2020年6月7日日曜日

週報 説教 20200607




20200607 説教 「三つの心」徳弘浩隆師 
1.   導入
 今日は、キリスト教会のカレンダーでは、「三位一体主日」といいます。毎年出てきますが、むつかしい言葉や考え方かもしれません。聖書が伝え、キリスト教会が理解し・信じてきた「神様」は、「父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神」の「三つが一つである神様である」ということです。
週報の4ページにも、教会員の三木兄弟が書いてくださっている、三位一体について説明のコラムがありますから、どうぞ、参考にしてください。
私たちも、お互いに知合いですが、お互いが知っている顔は、限界があるかもしれません。それぞれ、私たちは、付き合いの範囲や社会で、見せている顔が違うということもあるでしょう。誰かにとっては厳しい父親の顔、しかし同時にお兄さんやお姉さんにとっては安心して何でも話す弟の顔、会社に行けば上司として強い指導力がある顔、しかし取引先やお客さんにとっては物腰柔らかな何でも聞いてくれる顔、なんていうこともあるのです。私も、厳しい父親が、会社や町内会で仕事をしているときは、やさしい気の利いた人に急に変わって、「ああ、父にもこういう顔もあるんだなぁ」とびっくりしたことがあります。
三つで一つという「三位一体の神」をそのように類推して考えるとわかりやすいのですが、だからと言ってそれできれいに説明できていると思ったら、大きな間違いだとも言えます。そんな間違いを犯さないように、今日は、神様について聖書が教えるところを学びましょう。
私たちにとって知恵や知識ですべてを理解することはむつかしいですから、神様がそれぞれの三つの形で私たちに現れ、働きかけてくださると、とらえ、信じることがよいのかもしれません。
そして、少しでも理解するためにだけではなくて、今の社会で生きている私たちに対して、そんな神様は、どんなメッセージを持っていらっしゃるかということを今日一緒に聞き取っていくことが大切です。
2.   聖書
 1)今日の聖書では、旧約聖書では、天地創造の物語が選ばれています。
2)そして、第二の日課では、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」という祝福の言葉が選ばれています。そこには「イエス・キリスト、神、聖霊」という言葉が出て、「その神の祝福があるように」という祈願の文章になっています。
3)そして福音書では、マタイによる福音書の最後の部分から、「すべての人に福音を伝え、私の弟子にしなさい」と弟子たちに言われた「大宣教命令」とものちに呼ばれるようになった部分が選ばれています。そこに「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」るようにと、イエス様ご自身が命じておられるのです。
3.   振り返り
週報を作り、説教の準備をしながら、新聞の広告が目に留まりました。それからいろいろと考えさせられ、「三つにいます神様の気持ち・心」を、考えてみたいと思わされました。
それは、卑近な話で恐縮すが「スーパー三心」の広告でした。「三心」という名前を最初見たときは「変わった名前のスーパーだなぁ」と思いましたが、今では慣れてしまっていて、気づかないことに気づかされたからです。広告には、こう書かれていました。「感謝、誠実、努力、三つの心の三心です」と。「なるほど、そういう意味があったのか」と驚きました。実は仏教用語でも、「三心」というのがあるそうですね。これは長くなるので止めておきましょう。
私が引っ越してきたころは、教会のそばの三心のネオンサインが故障していて、夜に行くと「三」ではなくて「二」になっている頃がありました。一つ足らないだけではなくて、二つだと全く意味が違ってきます。「二心のものよ」と聖書でもヤコブの手紙で「信仰を持っても疑っている人」をいさめるように使われていますね。そうならないよう注意しないといけません。
さて、そんなことを知り、考えながら過ごしていると、「聖書の言う三つにして一つである三位一体の神様の御心は、どんなものか」と考えさせられたのです。
1)まず、今日の旧約聖書で読まれた「創造の神様」。大きな不思議な力で天地万物を造られたのですが、見落としてはいけない言葉もあります。「神はご自分にかたどって(似せて)人を作った」そして、被造物を造られたときは「良しとされた」と書かれていますが、すべてができて人ができて人を祝福したこの六日目には「極めて良かった」と書かれています。神は全能の方であり、「よいものを喜ばれる心、正しい心」を持った方でした。
2)しかし、人は神を裏切り、罪を犯し、いさかいや憎しみ殺し合う罪びととなってしまいました。それを救うために、この世に下されたのが人の姿で現れたイエス・キリストでした。人を愛し、赦し、裏切られても、「父よ彼らをゆるしてください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」と祈りながら十字架で私たちのために死んでくれた「愛の心」です。
3)そして、イエスキリストが天に昇って行かれた後、約束されたとおりに送られた聖霊なる神は「弁護者」と呼ばれ「慰め主の心」をもち、私たちの心に働きかけて心を燃やしてくださる方です。
三位一体なる神様の心は、「正しい心を持つ方」それ故に罪びとをゆるせないのですが、イエス・キリストとして地上に来られた自己を犠牲にする「愛の心を持つ方」、そして苦しい時にそばに来て弁護し助けてくれる「慰めの心を持った方」という三つの心を思い描くことができます。
4.   勧め
 私たちは、どんな心を持っているでしょうか? 人によって、いろんなタイプの人がいるでしょう。間違ったことが許せない正しい人、それは他人にとても厳しい人が多いです。いいよ、いいよとなんでもゆるしてあげる優しい人。つらく苦しい時にそばにいてくれる人。あなたはどんなタイプですか?
しかし、その三つの中の一つだけではなくて、その三つの心を持てるなら、どんなに良いでしょう。それはきっと人が罪を犯す前の「極めて良かった」と神様が喜ばれた人の本来の姿かもしれません。
正しさを愛し、しかし過ちをゆるしてあげ、いつも誰かの助けになってあげる、そんな生き方が求められています。なぜなら、神様がそうだからです。そして、神様の荷姿に私たちは本来造られているからです

私たちは、洗礼を受けて罪赦されたものですが、依然として罪の縄目の中を生きています。本当に悔い改めて、神様を見上げて生きていきましょう。「二心」ではなく、スーパーマーケットがいう「三心」でもなく、三位一体の神様の心を感じながら生きていきましょう。その時、私たちの人生も、家庭も、社会も、世界も、神様の支配、神の国が実現していく、幸せで平和のある世界になるはずです。


0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。