今週の聖書の言葉
聖書
使徒言行録4:32~35 (新220)
信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。 信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。
ヨハネ20:19~31 (新210)から
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
説教「心も思いも一つに」 徳弘浩隆師
1. 見ると聞くでは大違い!?
コロナ禍で宅配事業の配送業者が大変忙しくなり、売り上げも伸ばしているそうですね。私も人が密集する店で買い物をするのがあまりよくないと思い、小さなものでもいろいろと利用させてもらっています。
しかし、誰もが一度は経験したことがあると思う失敗もあります。それは、ネット上の写真や説明と、届いたものがイメージが違っているということです。中には、わざと、商品の写真のポスターを安く売っていて、その商品そのものと思って注文した人が、ポスターだけが届いて「だまされた」と思っても、もう一度ネット上の説明をよく見たら「あの有名な商品のポスター」と書いてあって、苦情も言えないという失敗談もあるそうです。そうでなくても、見た目と実際は大きさや質感が違って、失敗したと思うことは誰にもあるかもしれません。
そこで思うことは、「やはり実際に手に取って、触ってみてから購入しないとだめだ」という教訓かもしれません。それは生きていく上の知恵であり、常識といえることかもしれません。しかし、今日の聖書は、「見ないで信じることの大切さ」を伝えます。どうも納得がいかないという複雑な気持ちになるかもしれません。聖書を学んでいきましょう。
2. 聖書を学びましょう
復活したイエス様と弟子たちは出会っていきます。しかし、その場所に居合わせなかったトマスは、自分だけが見ていないので、信じることが出来ません。だから、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったのです。すると8日後にもう一度弟子たちが家の中にいるとき、イエス様は現れました。その時は、そのトマスも一緒にいました。するとイエス様はこう言われました「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。それでトマスは自分の不信と、それをすべてご存じだったイエス様を知って、恐れ入って答えます。「わたしの主、わたしの神よ」と。
この出来事で、トマスといえば「不信仰物の代名詞」のように言われてしまいますけれど、考えてみたら気の毒な話です。私たちは、実際に目で見て、手に取らなければ、買い物でも人生の選択でも、大きな失敗をすることがあると知っているからです。そしてそれこそが、大人で、経験豊かな人の生き方だともいえるでしょう。何が悪かったのでしょうか?
それは、「期待と実際の違い」、あるいは「聞いていたことと起こったことの違い」ということかもしれません。トマスは弟子のひとりとして、イエス様と生活を共にしてイエス様がどんな方か知っていました。そのうえで、期待をし従っていたのです。そして、イエス様ご自身からいろいろな教えを聞いていました。そして、このキリストの十字架の苦しみと復活についてもあらかじめ聞いていたのです。そのうえでそれを信じられるか、そこまでかたくなに否定するか、という問題でした。それは、日ごろからの「人間関係」や「信頼関係」という問題でもあったといえるかもしれません。イエス様との関係でいえば、それが「信仰」といえるでしょう。普段は良くても、とんでもないことが起こった時、または自分が期待することと違うことが起こった時、その人の真価が問われます。イエス様は決して、むちゃな事、とても信じられないことをむりやり飲み込んで信じろと、盲信をするように言われたのではないのです。
3.振り返り
私たちの生活はどうでしょうか?物事が順調で、自分の期待通りになる時には信仰をもっているけれど、自分の期待と違ってきたときには神様を忘れ、恨みさえすることがないでしょうか?困った時だけ一生懸命に神様にお祈りして、うまくいけば神様ありがとうということはあっても、あんまり困ることが続くと、神様を恨んだり、自分の運命を呪ったります。しかし、イエス様は続けてこうも言われました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
信じる者は、どのように生きるでしょうか?今日は少しそこまで踏み込んで学んでいきましょう。今日の使徒言行録にその後の出来事が書かれています。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた」。ここに「ただ信じましょう」ではなくて、「その後どのように生きるべきか」という姿が示されています。しかし、実は「心も思いも一つに」ということはむつかしいことでもあります。もともとイエス様の使徒たちは、取税人をしていたローマ寄りの者も、熱心等のような反ローマ革命派のような者もいました。彼らの理想や判断基準はまるで反対でした。それが「心も思いも一つに」していたのは、復活のキリストを信じる故です。
私たちの教会も、いろんな経歴や考え方の人もいます。教会で出会わなければ、社会では出会うことも、一緒に活動をすることもなかったような組み合わせもあるでしょう。しかし、私たちの真ん中に、復活のイエス・キリストがいるから、それが可能になるのです。彼らは心や思いだけではなくて、持ち物も共有し、宣教し、人々から非常に好意を持たれていました。それが、この信仰の結果の姿でした。
4、勧め
最後にブラジルにいる日本人宣教師の方が送ってきた画像と文章を紹介します。「これが現在のブラジルの悲惨な状況! 本当に悲しく辛いなかで、復活のイエスを信じ、希望を失わないで祈り続けるのみ。<20人がパンデミックのもとで億万長者になり、1900万人が飢えに苦しみ、24時間の内に4195人がコロナで死んでいる>」とあります。世界最大のカトリック人口がいてクリスチャンも多い国ですが、問題もたくさんあります。コロナ禍の状況は人間の弱さや罪を浮き彫りして見せてくれます。これを見ないふりをして、見ても信じない、見ても自分の生活や行動に変容が起きないとしたら、イエス様はきっと悲しまれるでしょう。そして私たちも決してそれを他人事として責めることが出来ない、弱さを持っていることも知っています。信じるものとなって、そのように生きていきたいと思います。
神様の祝福を祈ります。
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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説 「理想の教会」
復活節になりますと主日の第一日課は旧約聖書ではなく使徒言行録になります。もちろん、これについては理由があります。復活節の目的が聖霊についての学びだからです。旧約聖書によっても聖霊の働きを知ることはできます。聖霊は創世記1章2節から登場していますし、ルターによれば詩編はキリストの祈り、つまり聖霊の息使い、預言書はそのまま聖霊を語った言葉です。ただ奥義として隠されています。それに対して、使徒言行録はその本質が聖霊の働き。聖霊がそれとわかるように働いておられます。そこでペンテコステに向けて聖霊について理解を得るために使徒言行録を読むのです。さて今週の第一日課は言わば教会の理想像です。これが実際だったかどうかはともかく、あまり長続きしなかったようです。アナニヤ、サッピラの事件もありました。教会はあくまで人が作り上げるものではなく、聖霊が働いて作り上げるものです。聖霊の働きを感じていきましょう。シャローム!(三木久人)
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