2023年1月7日土曜日

説教メッセージ 20230108

聖書の言葉 マタイ 3:13~17 (新4)

13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。 14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。 16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。


説教 「神様は『親バカ』か?」  徳弘浩隆牧師

1,今日はいったい何の日?

昨年末のクリスマスにイエス様のお誕生をお祝いしました。そして、イエス様のお名前が付けられたという出来事を見てきました。そして、1月6日に東方の三博士が来たという話になり、顕現節・エピファニーという日を祝う事になります。しかし、今年はカレンダーの関係で省略され、イエス様が洗礼を受けられたという日につながっていきます。教会の専門の担当者によると、「この二つが重なってしまう場合は、より重要な洗礼の出来事を覚えて礼拝することになる」とのことです。それが例年と少し違う事です。そして世界中の人がニュースをみて「へー」と驚かれたことがあると思うのは、ロシア正教会では1月7日がクリスマスだという事でもあるでしょう。これは、ユリウス暦という暦での12月25日が今の社会のグレゴリオ暦で言うと1月7日になる、という少々ややこしい話になっています。いずれにしても、今日はそれらのことを思いめぐらせながら、神様の言葉を聞いていきましょう。

クリスマスに明るく暖かい光として迎えたイエス・キリストですが、私たちの人生や、社会はどうでしょうか?依然として、罪にまみれた、問題だらけの世界、そして、それを構成している私たちという事を見せつけられています。

今日の聖書では、イエス様が洗礼を受けられた記事になっています。それはなぜでしょうか?イエス様も、罪びとだったのでしょうか?一緒に聖書から神様のメッセージを聞いていきましょう。


2,聖書

 当時、荒野で洗礼者ヨハネが人々に罪の悔い改めを迫る説教をし、人々が集まっていました。そして、ヨルダン川で洗礼を授けていたのです。そこに、イエス様が現れます。ヨハネはこの方が自分以上の方であると知り、思いとどまらせようとしますが、イエス様はヨハネを納得させて洗礼を授けた、という事でした。

 今日の最初のポイントは、この洗礼は、イエス様が十字架と復活の後に弟子たちに命令した「すべての人に福音を伝えて洗礼を授けよ」という洗礼とは違うという事です。ヨハネはメシアを迎える前の罪の悔い改めのための洗礼でしたが、イエス様の命じた洗礼は「罪の自分が死に、キリストの復活とともに新しく生まれ変わる」という事だからです。なぜ罪びとではない神の子であるイエス様はヨハネの洗礼を受けたのか。それは、罪びとの中に生まれ、罪びととともに生きたイエス様は、必要がないのに、私たちと同じ側に立ってくださったという事です。天の上から指図をするのではなく、私たちのただなかに、人の姿で来てくれた方だという事です。

 そして二つ目は、「天が開いて、神の霊が鳩のように下ってきた」ということと、「これは私の愛する子、私の心に適う者」という声が天から聞こえたということです。イエス様は、神の霊に満たされ、父なる神の「愛する子」「心に適う者」だったのです。そんな方が、私たちの中に生まれ、神の愛を伝えてくれるという事が大切です。

3,振り返り

さて、ここで私たちは自分の生き方をも振り返らねばなりません。

イエス様は「神の愛する子」「神の心に適う者」なのですが、私は、私たちはどうでしょうか?

わざわざそう聞こえてくるという事は、私たちは、そうではないという事かもしれません。

では、神様は私たちを愛していないのでしょうか?愛しています。私たちも本来は神様に作られた、神の子だからです。「これは私の愛する子」には違いがありません。では私たちは何が違うのでしょうか?

