2023年9月9日土曜日

説教メッセージ 20230910

聖書の言葉マタイ 18:15~20 (新35)

15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 

19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 

20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」



説教 「 2 + 3 = 6 ?」 徳弘浩隆牧師

1, 教会員マニュアル?

今日の聖書は、「こういう時は、まずこうしなさい。それがだめなら次は、こうしなさい」という具合に、なんだか、マニュアルのように見えますね。

先日、幼稚園の教師研修会の聖書の学びを依頼されて行ってきました。その後は、実務的な研修もありました。こどもがケガをした時の対応で、私も参考になるのでそのまま参加させていただきました。

子どもがケガをした時には、各部屋の壁に下げてある緊急対応マニュアル・シートを取り、それを見ながら、教師を数人大声で呼んで、こどもの状態の確認をし、マニュアルに沿って、AEDを取りに行く人、救急車を呼ぶ人、保護者に電話をする人、救急車の到着に合わせて誘導する人など、書かれてあって、良くできているマニュアルでした。実際にロールプレイをしてみようということで、私も参加しました。しかし、実際に人形相手にやってみると、段取りが難しかったり、分かりにくいところもあり、意見を出し合ってより良いものにしようということになりました。

マニュアルはやるべきことが順番に書いてあり、実はカードになっていてそれをはぎ取って担当者に渡して、それを見ながら行動するのでとても良いのですが、はいだ後にも同じことが書いてあって、どれをやったのかやっていないのかがわかりにくい状態でした。そこで、カードをはがしたところには、別の色で同じ項目があると、実施済みと未実施が誰もがすぐわかるという改善案を私も出しました。

今日の聖書の「マニュアル」に見えるところは、何か改善案があるでしょうか?神様はなぜまた、こんなことを聖書に書かれているのでしょうか?一緒に学んでいきましょう。

2,聖書 

聖書は、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という設定で、どのようにしたらよいかが、順に書かれています。まず入って二人だけのところで忠告すること。受け入れられなければ、ほかに1-2人連れていくこと。それでも聞き入れられなければ、教会に申し出なさいとあります。それでもダメな場合は、教会としてそれなりの対応をするべきことも示されています。具体的に言うと、「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と、つまり、教会員の輪から一時的に距離を置いた付き合いにして、悔い改めが必要な人として対応しなさいということかと思います。

ペテロにイエス様が言われた言葉と同じように、「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と複数形で、つまり、ここでは「教会に対して」、言われています。

イエス様や神様との直接の一対一の関係ではなくて、神様がたてられた教会の機能と、その大切さが示されています。マタイの福音書では特に強調されてるといってもいいかもしれません。

しかし、その教会の秩序と機能は、罪を犯しても悔い改めないものへ誠意を尽くしてもダメだった場合の残念ながら厳しい処置ということだけではありません。「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と続くからです。「2+3」は「5」ではなくて、キリストもともにおられる「6」なのです。

3,振り返り 

 先日会議で東京へ行くとき、新幹線でしたから自宅本棚から目についた新約聖書分析の本を手に取ってカバンに入れ、出かけたので、それを読んでみました。学術的にいろいろな説明がされている興味深い書物でしたが、「キリスト教信仰の矛盾」として、指摘しているところがありました。学者として明快で整理され大変参考になるのですが、信仰的には納得できないという面がある方の書物でしょう。「あなた方の罪は許された、というのに、罪を悔い改めよ、という」「ペテロをほめた後サタン呼ばわりする」と指摘し、続いて「事実、キリスト教会は、罪が許された善人たちの集まりに見えないことや、歴史もある」とやんわりとですが厳しく指摘しています。どう考えたらよいでしょうか?ある面、今日の聖書のイエス様の言葉は、それを見越したような、それへのマニュアルのようなお話とみることができるかもしれません。

