2021年4月25日日曜日

週報・説教メッセージ 20210425

 



聖書の言葉 

聖書 ヨハネ10:11~18 (新186)

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。  わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。


説教「捨てること、得ること」徳弘浩隆師

1. 「羊」という感じが教えること

聖書の中には「羊」やそれにたとえた話が何度も出てきます。今日の聖書は、その代表ともいえる「良い羊飼い」のたとえ話です。聖書の舞台となった世界でなじみが深い羊は、その文化や生活に関係しています。しかし、文化や宗教は違う中国でも羊はとても興味深い意味を持っているようです。私は外国人の日本語の勉強のお手伝いをしていますが、漢字の成り立ちや羊という感じの仲間たちを見てみました。こんな説明があります。

『羊(ヨウ)』yángは、羊を漢字にした象形文字です。古代では羊は神聖な儀式、裁判、に使われていました。意味は『ひつじ』、『いのる』、『善い』です。

『養(ヨウ)』yǎ<ngは、良い肉を食べて養生する様子を表す形声文字です。羊(良い)+食(食べる・食物)=養(良い肉を食べて養生する。養う。やしなう)です。『美(ミ・ビ)』měiは、大きな美しい羊を表す会意文字です。漢字の足し算では、羊+大(大きい)=美(大きな美しい羊。美しい)です。羊は古代中国では、縁起の良い動物とされていました。その羊が大きいので、『善い』、『美しい』の意味に使われます。

といった具合です。「羊」は、良いという意味もあり、それと「食べる」が合わさって「養う」。「大きい」という字が合わさって「美しい」という感じが出来ていったそうです。聖書の話の「良い」「羊」飼いは、羊を愛し、「養う」のですが、漢字の文化の中でも通じる話だと、興味深く思います。

2. 聖書を学びましょう

イエス様は、良い羊飼いという話をしていますが、そういわれるには「悪い羊飼い」がいたのです。彼らを糾弾し、そうではない、本当の神様の愛を説明されたところが、大切なところです。なんなところから、イエス様のお話の本意と、今の私たちの生き方への教えを聞いていきましょう。

イスラエルの指導者たちは聖書の中でたびたび「羊飼い」にたとえられていました。エゼキエル書では、「羊を養わずに自分自身を養っているイスラエルの牧者たちは災いだ(エゼキエル34.2)」と神のことばを告げます。そして、彼らがその役目をはたしていないので、神自らが群れを探し、その世話をしようと語られるのです。そして、そのために「一人の牧者を起こす(エゼキエル34.23)」と約束されるのです。

当時のユダヤの国を治めるものや、ユダヤ教の指導者たちは、まさに、羊を「養」わず、自分を「養」っている羊飼いでした。自分の権威やメンツ、そして自分がかたくなに真実ことだけを大切にして、本当の神様の呼びかけを聞き分けることが出来ていなかったのです。民衆は「飼い主がいない羊」のように、苦しみ、絶望していたのです。そこに、神様が送られた「一人の牧者」こそ、「良い羊飼い」としてのイエス・キリストだったのです。この良い羊飼いは、自分を養うことばかり気にしていた悪い羊飼いたちとは違って、羊飼いを失って右往左往し、弱りはてていた羊をきちんと養い、そのために命すら捨てる方なのです。そして、その通りに、十字架で命を投げ出し、人々の身代わりに死に、神様のゆるしと救いをもたらしてくださったのです。この愛は、だれも奪い取ることが出来ないのです。命は奪っても、命を捨てるほどに愛してくれた愛は永遠に残り、時代を超えて、今の私たちの心も打ち震わせ、本当の愛やゆるしの生き方を教え、そこに呼び出してくれるのです。

3.振り返り

私たちはどうでしょうか? どんな生き方をしているでしょうか?一生懸命信仰をもって、正しく生きようとしているかもしれません。しかし、それだけでいいでしょうか?