二つ目の天の声をもう一度聞きましょう。それはこうでした。「わたしの心に適う者」。私たちは、神様の心に適う者でしょうか?いいえ、違います。ここが大切なところです。神様の言葉を捨てて、善悪を勝手に考え、決めて、勝手に生きることを始めたのがアダムとエバの話で伝えられています。それ以降、エゴイズムが勝る私たちは、傷つき、傷つけ合い、生きてきました。そんな「ダメ」な罪びとになってしまったのです。

でも、「『バカ』な子ほどかわいい」という言葉もあるように、親なる神様から見たら、私たち罪びとも、愛する子であり、不憫でならないのかもしれません。

ですから、歴史の中で預言者を建て、奇跡も起こし人々を導いてこられました。それでもどうにもならないので、神ご自身がこの世に来られたともいえる出来事が、クリスマスの出来事だったのです。

ダメな、バカなともいえる私たち罪びとの人類をここまで愛し続ける親なる神は、もっと大きな「親バカ」な親と言えるかもしれません。


4,勧め

ダメダメな、不憫な子かもしれませんが、そこに甘んじていてはいけません。そこから、ゆるし、救い出し、生まれ変わらせるために、イエス様は来られました。

この方に従って生きることを始めるときに、私たちもイエス・キリストが定められた洗礼を受けるときに、変えられるのです。「神様の心に適う者」に。ダメダメだけど不憫で愛する子ではなくて、神様の言葉を守り、神と人を愛し、平和と愛の社会を作り、他者とともに笑い、また、泣く事ができる、神の似姿になっていくのです。

今日は、新年のお菓子で、妻がポルボロンというスペインのお菓子を作ってくれました。私たちの好きな地中海側のアンダルシアの修道院生まれのお菓子だそうです。ほのかな甘さと、柔らかくもろい口当たりのお菓子で、クリスマスや新年によく食べられるそうです。

これと一口で口に入れ、「ポルボロン、ポルボロン、ポルボロン」と3回言う事が出来たら、幸せがやってくるという言い伝えがあります。もちろんそれは迷信の類でしょうが、意味深いものがあります。

なぜなら、ポルボロンというスペイン語は、Polvoという言葉にónという大きなものを表す言葉がついてできています。Polvoは「塵」という意味です。英語ではダスト、日本語ではホコリとも辞書に出てきます。

人ももともと地のホコリから作られ、神の息・聖霊が吹き込まれて生きた人となったと聖書は伝えています。それが大きくなったもの。それは私たちの姿かもしれません。もろくて、大切に扱わないと壊れてしまいます。すごく甘いものではないけれど、ほのかな甘さと、もろさは、人の大切にすべきいのちを思い出させます。

しかし、人は、つぶし合い、殺し合いをしてきた罪の歴史を重ねてきました。今こそ、神様に立ち返り、大切にし合う、生き方を始めましょう。

その時、私たち皆もまた、神の愛する子、神の心に適う者に、されていくのです。

 

牧師コラム クリスマスと新年のお菓子、外国では?

スペインには、ポルボロン( Polvorón)という焼き菓子があります。妻が好きになって時々作ってくれます。

Wikipediaなど、インターネット上には、こんな説明があります。

ポルボロンの名称は、塵を表す「ポルボ」(スペイン語: polvo)に強調語尾の「ロン」(スペイン語: rón)がついたもの。塵のようにホロホロと崩れる口当たりのクッキーに由来する。材料は、小麦粉、ラード、砂糖を主原料としている。アンダルシア地方の修道院で1200年前に誕生した。大航海時代にはスペイン植民地に広まり、フィリピンやキューバなどでも食べられるようになった。

願いが叶う魔法の?クッキー:クッキーを口の中に入れて、崩れてしまう前に「ポルボロン、ポルボロン、ポルボロン」と3回唱えることができたら幸せになる、願いが適うという言い伝えがある。

今日の説教と一緒に、心で、食べながら、味わってみませんか?

最近は、KALDIなどにも似たものが売られているようです。すこしかたいですけどね。もろく、はかなくもある、人のいのちや幸せ、互いに大切に思い合い、生きていきましょう。


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