2023年1月28日土曜日

説教メッセージ 20230129

聖書の言葉 マタイ 5: 1~12 (新6)

1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 2そこで、イエスは口を開き、教えられた。

3「心の貧しい人々は、幸いである、

天の国はその人たちのものである。

4悲しむ人々は、幸いである、

その人たちは慰められる。

5柔和な人々は、幸いである、

その人たちは地を受け継ぐ。

6義に飢え渇く人々は、幸いである、

その人たちは満たされる。

7憐れみ深い人々は、幸いである、

その人たちは憐れみを受ける。

8心の清い人々は、幸いである、

その人たちは神を見る。

9平和を実現する人々は、幸いである、

その人たちは神の子と呼ばれる。

10義のために迫害される人々は、幸いである、

 天の国はその人たちのものである。

11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

説教 「平和を実現する人」 徳弘浩隆牧師

1.       「平和」という地名…

 先週は、週報にもありますように、広島に行ってきました。特別集会に招かれて、ルーテル広島教会に行って説教や講演会をしてきました。そして、「火曜日はこども食堂があるから大きなパエリャ鍋でパエリャを作って、こどもたちを喜ばせてほしい」ともいわれて、鍋やコンロも車に積んで行って、お手伝いしてきました。

ところで、このルーテル広島教会は、「平和大通り」沿いにあります。

今日の聖書にも、「平和」という言葉が出てきます。そして、それは「○○な人は幸いだ」という8つのお話の中に出てきます。戦争やいさかい、詐欺や悲しい事件をたくさん聞く毎日ですが、この「平和」や「幸せ」とは程遠いような現実を見せられます。それらはどうしたら得ることができるのでしょうか。一緒に聖書から、イエス様のメッセージを聞いていきましょう。


2,聖書

 今日の聖書は、イエス様が「山上の説教」または「山上の垂訓」ともいわれる、5章から7章まで続く長い説教をされたお話の冒頭です。ガリラヤ伝道の初めの頃で、場所はカファルナウムという場所の背後にありガリラヤ湖を見下ろす小高い山だと言われています。

今ではそこに、フランチェスコ修道会の「山上の垂訓教会」という教会が建てられています。写真は私が昔訪ねて、嬉しそうにバルコニーに立っている教会の写真です。天井はドームになっていますが、その下の壁は八角形になっていて、それぞれのイエス様の「幸いなるかな」というギリシャ語の言いだしの言葉が書かれてあります。それが八つあるので、教会のつくりも八角形になっています。今日の聖書の部分は、「山上の垂訓」の中の「至福の教え」とか、「八福の教え」といわれるところです。



「○○の人は幸いだ・幸せだ」という事ですが、一見するとそうは思えない言葉から始まります。いろいろな解釈や説明、そしてそれによる翻訳がされていますが、「心の貧しい人、悲しむ人」などは、そのままで幸せとは思えないからです。

 これらは、山上の説教の最初に語り始められたイエス様のお話です。悲しみ、苦しみ、虐げられ、救いを求めていた人々に、「○○の人は幸いだ」と切り出しながら語り掛けました。ギリシャ語の聖書では、昔の日本語訳のように「幸いだ!○○の人は」と語られています。「良かったねぇ!悲しんでいる人は」という具合です。イエス様のうわさを聞いて集まってきた大勢の人々はこれを聞いて、驚いたでしょう。

「こうしたら救われる」ではなくて、今の苦しさや悲しさを、「良かったねぇ」というからです。

「なんだそれは!」と思うところですが、それがイエス様のお話の分かりやすいところ。その驚きの後に、「その人たちは、神様の祝福と慰めを受けるよ」と説明されるのです。なぜかというと、満ち足りて、喜んでいる人々は、神様に頼ることをしないからです。

「良かったねぇ」といった相手は、「自分こそ天の国に入るにふさわしい」という人ではありませんでした。そうではなくて、貧しい者、この世から見はなされているような人、嘆き悲しむ人、自分の無知や弱さに絶望するような謙虚な人、不正義に悩まされながら完全な正義が行われることを求める人、同情や憐れみの心をもつことのできる人、純粋な思いをもつ人、神との間に、また人との間に平和な関係を造ろうと努力をする人、そんな中にあっても迫害を受ける人、そんな人々に対してイエス様は「よかったねぇ!」と言われたのです。その理由は、そんな時に希望をかけるのはただ神でしかないという事に気づかされるからです。自分に頼って憎み合いながら生きるよりも、神様に立ち戻り、神と人を大切に生きることこそが、私たちが、幸せに生き、平和で安心して生き方法だからです。


3,振り返り 

私たちはどうでしょうか?広島教会のこども食堂を思い出します。この日は少なかったそうですが、150名くらい来てくれました。保育所のこどもや、夕方食堂にやってきた親子はみんな大きな鍋を見てびっくりして、喜んで食べていってくださいました。教会の礼拝にはまだ来られないような地域のいろいろな方々もボランティアで来てくださり、いろんな方と出会い、交流もできて、良い学びにもなりました。いろんなご家庭の事情のある方のことも少し聞きましたが、親子でやってきて、なかにはこどもだけの二人連れもいます。いろんな世代の方が、ボランティアでかかわり、挨拶やお片付けも指導します。いわゆる貧困対策だけではなくて、今失われている地域の交流や世代を超えてこども達を一緒にしつけをして育てる、そんな場でもありました。「こんばんは」や「ありがとう」の挨拶をしたり、食事を残した子には「大事な食事を残さないように、最初に食べれる量や好き嫌いもちゃんと言わなきゃだめよ」とちょっと怒られたりもして、頭を掻きながら謝って帰っていく子もいました。笑顔で食べて、手を振って帰っていくこどもたちと接して、私達もやさしい、平和な心になりました。

「うれしいこと、おいしいものは分け合う事でもっとおいしく幸せになるんだよ」と、そんな話も保育所の礼拝で大きな鍋を見せながらしたそうです。

しかし、そんなうれしい平和な場所は、何もかも整った平和な理想的なところにあるわけではありません。

日曜は全国駅伝もあったそうでホテルはどこもいっぱい。そしてこの日は大雪で大変でした。おまけに何者かの「市内の中学校に危害を加える」という予告があり、安全のために市内の学校は切り上げての下校となったそうです。そんな混雑と大雪と心配の中の広島教会の、平和で温かくうれしい経験でした。

そもそも、ここが「平和」と名付けられたのは、「歴史的にも世界の中でも一番平和な場所だからそう名付けられたのか?」とふと考えさせられます。もちろん答えは逆ですね。一番苦しく悲しく悲惨なところ、だから、平和を願う場所として名付けられたのでした。「平和な場所」ではなくて、「平和を願い祈る場所」なのです。平和を作り出す努力をし続ける場所なのです。


4,勧め

絶望や苦しみから、人間の罪深さや自分の限界を思いしらされ、本当の愛のある神様に出会い、この方に頼り、地道な生き方をしていくときに、幸せを感じるのだと思わされます。平和も与えられるものではなく、作り出す地道な努力をする中で、実現するものです。それらをする人が、「良かったねぇ。幸せでしょ」と言われるのでした。そんな生き方をみつめ、一緒に歩んでいきましょう。私から、私たちのコミュニティーから、平和が始まります。私の心にも、社会にもです。そんな教会に、お招きしています。一緒に生きていきましょう。一緒に幸せな人になり、平和も実現していきましょう。 

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