聖書の言葉 マタイ 4:12~23
12イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。 13そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。 14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。15「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、16暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
17そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
18イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 19イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 20二人はすぐに網を捨てて従った。 21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。 22この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
23イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
説教 「私についてきなさい」
徳弘浩隆牧師
1.知らない人について行ってはダメよ
昨日は、いろいろな仕事が残っていて、出発が遅れてしまいました。愛知県から懐かしい岐阜、そして滋賀県を通って車で来ながら、「やっと滋賀県に入ったねぇ」と妻と話しました。私はそんな話をしながら、知り合いの志賀さんという方を思い出しました。ブラジルのサンパウロの教会で出会った方のことです。ある日本の会社の現地法人の社長さんをされている方ですが、ルーテル教会に来るようになって、礼拝に熱心に通い、気さくにいろいろなことを手伝ってくれ、教会を支えてもくれました。「志賀さんというのは、いい名前ですねぇ」と彼に言いました。「だって、『ついて来い』っていう意味だから、ちょうどいいですねぇ」というと、彼もポルトガル語の意味がよくわかる人で、「いや、ついて来いっているだけじゃ、なかなかうまくいかないことが多いですよ」と苦笑いしながら話したことを思い出します。いろいろな現地の責任者のむつかしさ、社会や文化の違いで苦労されてきたこともお聞きしました。
今年のクリスマス以降の聖書は、イエス様の洗礼、イエス様の命名、洗礼者ヨハネとの出会いと洗礼などが最近連続して出てきましたが、今日はそこから続いて、宣教の始め、そして弟子が選ばれていくことに続いてきました。
「私についてきなさい」と言われ、すべてを捨ててついて言った最初の弟子たちでした。
「『ついて来い』というだけではなかなかうまくいかないですよ」という友人の話を思い出します。そして、「死なない人について言ってはいけませんよ」というこどもたちに教える親のセリフも思い出します。今日は、このイエス様に従って言った最初の弟子たちについて、一緒に学びましょう。そして、そこから聞こえてくる、今の私たちへの神様の呼びかけを聞いていきましょう。
2,聖書
今年はマタイによる福音書を読み進む年ですね。マタイは、ユダヤ教の伝統の中に生きるユダヤ人向けに、書かれたと考えられています。出来事のあとで、しつこいほどに、旧約聖書の引用や、「予言通りに、このように実現した」と書かれてあるからです。今日の最初もそうでした。イエス様がガリラヤに退き、ナザレを離れ、カファルナウムに来て住まわれたということが、「聖書のイザヤ書の預言が実現したのだ」とわざわざイザヤ書の一説を引用しながら説明しています。
そして宣教をはじめられ、ガリラヤ湖のほとりを歩いているときに漁師たちに会い、「私についてきなさい」と言われて、彼らを弟子にしたというのです。
ここで、「あれっ?」と思う方もおられるでしょう。先週読んだヨハネによる福音書の弟子たちのついて言ったいきさつとは少し違うからです。ヨハネがイエス様を「世の罪を取り除く神の子羊だ」と紹介した時に、ヨハネの弟子の二人がイエス様についていき、そのうち一人は兄弟を呼んできて彼も従ったと、伝えられているからです。その時のキーワードは、イエス様が「来なさい。そうすれば分かる」と言われた言葉でした。
いくつかの伝承があったのかもしれませんし、むつかしいことはわかりません。しかし、この時のイエス様の特徴的な呼びかけ、「私についてきなさい」という言葉と、「来なさい、そうすればわかる」という言葉を味わっていきましょう。
それは、多くの一般的な宗教で考えがちな、天の高いところにおられて、階段を一歩一歩上がってゆくことが求められるのとは違うということです。天から下り、私たちと同じ地平に来られ、罪びとの私たちと共に生き、呼びかけられた方がイエス様だったということです。むつかしい神学や、恐怖や力でねじ伏せる方でもありませんでした。知識のやり取りではなく、「来たらわかる」といわれ、漁師には「人を生かして救い出す漁師にしよう」とわかりやすく呼びかけたのでした。
3,振り返り
私たちはどうでしょうか? そのイエス様の呼びかけがちゃんと心に届いているでしょうか? 私たちはすぐに、反対のことを考えます。
赦してもらうために、神様に出会うために、修行をして、苦労をして、上り詰めないといけないと。
イタリアのローマに「スカラ・サンタ教会」という古い教会があります。説明はこうです。スカラ・サンタとは、十字架にかけられる前のイエス・キリストが登ったと言われる階段で、コンスタンティヌス帝母ヘレナにより、イスラエルにあったピラトの宮殿内からローマに移築された、と伝えられています。主の祈りを唱えながら、跪いてこの28段を上れば、天国が約束されるともいわれていたそうです。マルチン・ルターも収去改革前にローマに行ったときに訪ねて、ローマの街の華やかさやその欺瞞に驚いたと伝えられます。私たちも、昔、行ってみて、どんな具合か体験するために跪いて登ってみましたが、膝が痛くてやめてしまいました。
イエス様は、苦しみながら天の高いところにおられる父なる神に赦してもらうことを教えたのではないのに、と思わされます。そのために、天から下り、私たちのために十字架にかかってくださった、私たちと同じ地平に立って、招いてくださったと、今日思い出すことが大切です。
4,勧め
「私についてきなさい」というイエス様の呼びかけを今日、私たちも聞きました。それは、ただ、ついていくという意思表示をするだけではありません。
最近流行りのFacebookやInstagramでは、「友達になる」とか、「フォロウする」といいますね。かんたんにフォロウするけれど、簡単に無視したり、適当な距離を持つこともあります。しかし、イエス様についていくということは、この類の「フォロウ」ではありません。
それは、「今までの自分にとどまるか、何か変革が起こるか」です。
イエス様についていくことを決めて、教会に通い、洗礼を受け、教会でも奉仕をし、ということを始めたのが私たちです。どんな変革が起こっているでしょうか?そして、どんな失敗をしているでしょうか?
私たちも、苦しい人、悲しい人、困難を抱えて生きていく人、寄留者・外国人とも共に生きる、その同じ地平に立っているでしょうか? 私たちも、苦しい時や失敗をするときもあります。その時は支えられる側にもなります。一緒に笑ったり、泣いたりする生き方に変えられたでしょうか?教会という、神様の大きな家族で生きているでしょうか?
それをマタイと一緒に聖書を読みながらイエス様に学び、生きていくのが今年の一年です。一緒に生きていきましょう。神様の祝福がありますように。
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。