2020年6月20日土曜日

週報・説教原稿 20200621





聖書の学び 今週の聖書の言葉

 人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。
(新約聖書 マタイによる福音書1026-30節)


説教(解説) 「二羽の雀」   徳弘浩隆師
1.   導入
教会のカレンダーでは、クリスマスからの一連のイエス様の生涯の出来事を、行事に沿って学んできましたが、ペンテコステ、三位一体主日で一区切りとなりました。その後、今年はマタイによる福音書に沿って、イエス様の教えを学んでいく年になっています。
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」と先週読みました。そんな人々を見て、神に祈り、12人の弟子たちを選びました。そして、彼らを人々の救いのために派遣することになります。
しかしその道は、平坦なものではありません。「いろいろな難しいこともあるよ」とあらかじめイエス様はお話しされます。今日は、そんなお話です。
「神様を信じたら、何も心配することがない。病気も奇跡で治るし、商売も繁盛する。面倒な問題もすぐに解決する」と思いませんか?そういうこともあります。しかし、そうばかりではないようですね。
ブラジルで「どんな病気でも奇跡で癒す教会」と熱狂的なグループがありますが、今回の新型コロナウイルスの拡大が深刻になってくると、「今日の病気の癒しの集会は、病気が拡大しているのでお休みです」という看板を出して閉鎖していたとか。そしてそういう教会の指導者自身も感染してしまいましたが、病院に入院して治療を受けて退院。「コロナに打ち勝った」と宣伝しているというニュースを見ました。たくさんの人はあきれて、苦笑いしていました。
馬鹿にしたり、批判するつもりではありません。私たちの、生き方、神様との関係を、そして、医学や社会との関係を、冷静にしっかりと考えることが大切だと、そう深く思わされます。 

2. 聖書
先週の聖書でイエスさまは伝えています。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」 そして、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と。
苦しんでいる、困り果てている人を救うために派遣するのですが、行った先で歓迎されることもあるが、そればかりではない、とあらかじめイエス様は警告されているのです。
今日の聖書の福音書の最後はこうです。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
神は愛ではないのでしょうか?イエスキリストは愛の方ではなかったのでしょうか?愛を説けば、愛を広めればみんなは喜び、歓迎し、ついてきてくれるはずではないでしょうか?どうしてイエス様はこんな厳しい言葉も語られているのでしょうか?

3. 振り返り
私たちの生活を振り返ると、答えはそこにあります。それは、私たちの側に問題があるからです。人間は、神を離れ、罪びととなってしまいました。神を恐れず、神様との関係がなくなり、自分中心に生きています。それぞれがそうですから、互いに利害が衝突します。疑いや裏切りもあります。いじめ、争い、喧嘩や紛争、戦争も後を絶ちません。それが、今の私たちの姿です。
私たちは、神様に立ち返り、悔い改め、正しい生き方を選ぶ必要があります。だから、教会では、洗礼を受け、聖書を読み、礼拝で学び祈り、という信仰生活を続けています。そうでなければ、いつでも、罪の生き方に後戻りしてしまうからです。
これは、今までの生き方に決別することも含みます。すべてではありません。社会をすてて出家したり、今までの生活や友人関係をすべて切り捨てることではありません。今までの生活も続けながら、基本的な基礎の部分を「神様中心」に切り替えていくことです。
そう思うと、今日のイエス様の「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。」という言葉の意味が分かりやすく響いてきます。
自分だけのことを思うのではなく隣人のことを、私利私欲ではなく社会のことを、自分の幸せだけではなくて社会で困っている人のことを思うようにします。いつもそうしていくことはむつかしいかもしれません。私たちの心の中心に神様の座る席を用意して、今まで自分がふんぞり返っていた席を譲ることです。そして、いつも横に座っている神様に相談し、考え、決め、行動することです。 

4. 勧め
しかし、いつもいつもそうできていない自分がいます。だから、私たちは神様に時々お詫びをします。悔い改めです。そして、そんな自分を赦し低下してくださる神様に感謝をします。神様の言葉をもう一度聞いて、心を新たにします。また、自分の必要を神様に正直にお祈りしてお願いします。それが、日曜日の礼拝の大切な意味ですし、そのリズムがなくなると、また昔の自分に戻ってしまうかもしれません。教会の礼拝を大切にしましょう。どなたでも歓迎です。
一生懸命正しく生きていても、イエス様が弟子たちに語られたように、むつかしい問題が起こるかもしれません。人から理解されず、悪く思われたり、迫害されることもあります。それは、自分も含めて、人々は罪びとだからです。
怖くて、心配で、嫌で、つぶれそうになる時もあります。そんな私たちに、イエス様は今日、こうも語っておられます。「雀を見よ」というのです。神殿で供え物をするときに、一番安くてごろに買えるのがこの一アサリオンの2羽の雀だったようです。その雀一羽すら、神のゆるしがなければとることができないのだよと。それに比べれば、あなたの命は、あなたの人生は、どれほど大きな価値があるだろうか。神様は、あなたを守ってくれる。だから、安心しなさい。というのです。
今年は蒸し暑さが体に応えて扇風機を4つも買ってしまいました。小さなサーキュレータというのが便利ですね。去年の夏はエアコンをいくつか買いましたが、エアコンだけだと夏風邪で調子が悪いので、今年の夏は扇風機を買い、網戸を張り替えたりしています。
それでも、家の中はやはり息苦しく、教会のわきに作ったいすを並べているおしゃべり広場、あそこの方が気持ちがよいので、よくそこに座って考え事をしたり、ノートパソコンを持って行って仕事をしたりしています。通りかかる人とあいさつしたり、時々来ていた中学生とおしゃべりしたりもできます。午後は西日が厳しいですが、ちょうど礼拝堂の陰ですし、木陰にもなり、気持ちがよい場所です。数羽の雀がやってきて戯れています。私も鳴きまねをして返事をしてみると、ちょっと驚いたような、仲間を探すようなしぐさもして、息抜きの時間にもなります。アッシジの聖フランシスコは鳥たちが集まり、鳥たちにも説教をしたという伝説がありますが、まだそこまではいきません。
今週は、雀を見あげながら、その声を聴きながら、神様の愛を思い出して、生活をしていきましょう。
神様の祝福がありますように。

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