 キリストを受け入れ、罪を告白し、洗礼も受け・あるいはそれも考えながら学び、神の国へ招かれているのが私たちです。聖書が言う「神の国」は、神様の直接のご支配があるところということで、死後の天国だけのことではないと、何度も確認してきました。

 私たちは、そこに招かれ、そこで生きています。しかし、私たちはまだ、救いの途上でもあり、神様に訓練され、育てられている途上です。終わりの日に、救いが完成すると、キリストの再臨や新天新地が予言もされているのです。

 そこで、この世の命の道のりを歩み続ける際に、「教会」を通して、ゆるしと教えを受け、絶えず悔い改めながら、絶えず新しくされ、生きていく信仰生活を送ることになっています。通信教育や、一人で自宅で済ませるというわけにはいきません。「教会」とは、今日の聖書でもイエス様は「エクレジア」、つまり「集会」「集められたもの」という言葉を使っておられます。集められた人々の中にいることで、「ゆるしと教えを受け、絶えず悔い改めながら、絶えず新しくされ、生きていく」のです。

 そこで、神に対してではなく、「あなたに対して罪を犯したなら」ということも時には起こるのだと、イエス様はあらかじめ言われます。ゆるされているけれども同時に罪びとでもある私たちです。ここで「罪を犯したら」という「罪」は「的を外す」という言葉が語源になっているというその言葉が使われています。

 一生懸命にしていても、良かれと思って一緒にしていても、的を外してしまい、あるいは、それぞれ違う方向に向かって一生懸命にやっていては、ぶつかることや、傷つき傷つけることもあるでしょう。

 方向を修正すること、そのために、正直に話し、また話を聞くことで、悔い改めと和解が起こります。罪を犯しぶつかることも、正直に指摘し悔い改めと和解が起こることも、自分の罪を自覚し、祈り、ゆるし、ゆるされて、信仰的に成長させられることも、「集められた者たち」つまり、「教会」での出来事の中でしか起こらないのです。それが、「教会」の信徒の交流の大切さだと、私は考えさせられます。そして、時にぶつかり、議論し、ゆるし、ゆるされながら、教会で何度も何度も、罪の自覚やゆるしの自覚、愛の足りなさや、すこしは愛せるようになったり、という体験をさせてもらっていると思います。

4,勧め 

 そんな教会に、私たちは招かれています。

 こどもの怪我の時の対応マニュアルでもう一つ大切なことに気づき、私も気づきとして共有しました。最初に見つけて、マニュアルを見ながら対応・指示する人は、年が若かったり、経験がみじかい先生の場合もあるけれど、その人が責任をもって、少し大声を出して、遠慮しないで先輩にも指示を出さないと、混乱したり、時を失ったりしてケガへの対応が遅れることもあるので、その人は遠慮せずにやり、他の人はその時はその人に従いましょう」といいました。何度かのロールプレイの時に、遠慮気味で声が小さく、スムーズでないときがあったからです。

 キリストに従い、教会という新しい家族の中で、一緒に、信仰生活をすることの大切さと、恵みを今日学びました。あなたも招かれています!

 


牧師コラム・今日の写真      



先日、春日井市の国際交流センターから電話があり、通訳を頼まれました。ブラジル宣教師の経験を生かして、通訳ボランティアに登録しているので、その依頼でした。せっかく勉強させてもらったポルトガル語で人の役に立てたら、教会に招けたらとも。ところが、今回は「いいですよ」と快諾した後に分かったのですが、スペイン語で南米の方でした。困っている人がいたらと、少し無理をしてスペイン語と英語でも登録していたのです。だいぶ頭は整理できたつもりですが、スペイン語で話し出すと自然にポルトガル語が混ざったり悪戦苦闘しました。しかし、お役に立てたようで喜ばれました。書類にサインをしてもらい、私もサインして、市の国際交流センターに提出と報告に行きました。「ささえ愛センター」という名前の建物です。何か自分のできることで、「ささえ愛」ができたらいいですね。


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