聖書の言葉
聖書 ルカ24:36b~48 (新161)
「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 あなたがたはこれらのことの証人となる。
説教「目撃者と証人の違い」 徳弘浩隆師
1. ローマの休日という映画の題名の真意を知って
最近インターネットや教会の音響の設定を変えて、もっと良く成ればと調整中ですが、それに合わせて、うちのTVの契約も少し変更してみました。あまり日本のTV番組は見ないので節約のためにキャンセルしようかとも思いましたが、まず24時間日本語でニュースをやっているチャンネルもあるセットに変えようと思いました。そうしながら久しぶりにTVを見てみて、面白い番組で考えさせられました。NHKの番組でしたが、「ローマの休日」という映画の原題と、そこに込められた作者の深い意味を説明してくれていました。曰く、その原題は英語で「Roman Holiday」で日本語題もそのままで何も問題がないと思えば大間違い。普通に英語でいえば「Holiday in Rome」のところを「Roman Holiday」と名付けたのには深い意味があるとこと。英語で「Roman Holiday」といえば、独特の慣用句・言い回しで、「他人の犠牲や苦労をもとにして利益を得たり、楽しんだりすること」を表すそうです。ローマ帝国の時代にコロッセオでローマ兵が決闘をするのをたくさんのローマ市民は楽しんで娯楽にもなっていました。人の決闘や死をもとにして、それを楽しんでいたのです。そこからきた言葉で、ローマ式の休日・娯楽という言い回しで、「人の犠牲を食い物にして利益を得たり楽しんだりすること」を表しているそうです。映画の中でも、主人公の二人はそれぞれ、相手を利用してお金や自由を得ようとするシーンもありながら、そうはしなかったというお話です。そして、第二次大戦後のアメリカ社会での映画界や脚本家に対する「赤狩り(共産主義者糾弾)」の締め付けへの皮肉をも込めていたとのこと。ロマンチックな映画の題名と思いきや、込められた2重3重の意味を知り、勉強になりました。ちなみに、「ローマ法王の休日」というローマ法王に選ばれてしまった枢機卿の迷いや悩みをコミカルに描いた映画もお勧めですが、これも原題は「Habemus papan」というイタリア語で「新しい法皇様です」と紹介する言葉ですが、「ローマの休日」にかけているところも興味深いなと思い出しました。
2. 聖書を学びましょう
さて、今日の聖書の話は、復活したイエス様が、あらかじめ予告されていたこと、そしてそれは旧約聖書に書かれ預言されていたこととして、ご自分の十字架の死と復活の出来事を説明されます。使徒言行録の場所では、使徒ペテロが人々の前で堂々と、旧約聖書からひも解いて、イエス・キリストの十字架と復活、そのメシアとしての力や神様のご計画を説明し、説教をしています。
聞いていたユダヤ教の人々や、イエス様の弟子たちも、それぞれ、旧約聖書の言葉や預言を頭では知ってはいましたが、その深い意味を、神様のご計画の深い奥義を理解することが出来たのはわずかでした。
イエス様が本当に復活してお会いした弟子達でしたが、そのことを話し合っている最中に現れた復活のイエス様に出会うと、また、驚いたり、うろたえたり、信じられなかったりする弟子たちなのでした。それはちょうど、「ローマの休日」という映画を知っていても、その題名の「素敵さ」にあこがれを感じたりしても、その題名に込められた深い意味をほとんどの人が、あるいは日本人が知らなかったのと同じことだなと思わされました。
聖書の言葉は、神様からの知恵をいただき、解き明かしてもらわなければ見えてこないものがあります。イエス様の生涯やその言葉という虫メガネを通して旧約聖書を見るならば、そこに神様の計画や思い、そして愛が見えてくるのです。それが「心の目を開く」ということでしょう。
3.振り返り
私たちはどうでしょうか?「何度イエス様が言われたら弟子たちは分かるんだろうか」と、あきれながら聖書を読むことがあるかもしれませんが、彼らを笑うことはできません。聖書の深い意味はキリストの解き明かしがなければ、見えてこなかったのです。あらかじめ予告され、それが目の前で起こっても、です。
「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」とイエス様は説明されました。そして、「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 あなたがたはこれらのことの証人となる。」とも言われたのです。
見ることと、理解することは違います。そして、「目撃者」と「証人」は違うのです。目撃者が正しく理解できるかどうかという最初の壁があるでしょう。そして、正しく理解したとしても、それを自分の心にしまうか、人に伝えるかによって、「目撃者」と「証人」は分かれてしまいます。もっと言えば、仮に理解したとしても、命の危険や自分の立場を考えて、人前に立って証言する「証人」になるかどうかもまた、分かれてくるのです。そこには、「目撃者」、「理解者」、「証人」の段階があるかもしれません。
使徒言行録のペテロは説教をしました。「神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」と。しかし、これを読んで「私はそれを直接見ていないから、信じられないし、証人にはなれない」と思うかもしれません。しかしペテロはこう続けます。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。」と、信仰によって癒された人の出来事を説明します。私たちも、イエス様を信じる信仰によって、人生の何かが変わったならば、イエス様を信じ、それを伝える「証人」になりうるのです。
4、勧め
問題や面倒なことがたくさんある社会、生きにくさを感じる人生。誰もがそう感じながら生きています。そんなとき、ペテロの前で癒された人のように、「キリストを信じてみる信仰」さえあれば、直接のイエス様との出会いでなくても、そこにイエス様のなさる業、解決があるのです。迷ってばかりいないで、信じて祈ってみませんか?今まで気が付かなかったことに気づかされ、教えられ、悔い改めさせられ、解決や力をもいただけるはずです。
ちょうど、「ローマの休日」の本当の意味と同じように、「イエス様の十字架によってゆるし救っていただいた自分のいのち」は、「他人の犠牲の上に利益を得ている」ということにも気づかされます。聖書の奥義と、映画の題名の真意は興味深いものでした。もっと一緒に聖書を学びませんか?神様の祝福を祈ります。
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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説 「ペトロの説教」
福音書の日課は、イエスさまが復活して弟子たちの中に顕れるという出来事です。先週はヨハネ福音書からでしたが、今週はルカ福音書です。イエスさまは魚の干物を食べて御自身が幽霊ではなく肉体を持って復活されたことを示しました。この福音書に対応する第一日課は使徒言行録3章です。ペトロは神殿で一人の人の足を癒し歩けるようにしました。ユダヤの祭司や学者、議員たちはイエスを処刑したばかりなのに、またまたこのような事が起こったとペトロに尋ねようとしました。そこでペトロが説教をしました。これはペトロ自身の力量によるものではなく、イエスさまの恵みによって行われたことだと。歩けるようにされたのも聖霊の働きですが、もっとも大切な働きがペトロの説教でした。
ペトロに限らず、イエスさまを証しすること、聖書を証しすること、これは全て聖霊の働きです。良い働きを祈り求めていきましょう。シャローム!(三木久人)
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