわされ、その使命は「道をまっすぐにする」ことでした。そして、その方はどんないでたちで来るかということではマラキ書の預言の通り、ヨハネは「の毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」と説明します。

 「預言通り、約束されたいたキリストは来られる」ということと、その準備をすべきことを伝えています。さて、その準備とは何でしょうか?それは、ヨハネは何をしていたでしょうか?という問いとその答えで分かります。

 ヨハネは、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と書かれています。これが、クリスマス前の今の期間の私たちのすべき準備だということになります。

3,振り返り 

さて、私たちはどうでしょうか?クリスマスの準備をして教会も奇麗になりました。でも、神学校でお世話になった石井正巳先生はこういわれていました。「待降節は、降誕『日』を迎える備えをする時ではない。来臨する『お方」を迎える準備の期間である」と。

「罪の悔い改め」は十分にできているでしょうか?「悔い改める」とは、「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も謝ることではありません。「改める」ことも求められています。旧約聖書のヘブライ語では、「帰ってきなさい」という単純な言葉がそのように訳し分けられています。

わたしたちの現状を見てみましょう。毎日のニュースで知ることは、人間の罪深さです。もちろん、心温まるニュースもありますが、聞いているだけで気が滅入るような話が、次々に出てきます。

犯罪、虐待、争い、強盗、組織犯罪、そして戦争です。だれもが、「神がいるならどうしてこんなことが続くのか!?」と叫びたくなります。しかし神の答えはこうでしょう。「あなたがいるのに、どうしてこれが止められないのか。改められないのか」と。

神の言葉で一瞬にして解決して変えてもらうのではなくて、人は知恵と愛を持って生きるように想像されています。私たちは、それの使い方を間違えてきたのです。それが、人類の罪です。

そこから悔い改めて、新しい生き方をするために、神は奇蹟で一方的にそれを解決するのではなく、人がそれを知り自ら方向を変えることを願い、準備してこられたのです。そこに人間がロボットではない、自由と知恵と愛を持った存在として創造された理由があります。そのように、自分を見つめ、悔い改めるときを持ちましょう。毎日の戦争や犯罪の報道は、それをわたしたちの心に迫っているとも言えます。

4,勧め 

先週案内をした、ベツレヘムのルーテル教会の牧師のインターネット上の平和と連帯のイベントに参加しました。全世界から700人ほどの参加でした。このがれきや、人の苦しみの姿は、人類の罪深さを訴えます。そしてそれは、私の心の中にもある罪深さを思い起こさせます。

憎しみの連鎖ではなく、神を愛し、人を愛し、敵をも愛すことを教え、そのように生き、死なれた方は、本当のゆるしと神の愛を地上に示されました。

この方を思い起こしながら、私たちも、もう一度、悔い改めと、生まれ変わりを経験しなければ、何も変わりません。人類は世代を超えて、この罪と悔い改めの連続を繰り返し、同じ人類の罪と向き合っています。それは、いつかの世代で完全に解決して、その世代以降は問題がすべて解決した理想世界が来るのではなくて、いつもいつも、それを繰り返す必要があり、それが私たち一人一人の人生なのかもしれません。

しかし、神は知恵を愛をくださっていますから、七転八倒しながら、少しずつ社会は変革していく道を歩めるのかもしれません。

そのとき神様は私たちに尋ねるでしょう。「あなたがいるのに、どうしてこれが止められないのか。改められないのか」と。本当の愛とゆるしと和解の生活が、個人の生活で出来ていないなら、世界も変えられません。神様に責任転嫁してはいけません。私たちに、悔い改めと新し生き方を始めさせていただけるよう、祈りながらこの日々を過ごしましょう。 


牧師コラム・ 今日の写真・平和を願う 3 

先週案内した、ベツレヘムのルーテル教会の牧師、ミトリ・ラヘブ牧師の企画したイベントが開かれました。全編英語ですが、世界各地からの連帯のメッセージややり取り、音楽家の音楽が披露されました。日本からも私の知り合いも登場しました。ネットでご覧になれます。

以下のリンクから、YouTubeに誘導され、そのまま見ることができます。どうぞ。




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