尊い教えや、知恵の書や、預言の実現や、不思議な奇跡が人々を諭し驚かせ、神様に目を向けさせますが、それ以上に、神の子ご自身が愛とゆるしのゆえに命を捨てるという出来事は、私たちの心を揺さぶります。それを知る時に、私たちは、諍いや疑い、分裂や傲慢、自己中心という「罪」から自由にされて、そんなものに心を奪われない新しい生き方に呼び出されるのです。本当の神様の愛とゆるしに心を奪われたからです。神様は、イエス様は、一番大切な命を捨てることを通して、失っていた愛する子どもたち・罪深い私たちを、私たちとの関係を取り返すことをされました。捨てることは得ることだったのです。この教えと神様の出来事は、今まで私たちが漠然と感じ期待していた「宗教」とはまるで逆転の発想で、私たちを驚かせ、生まれ変わらせるのです。

私たちは、それに気づかなければ、変わることが出来ません。どんなに教えられ、強制されても、そして、自分の知識と信念で努力しても、代わることが出来ません。「悪い羊飼い」といわれた当時のユダヤ教指導者たちは、もっと学び、もっと命を懸けて神様の教えを守っていたのです。それでも、神様の声を聞き分けることが出来なかったのです。

イエス様は、イスラエルを政治的に回復するのでも、ローマから独立するのでも、自分が王様になって神の教えを事細かく反映した法律を作って国を支配して問題を解決しようとしたのではありませんでした。

問題の解決は、私たち一人一人が、神様の愛とゆるしの大きさに触れて、「心底変えられていくこと」、それを通してしか実現しないのです。だから、栄光の王様になっていくのではなく、みじめで悲惨な死に方を通して神の愛とゆるしを顕わすという予想外の方法で実現されたのです。それは、私たち一人一人の心の中で、始まっているのです。

4、勧め 

昨日は、外国人メンバーに助けてもらって、岐阜の教会の草刈りをしました。この季節から戦いが始まる雑草との戦いです。業者にお願いするには予算がなく、教会や関係の皆でするにはご高齢や病気、そしてなによりコロナ禍でいろんな人が一緒に作業をして御礼に食事をふるまうということが出来ません。私たち夫婦だけで頑張っても大変でした。そこで、教会の礼拝にも出てくれ、私が日本語を教えたり色々助けている「教会の外国人メンバー」で都合のつく人が手伝ってくれました。おりしも、国会の前では外国人労働者や難民申請者の人権への配慮を欠く「入管法改正案」に対して座り込みや反対運動が起こっています。問題意識を持つ同僚の牧師たちも声を上げ、中には国会前で活動している人もいます。彼らの働きを尊敬し、感謝します。私も時間や距離が許せば、そこに参加したい気持ちも少しありますが、むつかしいことです。しかし、自分にできることを選ぶこともできます。政治的なこともとても大切ですが、参加できない自分は、自分の心から、そして自分の身の回りのコミュニティから、何かを始めて何かを変え、それを示し、少しでも広げていくことが出来るのではないかと思います。そして、昨日の出来事は、図らずもそれを少しですが実現してくれました。自分が偉そうに外国人に教えたり、助けたり、ご馳走してあげるだけでなく、彼らが自分の大変さを助け、そして夕食も準備してくれてごちそうしてくれたのです。これが互いに助け合う「共生」の一つだと思わされ、感謝しました。政治や革命もとても大切です。人命が危ぶまれるぎりぎりの状況では特にです。しかし、イエス様は、私たちの心の中に「革命・生まれ変わり」を起こしてくれたのです。

聖書を学び、社会にも目を向け、祈り、神の声を聞き分ける、そこから新しい生き方を続けましょう。

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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説 救いの声を聴き分ける」

復活後第4主日の福音書は羊と羊飼いの譬えです。この出来事は9章の生まれつき目の見えない人の癒しに続くもので、その本質は見えることより聴くことが大事ということで、羊と羊飼いがお互いの声を聴き分けていることが肝要です。第一日課は、神殿の前でペトロに歩けるように癒された人にまつわる審判とペテロの弁明です。イエスさまは弟子たちに「引き渡された時は弁明の準備はしないように、語るべき言葉は与えられる」と言われていました。その通り語る言葉が与えられました。聖霊が働いたのです。弁明の中で「世を救う名はこの方の他、天下の誰にも与えられていない」と語りました。ペトロたちはこの名の声を聴き分けていました。この世の審判者たちは聴き分けることを拒みました。みことばの中で語られる聖霊の声、イエスさまの声を聴き分けていくことを祈り求めましょう。シャローム(三木久人)


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